本の頁を捲って、最初の数行を改めて読む。お伽噺のような夢が溢れた始まりはとても優美だ。けれどこの本を選んでくれたのが闇音だと思うと、どうしてもギャップを感じてしまう。闇音がもしも小説を読むなら――落ち着いた、清涼な文体の物語だと思う。
 ちらりと闇音へ目を向ける。真っ直ぐに背筋を伸ばしてすらすらと筆を走らせる姿はあまりにも美しい。闇音の美貌にそろそろ慣れてきた頃だけれど、こうして改めて見る度にその秀麗さに少し怖気づいてしまう自分がいる。
 本を持つ自分の両手を見下ろして、小さく溜め息を零した。私はあまりにも平凡すぎる。容姿も考え方も、何もかもが――闇音に釣り合えない程に。
「どうした?」
 突然の心地よく響く声にびくりと曲がっていた背を伸ばす。闇音はそんな私の反応に驚いたのか、目を丸くしていた。
「驚かしたか? 悪かった」
「ううん。そうじゃないんだけど」
 ふるふると頭を振って、笑顔を向ける。けれど上手く笑顔が作れなかったのか、闇音は眉を潜めた。かたんと筆立てに筆を置く音が静寂を破るように部屋に響き渡って、私は表情を戻した。
「どうかしたのか? 溜め息なんか吐いて」
 闇音の指摘に私は思わず左手で唇を抑えた。闇音は私を心の底まで見抜くような冷静な瞳で見つめてから、ゆっくりと首を傾げた。
「退屈か?」
「ううん」
「では何か不満があるのか?」
「そうじゃないけど……」
「けど?」
 口籠る私を促しながら、闇音は頬杖をついて姿勢を崩した。こうして姿勢を崩した姿すら、誰の目をも奪うってしまう。私が闇音の隣にいられるのは、私が?斎野宮の姫?だからに他ならない。それに思い至ってしまう度に、私は自分が小さく感じられてしまう。それ以外に取り柄という取り柄すらない自分に気づいて、取り留めもない思考に陥ってしまう。
 もう一度、今度は落ち着くために小さく深呼吸を繰り返す。ぐるぐると回るマイナスの感情と思考を追い出すように息を吐き出して、私は闇音を真っ直ぐ見た。その顔にあるのは見慣れた蔑みではなく、心配そうな表情だった。
「何でもないわ。不満なんてないし別に何もないから、心配しないで」
 肩の力を抜いて微笑む。けれどそれでも闇音は納得しかねた様子で私を射抜いていた。その瞳に怖気づきそうになって、目を逸らそうとしたその時だった。
「失礼いたします」
 廊下から顔を出した真咲さんが闇音へ声をかけた。闇音は私から目を外して真咲さんを一瞥すると、「何だ」と静かに問いかけた。
「白月当主三大の伊藤譲様がお見えです」
「伊藤譲が?」
「はい。既に別棟の応接間にお通ししております。それと」
 真咲さんはそこで言葉を切ると、初めて私へ視線を送った。姿を見せてから真咲さんは避けているように私を見ないようにしていたのだ。
「同じく応接間で聖黒さんがお待ちです」
「聖黒さんも、ですか?」
「はい」
 きょとんとして訊ねると、真咲さんは頭を垂れた。譲さんと聖黒さんの組み合わせは珍しい。なぜ白月家と北家の二人が同じ応接間で闇音を待つ必要があるのだろう――。
 そこまで考えて、ふと思い浮かぶ事柄が一つあった。きっと闇音は譲さんの来訪ということで、既に気がついていたのだろう。闇音は私に向かってただ頷いた。彼が私を見る目は静かで、感情が読めない。
「真咲、お前は仕事を続けろ。美月」
 闇音は立ち上がって、私に手を伸ばした。その手が持つ意味は、一体何だろう?
「お前も一緒に来るか?」
 問い掛けの口調の中に、否めない強さがあった。
 そうだ。私は必ずその場で聞く必要がある。見届ける必要がある。それが私の望んだことだったのだから。
「一緒に行く。一緒に、聞くわ」
 差し出された手を取って、しっかりと握る。立ち上がって闇音の隣に並ぶと、心の底から温かい感情が湧き上がるのを感じる。支えてくれる温かさと、導いてくれる力強さを与えてくれる闇音の手に、勇気を貰いながら一歩踏み出す。
 私はもう向き合える。今は闇音が好きだからとか、そんな簡単な理由ではない。私はちゃんと、周りの人たちの未来へ向き合う強さを持っている。それは闇音が隣にいてくれているお陰だ。
「泉水さんと小梅さんの結婚、上手く進んだのかな」
 そっと呟くと、隣の闇音が「さあな」と言いながら小さく息を吐いた。その言葉と吐息の中に、どうでもいいという感情と、気になるという感情の相反した温度が感じられた。
「だが、上手く進んだんだろう。わざわざ三大筆頭が黒月まで来たんだ」
「そっか。上手く進んだんだといいな」
「美月――」
 唐突に立ち止まった闇音に振り向いた瞬間、応接間の障子が開いた。部屋の中から障子に手を掛けた聖黒さんが、闇音と私に丁寧に一礼する。その後ろに垣間見えた譲さんも、ゆっくりと手をついて礼をした。
 私は二人に向かって軽く目礼してから、もう一度闇音へ目を上げる。闇音は身体中の息すべてを吐き出すような重い溜め息を吐いてから、私の方は見ずに部屋へ足を踏み入れた。

 

 

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