読みかけの本に栞を挟んで、口元に手を当てて欠伸をした瞬間に、闇音とばっちり目が合ってしまった。大きく口を開けて固まった私を見て、闇音はふっと小馬鹿にしたように笑って首を左右に振る。その行動にむっとした私は、まず口を閉じてから闇音を力の限り睨みつけた。
「それで睨んでいるつもりか?」
 闇音は顔を上げずに書類に走り書きをする。余裕綽綽な態度に沸々と苛立ちが煮えてきて、私はすっと背筋を伸ばした。
「睨んでるつもりですけど、何か?」
 声を低くして言ったのに、闇音はがくんと頭を垂れて笑い声を漏らした。その反応がさらに私の怒りを煽ると気づいているはずなのに、闇音はそれでも笑いを止めない――否、止められないのかもしれない。
「何? そんなに笑われるようなことしてないけど」
「――いや、悪い。ただ……」
「ただ?」
 闇音は付書院に肘をつくと顔を上げる。そして未だにしかめっ面をしている私に向かって穏やかに微笑みかけた。そんな表情で見つめられるとは思っていなかった私の心臓は、準備が間に合わずにどきりと跳ねた。
「幸せだと思って」
 闇音はぽつりとそう言うと、微笑んだまま書類に目を戻す。その一言だけで、一瞬で怒りが吹き飛んだ私は、ただただ目を見張って闇音を見つめた。
 幸せ。
 天界へ来てからは、それはもう手の届かない場所にあるものだと思っていた。私が佇むのは暗い影で、幸せは光の元にあるのだと。けれど気がつけば、いつの間にか私は光の元にいる――闇音と一緒に。
「もうこんな気持ちになれる日は来ないと思っていた。兄上がいなくなって、傍にいる人間をすべて邪見に扱って、皆から嫌われて――俺も皆を嫌って。もう誰のことも好きになってはいけないと、幸せな気持ちなどもう二度と感じられないと」
 書類の上を走る筆を止めずに、闇音は淡々と紡ぐ。静かな声からは闇音の感情は読み取れない。静かに落ちていくその言葉に、私はただ耳を傾けた。
「だが、そうでもないのかもしれないな。お前といると心が安らぐ」
 闇音はそう言って、ゆっくりと顔を上げた。慈しむように細められた瞳に映っているのは、私だった。
「思わぬ事で、笑わせてもらえるし」
「……一言余計です」
 どきどきとうるさく打つ心臓を無視して闇音から顔を背けると、小さな笑い声が耳を打った。これまでの闇音の笑い声は、いつも見下すような愉悦を含む声だった。それが今は、他人を慈しむような穏和な声になっている。
 闇音が少しだけでも鎧を脱ぐことができたのだと知れるその声に、ほっとする。闇音が抱える過去の重荷を少しでも軽くすることができたのかもしれない。それに気づいたと同時に、闇音の過去へ向かって一生懸命だった少し前の私が、報われた気がした。
 私は感情を隠したまま、栞を挟んだばかりの本を持ち上げて、わざと眉根を寄せた表情を闇音へ向ける。
「これ、難しいのよ。というか、闇音の部屋にある本は全部私には難解すぎて息抜きにならないわ」
「息抜きが必要なのか? お前に」
「……それ、前にも言われた気がする」
「言った記憶はないが?」
 闇音の意地悪な表情に、凪いでいた怒りが沸々と甦る。私は再び本気でむっとして、口を開いた。
「まだ嫁いで間もないとき、街に行きたいって言った日。蒼士さんが『たまの息抜きぐらいよろしいのではないですか?』って言ってくれたら、闇音は『大した苦労もしてない癖に、息抜きが必要なのか?』っていう顔で私を見たわ」
「……事実なんだから仕方ないだろう。それより、その俺の真似みたいなのは何だ。全然似てない」
「似てるわ。そっくりすぎて私自身もびっくりするほどよ」
 つんと顔を背けると、闇音が小声で「似ていない」と不服そうに呟いた。その声があまりにも拗ねた子どものようで、私の心は一瞬で絆されそうになってしまう。けれど自分の心に叱咤して、私は顔を背けたままでいる。
 そんな私の耳にかさかさと紙の擦れる音が聞こえてきた。書類をまとめる音ではない。何か探し物をしているような音だ。
 それが気になってゆっくりと目だけを音の方へ向けると、案の定、闇音は資料の山の中から何かを探しているようだった。
「何か探し物?」
 それなら手伝う、と続けようとした私を遮るように闇音は小さな冊子を手にして私を真っ直ぐ見つめた。それからぶっきら棒にその本を私に差し出した。
「……これなら読み易いとは思うが。小説だ」
 その言葉を一瞬理解できなかった私はきょとんと目を見張って、それからはっと我に返った。闇音は居心地が悪そうに、もう一度私へ向けて本を差し出す。私はそっと闇音に近づいて、差し出された本を手に取った。厚みはずっしりとある文庫サイズのその本を受け取って、私はそれをじっと食い入るように見下ろした。
「これ、面白いの?」
「さあ……読んでいないから知らない。俺は物語を読まないから」
「そっか……」
 本を見つめてから、丁寧に表紙を開く。何枚か頁を捲って数行目を通してみた。読み易い文章に、どんどんと目は進んでいく。
「もしお前が気にいったなら、やる」
 その声に本から顔を上げて、闇音を真っ直ぐ見つめた。
「いいの?」
「さっきも言っただろう。俺は小説を読まないからな」
「……ありがとう」
 頁を閉じてから表紙にゆっくりと手を置いて、壊れ物を扱うようにそっと撫でる。乱暴に扱ってしまうと、手から霞んで消えてしまいそうな気がした。
「気に入らなければ、別に無理にお前に押し付けるつもりは」
「きっと気に入ると思う。すごく素敵なお話のような気がするから」
 私は闇音の台詞を途中で遮って顔を上げると、自然に浮かぶ笑みを闇音へ向けた。
 この本は闇音から私への初めての贈り物だ。それがたとえ、闇音が小説を読まないからという理由でも、私にとってはとても大切なものだ。その気持ちが闇音に伝わるように、私はもう一度微笑んだ。
「ありがとう。大切にするね」
 本を胸に当てて抱えるようにしてお礼を紡ぐと、闇音はなぜか困ったように漆黒の髪を掻き上げた。その反応を不思議に思いながら、私は本を膝の上に乗せた。
「闇音は本も頂いたりするの? それか間違って買っちゃったの?」
 改めて頁を丁寧に捲りながら何気なく訊ねる。すぐに返ってくると思っていた答えがなかなか返ってこないことに、さらに不思議に思って顔を上げると、闇音は顔を逸らして頬杖をついていた。
「いや」
 短く紡がれた返事に、私は首を傾げてまじまじと闇音を見つめる。
「『いや』?」
 ゆっくりと闇音の返事を繰り返してから、私はその答えの意味に気づいた。改めて本を見下ろすと、先程にも増してそれが愛おしく思えた。
「ありがとう。本当に大切にするから」
 唸るような闇音の声を聞きながら、初めての贈り物を――闇音が私のために選んでくれた贈り物を、大切に大切に手に包み込んだ。

 

 

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