「具合はどうだ?」
 前触れなく部屋に響いた低い声に、私は目を瞬いた。蒼士さんがゆっくりと私の傍から離れて行き、その後ろから部屋に入ってくる闇音の姿が見えた。
「昨日よりはよさそうだな……熱もだいぶ引いたようだし」
「薬のおかげでしょう。ですがまだ傷の方は痛むようです」
 優雅に、という言葉がぴったり合う動作で私の隣に座った闇音に席を譲った蒼士さんは、丁寧にそう言った。
 闇音は蒼士さんから視線を外すと、それを私に当てる。その瞳に私は再度目を瞬かせた。
「何だ? 何かあるのか」
「う、ううん」
 怪訝に眉を潜めた闇音に慌てて答える。
 昨日の一件は、闇音と私の関係に大きな影響を及ぼした。闇音は頑なに仕舞い込んでいた過去を私に話してくれたのだ。その上、今このとき、闇音は温かい視線を私に注いでくれている。これまで闇音が私を見る目は、いつも冷え冷えとしていたのに。
「術を使って傷を治してやりたいが、それも熱が引くまで待たないといけない。もう少しの辛抱だ」
 闇音は私の額に手を当てて熱を測っているらしい。昨夜の高熱は引いて、今では微熱とはいかないまでもそれに近い温度に私の身体はなっていた、はずが。闇音の思いがけないその行為で、急激に顔に熱が昇っていくのが分かった。
 闇音の手にもそれが伝わったのだろう、一気に顔を険しくさせた闇音は真咲さんを振り返った。
「急に熱が高くなった。薬を持ってこい」
「え? いや、その必要はないかと……」
「薬が効かないのかもしれないだろう。朝飲ませたのは何の薬だ? まさか、配合を間違えたとかじゃないだろうな」
「いえ、そうではなく――闇音様、本当に気づかれていないのですか?」
「何がだ」
 天然で呆けている真咲さんに冷静に諭されている闇音――珍しい光景が見られたのは、怪我の功名だろうか。
「美月様は闇音様に触れられて」
「あー! 真咲さん、その先は言わないでください」
 やはり怪我の功名などではない。
 居た堪れなくなった私は、出来る限り大きな声で真咲さんの言葉を遮る。そのせいで左肩に激痛が走ったけれど、それすらも厭えない状況だ。
「もう、言わないで……」
 息も絶え絶えにそれだけを言うと、闇音が少し首を傾げた。
「大丈夫か?」
「大丈夫……」
 優しい声の問い掛けにそれだけを返す。
 闇音の優しい声。こんな声を聞ける日がくるなんて、少し前の私は想像もしていなかった。ゆっくりと闇音の顔を見上げると、穏やかな目をした闇音がいた。
 闇音は私が今まで出会ったどんな人よりも美しい容貌をした人だった。あの冷たく刺々しい空気を貼りつかせていたあのときでさえも、闇音以上に綺麗だと思えた人はいなかった。周囲の空気を響かせるようなあの厳しい冷酷さの中で、美しさが際立っていたのだ。
 けれど今、柔らかく優しい瞳を私に注いでくれる闇音は、それ以上に秀麗だった。優しい声は、冷たい声よりも壮麗な響きを持って耳に届く。目を細めた瞳に、少し弛められた唇が形作る微笑みは、端正な麗しさがあった。
「い、いつの間に、そんな話に……お、俺は聞いてませんよ!」
 見つめ合う形になっていた闇音と私の間を割くように、輝石君の声が飛び込んできた。驚いて輝石君を見ると、輝石君は顔を真っ赤にしたそのすぐ後に真っ青にさせていた。
「ついこの間までは普通だったのに……!」
 輝石君は口をぱくぱくさせながらそれだけ言うと、勢いよく蒼士さんを見上げた。蒼士さんは蒼士さんで困ったように笑っている。
「……とにかく、ここには何も用がなく来たわけじゃない」
 顔面蒼白と化した輝石君を冷静に見遣ってから、闇音はどこかばつが悪そうに言った。
「青龍、輝石。二人は真咲について総帥と奥方のところへ順番に向かってくれ。それぞれを護衛≠ウせている二大と二神に、俺があの男を聴取したその内容を簡単に真咲から説明させたい」
「分かりました。私たちは真咲が話をしている間、総帥と奥方それぞれを護衛≠キればよろしいのですね」
「そういうことだ。お前たち二人はそのあとで別棟に行き、そこで改めて真咲から話を聞いてくれ」
