「いい加減に機嫌を直せ」
 少し苛立った闇音の声は、これまでの生活の中でなじみ深い声音だった。私は闇音に背を向けて縁側に座ったまま、石庭を睨みつけていた。
 石庭に罪はない。それはもちろん分かっている。ただ行き場のない怒りに似た焦れったい思いをぶつける場所が今の私には必要なのだ。
「美月」
 いつの間にか私のすぐ後ろにつけていた闇音が、静かに私の名を呼んだ。
「別に」
 ぽつりと消え入るような声で零したら、闇音がぴたりと後ろで止まった気配がした。
「別に、闇音に腹が立ってるわけじゃないから」
「……それにしては、随分な態度だが」
「それは仕方ないでしょ。私の知らない間に……私の、私の――」
「何も見てない」
 さらりと闇音は先回りしてそう言った。あまりにも簡単に告げられた言葉の内容に、私は言葉が吹き飛んでしまって闇音を振り返った。
「お前が見られたくないだろうと思うものは見てない。第一、俺は傷の手当てと治すことに集中していたから」
「見てない?」
 闇音は私を真っ直ぐ見て頷いた。私は少しの間、探るように闇音を覗き込んだけれど、どうやら嘘を吐いている様子はなかった。
 私はほっとしたような複雑な気分なような、そんな何とも言えない気持ちを抱えて再び石庭へ目を遣った。
「仕事は切りがついたの?」
「ああ……それより、傷の方はどうだ? 大丈夫か」
「大丈夫だよ。痛くもないし動かすのにも支障はないし」
 くるくると左肩を回してみせると、闇音はなぜか冷やりとしたような表情でそれを押し止めた。
「だから言っただろう。無理をするな」
「全然無理じゃないけど」
「いいから言うことを聞いてくれ」
 闇音は頭の痛そうな顔をして、ふいと背けてしまった。その横顔に「ごめんね」と笑って言うと、闇音はむすっとした顔で眉間に皺を刻んで答えなかった。
 熱気を帯びた風が縁側を吹き抜けていく。空を見上げると、雲ひとつない快晴が広がっていた。
 今、こうして闇音の隣に座っていられることがとてつもなく尊いことに思える。あの出来事からたった数日しか立っていないのに、今はこんなにも平穏だ。それが少し怖くて、これがずっと続けばいいと願ってしまう。
 問題は山積みのまま、何一つ解決していないままなのに、このまま何事も起こらずにすぎて欲しいなんて、絶対に叶わない望みだろうに。
「美月」
 夏の暑さの中でも涼やかな音色が、風と一緒に流れ込んでくる。顔を上げて闇音を見ると、彼は少し目を細めていた。
「斎野宮からお前に連絡がきた」
「えっ。もしかして――」
「いや。お前が怪我をしたことを向こうは知らない。情報は止めてあるから、その点については安心しろ。向こうの用件は、お前に会いたい、ということだ」
「会いたい……」
 呟きながら、斎野宮の両親の顔を思い浮かべる。最後に会ったのは――そうだ。私が十七の誕生日で死ぬかもしれないと、聞かされた日。それ以来、顔も出さずにいた。そして聖黒さんから母の妊娠を知らされて、それっきりだ。
「お前と話をしたいということだろう。奥方の懐妊について」
 闇音の声は刺々しく辺りに響いた。闇音は冷淡な無表情を崩さず、真っ直ぐ前を見据えていた。
「そんな言い方しないで」
 呟くと、闇音が私を見下ろしたのが分かった。
「お前は分かっていないのか。お前に弟ができるという意味が」
「分かってるよ。私は、本当に用無しになるってことでしょう」
 聖黒さんから知らされた日、闇音が忌々しげに呟いた一言は頭にこびりついたように離れない。どうやっても削ぎ落せない。
『これで斎野宮家も安泰というわけか』
 私に弟ができる。それは私がいなくても斎野宮は存続していくという意味だ。斎野宮を継ぐ人間が私しかいなかった今までとは状況が変わってくる。
 私しかいなければ、私の子どもを斎野宮に迎えるだとか、そういう方法を取ったかもしれない。けれど弟ができれば、それも必要なくなる。その子が家督を継げるのだ。私は、斎野宮に必要な人間ではなくなる。
「お前が……いなくなっても、あの家は打撃を受けない」
「そうだね」
「あんなにお前を愛しているという風を見せていたのに」
「そうだね」
 闇音の声が、憤りと悲しみに染まっていた。きっと私の代わりに、私が何も言えない代わりに、そうしてくれているのだと感じた。そんな心遣いが、痛い。
「仕方ないよ。私としては弟が生まれてくれた方が嬉しいな。ずっと一人っ子だったし、弟ができるなんて嬉しいことだから」
 違う。そんなことが言いたいんじゃない。
 ただ、弟ができたということは、純粋に喜ばしいことだと思う。両親が私へ向けてくれていた愛は、偽りじゃなかったと断言できる。優しい眼差し、私を心から案じてくれた思い。それがすべて真実だったことは分かっている。だからこそ、弟ができるのはよいことだ。
 私はやはり、心のどこかでは不安なのだ。一年後、こうして闇音の隣にいるという強い思いは確かにある。あるけれど、それが現実になるのかは分からないという冷めた心があるのだ。
 私がいなくなれば、きっと両親は悲しむだろう。嘆いてくれるだろう。それを癒してくれる弟ができれば――そんなずるいことを、私は考えている。
「私、まだ両親には会えない。闇音、私はずるいんだよ。私の代わりを、まだ生まれてもいない弟に託そうとしてるの」
 少し口元を弛めて言うと、唐突に視界が暗くなった。身近に感じる温かなぬくもりに、知らない間に強張っていた身体から力が抜けた。ただゆっくりと闇音に身を委ねる。
 闇音は何も言わずに私を抱き締めてくれていた。何も言わずにいてくれたことが、今は有難かった。
 今思えば、あのときから闇音は私を心配してくれていたのかもしれない。それは思い上がりかもしれないけれど、そうだといいのにと、闇音の腕の中で思った。

 

 

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