落ちていた傘を拾ってもう一度差す。既に雨に濡れていたけれど、幸い小雨程度だったためにずぶ濡れにならずにすんでいる。
 傘を差し直した途端に、見計らったかのように大粒の雨が降り出した。大きな音を立てて降り注ぐ雨が、今は有難かった。足音も、呼吸音も、何もかもを消し去ってくれる雨の音が今は心を落ち着かせてくれる。
 蒼士さんの気持ちには応えられなかった。蒼士さんが私を想ってくれるその重さと、私が蒼士さんを思うその重さはまったく違う。質も、思いの中に込められた気持ちも。
 隣を静かに歩いている蒼士さんの顔を、見上げることはできなかった。

 

 

 黒月邸に戻った蒼士さんと私を迎えたのは、ざわめきと戦々恐々とした使用人の顔だった。この屋敷の様子に、私の頭に最初に思い浮かんだのは龍雲さんの命日の日だった。あの日も今日と同じように雨が降っていて、屋敷の中に落ち着きがなかった。
 どきりと心臓が跳ねて、思わず蒼士さんを見上げる。蒼士さんは私を見下ろしてから、慌てた様子でどこかへ走り去ろうとしていた使用人の一人を捉まえた。
「何の騒ぎです?」
 相手に落ち着きを促すような静かな声で、蒼士さんが訊ねる。腕を掴まれた使用人は蒼士さんと私を確認すると、ほっとしたように胸を撫で下ろした。
「奥方様、青龍様。お帰りをお待ちしておりました。朱雀様が青龍様のお帰りをずっとお待ちでいらっしゃいました。南庭で白虎様が玄武様を――」
 その台詞を最後まで聞かずに、蒼士さんは一気に顔色を変えて私に傘を持たせると、南庭へ向かって走り出した。走り去っていく直前の蒼士さんの表情を見た私も、一瞬で自分の顔つきが変わったのを感じる。
 聖黒さんは黒月邸に戻り次第、今日の話を二人にするはずだった。そして今、輝石君との間で何かが起こっている。『輝石君が聖黒さんを』というその言葉だけで、何があったのか十分に察せる。朱兎さん一人では収拾がつかない事態が起こっているということだろう。
 私は呆然と蒼士さんの背中を見つめている使用人の男性に一礼してから、急いで後を追った。
 顔に強い雨粒が当たる。けれど痛いなんていう感覚はなかった。とにかく急いで四人の元へ行かなければという思いだけしか、今の私にはなかった。もし四人があの話で仲違いをするようなことがあれば、私はやり切れない。
 荒くなっていく呼吸に不安感が増す。蒼士さんの背中は既に見失っていて、けれど声のする方へ私はひたすらに走る。
 中門廊を抜けて南庭へ飛び出すと、そこで蒼士さんに抑えられている輝石君の姿が見えた。輝石君の前にはずぶ濡れになった聖黒さんが尻餅をついたような形で座り込んでいて、その隣に朱兎さんが立っている。四人の間に走る微妙な距離と緊張感から、聖黒さんが二人に話をし終えていることが分かった。
「離せよ! 離せ!」
 じたばたと手足を動かせて、輝石君が後ろからがっちりと抑え込んでいる蒼士さんを振り払おうとしている。慌てて走り出した私と目が合った輝石君は、唐突に顔を歪めた。「美月さま」と輝石君の唇が動いたけれど、声は聞こえなかった。
「こんな雨が降ってる中、何してるの? みんな風邪引いちゃうよ」
 そう言う私も傘を差しているけれど、走ってきたせいで十分濡れてしまっているのだからあまり説得力はない。
「朱兎さん、何かタオルとか……えっとあの、なんて言えばいいんだろう。布?」
 タオルで通じるのか分からなかった私は、朱兎さんに向かってバスタオルくらいの大きさを空中に描いてみる。朱兎さんは一瞬、きょとんとした顔つきになったけれど、すぐに頷いた。
「タオル、で分かりますよ。蒼士からそういう話は聞いていますから」
 朱兎さんは言うと、近くにいた黒月家の使用人の一人に向かって何事かを伝える。朱兎さんの言葉を聞いたその人は、小さく頷いてどこかへ行ってしまった。
「それで、こんなところで何してるの? とにかく中に入ろう。みんなずぶ濡れだよ」
 ずっとここにいたのではタオルを持ってきてもらっても意味がない。私は座り込んだままの聖黒さんを促そうとしゃがんで顔を覗き込んだ。そしてそこで思わず動きを止めてしまった。聖黒さんの頬には殴られたような痕があって、唇が切れているのか血が流れていた。いつも綺麗にまとめている髪も、きっちり着付けられている着物も乱れている。
 私はぎゅっと唇を引き結ぶと、着物からハンカチを取り出して聖黒さんの顔についた血を拭こうと手を伸ばす。けれど、聖黒さんがやんわりとそれを拒否した。
「お気遣いなく。私のことは放っておいてくださって構いません」
「でも」