「承知致しました」
 蒼士さんは的確に闇音が言いたいことを掴んでいく。その隣で輝石君が再び、驚きの目で蒼士さんを見つめていた。
「では美月様、私たちはこれで下がります。お昼は、今度は私がお粥とお薬をお持ちいたしますので」
 真咲さんが恭しく頭を下げながらそう言う。私はそれに応えて頭を下げたけれど、すぐに傷が痛んで顔を跳ね上げてしまった。その様子を不安そうに見つめる輝石君と目が合ってしまう。私は思わず苦笑を作ってしまいながら、三人を見送った。
 三人が部屋を出て姿が見えなくなってから、私はそっと闇音へ目を遣る。闇音はどこか遠くを見つめていた。
 総帥と奥方を護衛――その言葉に微かな棘を感じたのは、きっと勘違いではない。
「闇音」
「お前が訊きたいことは、大体分かる」
 闇音は先にそう言って、静かな溜め息をひとつ落とした。
「昨夜――何者かが、あの男に接触したらしい」
 抑揚のない声で闇音が呟いた。感情は読めない。
「あの男って、闇音を襲った?」
「『お前を刺した』男だ」
 闇音は苛立ちの籠った声で荒っぽく訂正してから、続けた。
「今朝、蔵へ向かって尋問しようとしたんだが、綺麗さっぱり記憶が失くなっていた」
「それって、あの人のこれまでの記憶全部がってこと?」
「いや、事件に関してだけ。一晩置いたのがまずかった――判断を誤った」
 闇音はぎりと音が鳴りそうなほど、悔しそうに歯軋りする。闇音の歪められた顔を見上げながら、無意識のうちに負傷した左肩を抑えていた。そうして、そっと呟く。
「もしかして、裏で糸を引く人間がいるってこと……?」
 私の根拠のない直感だけの問い掛けに、静かに闇音が頷いた。それからゆっくりと口を開く。確信を持った様子で。
「間違いなくそうだろう。あの男は俺を襲うただの捨て駒で、指示を出した人間は別にいると考えられる。それにあの男が指示を出した人間を見ているかどうかも怪しい。だが記憶を消しておくにこしたことはないと、その人間は考えたのだろう」
「どうして姿を見てるかどうかが怪しいって分かるの?」
 風の音にさえ紛れてしまいそうな程の小さな声で問う。闇音はそれまで宙に投げていた視線を私へ据えると、左肩を抑えていた私の手を取った。
「その者は、黒月の蔵に忍び込んだ。黒月邸に侵入した上、蔵の中にいるあの男に接触したんだ。昨夜は蔵に見張りを七人、蔵を回り込むように配置させていた。どちらもそう易々と突破できるものではない。それほどのことができるのはよほどの切れ者か――黒月の内部に精通しているか、どちらかだ」
 切れ者ならば捨て駒≠ノ顔を見せるなんてことはしない。また黒月内部に精通している者なら闇音と顔見知りである可能性が高い。そんな人間は捨て駒≠ノ顔を知られていたら不都合だ、と言いたいのだろう。
 考えていると、不意に気づいた。闇音が言う「黒月の内部に精通している」というその言葉が繋がる先に。
「だから護衛=v
 私が静かに呟くと、闇音は美しい眉を険しく寄せた。
 護衛とは名ばかりの、監視。つまり闇音は疑っているということだ。実の両親を。
 そう気づいた私は、けれどそれを咎めることはできなかった。昨夜聞いた闇音の過去、その中で垣間見えた彼の両親の姿、彼らの言動――。
「それともう一つ」
 闇音は厳しく光る眼を、今は総帥とその奥方が部屋を取る、屋敷の北へ向ける。その目には私の部屋の床の間に生けられた桔梗と薔薇と紫陽花が映っているはずなのに、まるで彼らの部屋の中を見透かしているようにさえ見えた。
「美月」
「はい」
 凛と張った声で私の名を紡いだ闇音は、ゆっくりと私へ目を向ける。その目はしっかりと私を映していた。
「俺が傍にいないときは、必ず青龍か真咲と共に居ろ。二人のうちどちらか一人でもいい。必ずどちらかを傍に置け。不用意に一人にはなるな」
 その声は命令のような強制的な響きはない。ただ願うような、そんな切実な声音だった。

 

 

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