ふと隣で気配を感じて目を開ける。視界の隅に黒い単衣が見えて、まさかと思って視線を動かすと、そこには遠くを見つめる闇音がいた。
 改めて彼を見るとよく分かる。纏う雰囲気ががらりと変質して、とても柔らかく温かい。きっとこれが本来の闇音だったのだろうと寝起きの頭で思う。
 けれど今までの闇音も、確かに闇音だった。それは年月を経て経験した様々なものが蓄積されて形成されたものだから、容易に捨てされるものでもないだろう。今でもところどころに混じる鋭い空気が、それを伝えていた。
 じっと闇音を見つめてそんなことを考えるともなく考えていると、闇音が私の方へ顔を向けた。柔和な目には穏やかな光が宿っていた。
「気分はどうだ?」
「うん。いいよ」
 問い掛けられて初めて、左肩に痛みがないことに気がついた。
 昨日までは眠りながらでも意識の片隅に痛みを感じていた。けれど今はそれがなく、身体をそっと動かしてみても痛みが走らない。
「熱が引いたからな。傷を治しておいた」
 闇音はそう言うと少し首を傾げて、くいくいと指を動かして起き上がるようにと言外に言う。
「寝起きのところ悪いが、部屋を移ってもらいたい」
「部屋?」
 唐突な話題の切り替えに私も首を傾げると、闇音は私の左肩を確認しながら口を開く。
「俺が母屋の部屋に移るのが一番なんだが、どうやらそれは叶いそうにない。一応、あれでも総帥だからな。敬意を払わなくてはならないし……それで、お前に移ってもらいたい」
「私が別棟に行くってこと?」
「お前さえよければだが。斎野宮の姫をぞんざいに扱うなと周りは言うかもしれないが、今はそんなことを言っていられる状況でもなくてな――もちろん、ここがいいというならそれで構わない。昨日のように俺がここに足を運ぼう。だがお前さえよければ別棟に来て欲しい。部屋は用意する」
「そんな、私はどこでもいいよ」
「部屋に望みはあるか? どこがいいとか」
「特にないよ。空いている部屋で十分」
 私はそう言いながらも少し考えて、闇音を見上げる。闇音はそれに気がついたのか促すように頷いてくれた。
「でも、あまり広い部屋は嫌かも。この部屋もあんまりに広すぎて落ち着かなくてね」
 私は真剣にそう言った。けれど闇音はそれが意外だったのか、きょとんと目を見張ってから、呆れたように笑った。
「前々から思っていたが、お前は欲がないな。まあ、それはそれでいいんだが」
「なんか馬鹿にされてるような気がする」
「馬鹿にしてはいない」
 闇音はそう断ってから、今度は普通に微笑んだ。その微笑みがあまりに綺麗で、私は思わず目を伏せてしまった。こんな闇音になかなか慣れないのは、仕方がないと思う。
「三大が部屋を移動すると言っている。そこに美月に来てもらってはどうかと」
「えっ。でもそうしたら三人はどこに行くの?」
「物置と化している部屋が一室あってな。綺麗に掃除して物も取り払えば十分な広さがあるから、と。お前が次の間にくれば、四神が別棟に来たときにも隣の部屋に待機することができる。俺もお前が隣にいれば安心だし」
 闇音は笑って言ったけれど、その静かな言葉の中に微かな不安が混じっていた。
 それに気がついて、けれど私は気がつかないふりをすることにした。闇音は何かあれば言ってくれるはずだ、という根拠のない確信と、言わないのならばそれなりの理由があるのだろう、という思いがあったからだ。
「じゃあ、次の間にお邪魔することにするね。闇音がそれでいいなら」
 少し笑って言うと、闇音はほっとした様子で頷いた。
 一昨日の夜を境に、今まで知らなかった闇音の表情をたくさん見ることができている。それは私にとって、とても嬉しい変化だった。
「美月。術で傷は治したが、あまり無理はするな。痛みをなくし、傷を塞ぐことができても、所詮は術だ。あまり過信しないに越したことはない」
「うん」
 闇音は私の左肩を指差して、少し厳しい表情を浮かべた。そして流れるように私の前に手を差し出してくる。その意味を測りかねてじっとしていると、闇音の声が続いた。
「移動したいんだが?」
 えっと声を上げて闇音の顔を見上げると、闇音は訝しげに私を見下ろしてから私の手を取った。そのまま引っ張られるように立ち上がらされた私は、呆然と闇音を見つめることしかできなかった。
 これも嬉しい変化に、入るのだろうか?
 当然のように私の手を握って歩き始めた闇音に、私の顔には知らない内に笑みが零れていたのだから、きっと嬉しい変化だ。
 闇音が私をとても心配してくれることも、こうして足を運んでくれることも、闇音の方から手を取ってくれることも。少し前までは考えられなかった状況に、突然の変化に、少し怖くなる。
「別棟に朝食を用意させている。薬はもう飲まなくてもいいが」
 闇音はゆっくりと歩いてくれている。それも私を気遣ってのことだろうと思うと、先程まで感じていた怖さは、どこかへ飛んで行ってしまった。
「まだお礼言ってなかったよね? 傷の手当てしてくれてありがとう。それと、傷を治してくれてありがとう」
 闇音の手を握るその手に、少し力を入れる。闇音は私を振り返って、小さく頷いた。
「礼を言われることじゃない。それに俺は、お前に嫌がられたのではないかと思っていたんだが」
「え? どうして私が嫌がるの?」
「傷の手当ても、傷を治すのも、お前の着物を脱がせたから」
 闇音は私の着物を指差しながら、淡々と、その上何てことないように言い放った。
 着物を、脱がせたから。
 その言葉が身体を徐々に侵食していくようにゆっくりと意味を理解した私は、さーっと顔から血の気が引いて青ざめて行くのが分かった。
 わなわなと震えだした私の手に気がついたのか、闇音が目を落としたのと同じ瞬間に、私の哀れな絶叫が廊下に響き渡った。

 

 

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