「それより、美月様が風邪を召してしまわれます。せっかく治ったところですのに、ぶり返したらどうなさるんです?」
 聖黒さんの言葉はいつもどおり優しい。けれど、どこか私との間に壁を作るようなよそよそしい言い方だった。眉根を寄せて聖黒さんを見つめていると、その顔はふいと私から逸らされてしまった。
「……ふぅん。これまで何もかも隠してきて、美月さまの今後のことも何一つ話そうとしなかったくせに、美月さまの目先の体調は気にかかるんだな」
 刺のある輝石君の声が辺りに響く。その声は重く、雨音にも負けずに耳に届く。
「都合がいいにも程があるんじゃないのか? お前に美月さまを心配する資格なんかない。とっとと出てけよ」
 輝石君の声が少し震えていて、私は顔を上げる。輝石君は未だ蒼士さんに羽交い締めに抑えられていたけれど、もう暴れてはいなかった。けれどその瞳が憤りに染まっているのが目に見えて分かる。静かな怒りを燃やした輝石君は、見下げるように聖黒さんを見据えている。
「そういう言い方はよくないよ。聖黒さんだって事情があって――」
「事情、ですか? 俺たちにだけ言わなかったていうんだったらまだ理解できます。でも聖黒は美月さまにも何も伝えなかった。それがおかしいって言ってるんです。聖黒の主はご当主でも奥方でもない。美月さまなんですよ」
 きつく聖黒さんを睨みつける輝石君の瞳に迷いはない。
 二人をこんな風にしてしまったのは、すべて私の力が発現しないためだ。決定的な自分の無力さに絶望する。けれどそんなことを思っていたのでは、この場を諫めることはできない。私は瞳を閉じて深呼吸してから、もう一度強く瞼を開ける。
「それでも殴るのはよくないよ」
 静かに輝石君に言う。輝石君は私の言葉にかっと顔を赤くして目を見開いた。
「美月さまは聖黒を庇うんですか!? 俺たちがどれだけ美月さまを心配してるのか、分かってくれないんですか!? ――どうして俺じゃなくて、聖黒の肩を持つんですか!」
「輝石」
 輝石君は蒼士さんの腕から逃れられずに、けれど私に向かって突進する勢いで畳みかける。そんな輝石君を宥めるように、低い落ち着いた声で蒼士さんが声を掛けた。
 輝石君は我に返ったように口をつぐむと、肩を落として顔を思い切り歪める。そして蒼士さんの腕を払って踵を返すと歩いて行く。その後を追いかけて行こうと立ち上がりかけた私を、蒼士さんが制した。
「今は一人にしてやってくれ」
 蒼士さんの真剣な瞳に、私はしばらく輝石君の去って行く後姿を見つめていたけれど、ただ頷くしかできなかった。
 聖黒さんの肩を持ったつもりはなかった。ただ暴力はよくないと思ったのだ。殴っていい理由や殴られていい理由は、そんなに簡単にあるものではない。それに、輝石君は何だかんだ言って聖黒さんを慕っている。聖黒さんを一時の感情で殴って、後で後悔するのは輝石君だと――でも余計なことだったのかもしれない。
 遠ざかっていく輝石君の後姿を眺めていた私の耳に、朱兎さんの声が雨音に混ざって耳に届く。
「確かに暴力を振るった輝石の行動は、白虎として褒められたものではありません。聖黒が僕たちに真実を話さなかった理由も、理解しているつもりです」
 そっと視線を朱兎さんに移す。朱兎さんは私の目線に合わせるようにしゃがみ込むと、私の手を軽く握った。
「――でも、感情がついていかないんです。今は聖黒を許せない」
 朱兎さんは呟くと聖黒さんを冷たく見つめて、私の手を取って立ち上がった。
「聖黒はご当主と奥方と仲良くしていればいい。でも僕たちの主は美月様だ。その美月様を聖黒は裏切ったも同然だから――許せない。僕も、輝石も」
 朱兎さんはそこで言葉を切ると、蒼士さんに視線を走らせる。蒼士さんも朱兎さんと同じように、どこか失望したような視線を聖黒さんに投げていた。
「――蒼士も」
 最後に朱兎さんは蒼士さんの名を付け足すと、私の手を引いて歩き出した。私はそれに慌てて朱兎さんの腕を後ろに引く。
「待ってください。聖黒さんが話さなかった理由が分かっているなら――」
「言ったでしょう。気持ちがついていかないんです。今は冷静になれません」
「それでも」
 後ろを振り返る。目に入ったのはこちらをそっと見つめる聖黒さんの姿だった。その瞳は哀絶に染まっているのに、それを見れば聖黒さんが望んで口をつぐんでいた訳ではないと分かるのに。それでも受け入れられないのだと告げる三人の背中が、悲愴を背負っているように思えてならなかった。

 

 

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