黒月邸へ向かって歩く。足取りは思っていたよりもずっと軽い。やっと前を向いて歩いて行けると、この一ヶ月間で初めて思えた。
 けれど、目の前は暗い。まさか自分に命の期限が迫っているなんて、誰が想像できるだろう。
 地面に目を落としながら歩く。隣では蒼士さんが私の遅い歩調に合わせて歩いてくれていた。
 私はこのまま、残りの九ヶ月間を無意味に過ごすのだろうか。それとも、何か行動を起こすのだろうか。いや、起こせるのだろうか?
 頭に何かが当たった気がして空を見上げてみると、黒い雲の狭間から透明な滴が落ちてきているのが見えた。
 ぽつぽつと静かに降る雨に、私は朱兎さんに手渡してもらった傘を広げた。
「ごめんなさい。斎野宮で傘借りるの、すっかり忘れてたね」
 言いながら、背の高い蒼士さんに合わせて傘を差す。
 斎野宮を出た時の心境は、まるで混沌の中に何も持たずに放りだされた幼い子どものようだった。右も左も分からず、どちらへ進めばいいのかも分からない。周りが自分を飲み込む暗黒に思えて足がすくんで、何の気も回せなかった。
 その中で一筋の光となって私を暗闇から救ってくれたのが、泉水さんだった。あの時、彼以外の誰へも私の意識は向けられなかったのだ。
 闇音は真咲さんを連れて、私には何も言わずに黒月邸へ戻ってしまった。聖黒さんは蒼士さんを苦しそうな表情で見つめてから、私に一言断ってから戻っていった。黒月邸に戻り次第、輝石君と朱兎さんにも今日の話を伝えるそうだ。
 目の前を雨の滴が落ちていく様を見つめて、私はぼんやりと闇音を思った。
 闇音は私をどうするだろう。繁栄のためだけに私と結婚した闇音は、今のままでは使い物にすらならない私を、どうするのだろう。
 まだ繁栄の望みがある残りの九ヶ月間は、私を黒月邸に置いてくれるのだろうか。それともすぐに私は追い出されてしまうのだろうか。
 不意に傘を持つ手に温かい手が触れて、その時に私は自分の手が異常に冷たくなっていたことを知った。隣を見上げれば、真摯に私を見つめてくれている蒼士さんがいる。
 蒼士さんは何も言わずに私から傘を取ると、私の代わりに傘を差してくれた。その小さな優しさが、こんなにも辛いなんて――こんなにも胸に響くなんて。
 それまで一滴も流れなかった涙が零れた。
 私はこのまま死ぬのだろうか。十六年間、ただ生きてきただけで何も残せないまま。
「美月様」
 雨の音に混じって、蒼士さんの声がした。急いで涙を拭って隣を見上げると、私をじっと見下ろしている蒼士さんが目に映った。
「このまま黒月邸に戻られますか?」
 そっと優しく訊ねてくる蒼士さんに、私は小さく首を傾げた。
 斎野宮へは戻れない。辛そうな両親を見るのは苦痛だった。私の力が発現しないばかりに、二人は苦しんでいるのだ。きっと私が目の前にいると、二人の心痛は増すばかりだろう。だとすれば私が今、帰れる場所は黒月邸以外になかった。
「黒月以外に、戻れる場所はないもの」
 蒼士さんから目を逸らして呟く。「その黒月も、私を受け入れてくれるかは分からないけど」という言葉は自分の中だけに留めておく。
 天界に来た時ですら、こんなに孤独感は感じなかった。傍に蒼士さんがいてくれたし、たくさんの新しい素敵な出会いがあったから。田辺の両親や友達は恋しかったし、この世界に慣れないこともあったけれど、それでもここまでやってこれた。
 でも今は突然、独りになってしまったような気がする。みんなは変わらず私の傍にいてくれているのに、たった独りきりだ。
 蒼士さんは、私が死ぬかもしれないと聞いてあの場でただ一人取り乱してくれた。当の本人である私ですら他人事のような心持ちで聞いていたあの話に、たった一人だけ私から目を逸らさずにいてくれた。
「蒼士さん、ごめんね」
 ぽつりと零すと、蒼士さんの身体がびくりと震えたのが、触れ合った着物を通して伝わってくる。きっと、私よりも心を痛めているのは蒼士さんだろう。両親よりも、繁栄を願うために私を娶った闇音よりも、十六年間傍で私を見守ってくれた蒼士さんが、一番心を痛めてくれている。そんな確信に満ちた思いがした。
「でも、私そんなに簡単に死んじゃうつもりはないよ。どうすれば力が発現するのかは分からないけど、まだ残り九ヶ月あるでしょ? だから、できる限りのことを――」
 頑張るよ、と続けようとした言葉は、結局外に出ることはなく舌の上で消えてしまった。
 傘が地面にゆっくりと落ちる様が、まるでスローモーションのように視界の端を横切る。細かい雨の滴が顔に当たる。蒼士さんの肩越しに、真っ黒な空が見える。背中に蒼士さんの腕が回されて、頬に蒼士さんの柔らかい髪が触れている。突然のことで息をするのも忘れそうになっていた。
 蒼士さんに抱き締められている。
 そう自覚した瞬間、さらにどうすればいいのか分からなくなった私は、取りあえず息をしなくてはと一番に考えて、何度か浅く呼吸を繰り返した。
 そのまま永遠にも思える時間がゆっくりと過ぎ去っていく。背中に回されている蒼士さんの腕はぎゅっと私を持ち上げようにして私の体を抱き締めていた。
「このまま……」
 耳元でくぐもった声がした。少し顔を倒して蒼士さんの顔を見つめると、その瞳は辛そうに伏せられていた。
「このまま下界へ降りよう」
 そっと告げられた台詞に、私は言葉を失った。
 下界へ降りる――ここから逃げ出して?
「俺が君を下界まで連れていく。田辺のご夫婦のところまで」
 ここから逃げて下界へ戻って、それで何かが変わるのだろうか。私は死なずにすむのだろうか。
「……蒼士さん。そんなことしても何も変わらないよ。私のタイムリミットは、伸びも縮みもしない。何も変わらないよ。私の力が現れない限り――」
「そんなことは分かってる」
 蒼士さんは言うと、少しだけ二人の体の間に距離を開けて私を真っ直ぐ見下ろした。
「美月の運命は変わらない。ここにいても、下界にいても――だから俺は、君が少しでも心が安らぐ場所にいて欲しいんだよ。どうすれば力が発現するのか分からないけど、縮こまって生活しているよりも、伸び伸びと暮らせる場所にいる方が力だって発現するんじゃないのか? 俺は君からすべて奪ってここに連れ戻した。本当に何も知らずに……」
「でもそれは蒼士さんのせいじゃないよ。誰のせいでもない」
「確かに誰のせいでもないかもしれない――だったら美月が一人で負担を負うことなんてなかったんだよ。美月はあの日、今まで信じていたものを失った。そして今、また失いそうになっている。何の理由で、何のために、失わないといけないのかも分からないまま」
 蒼士さんの瞳が揺れる。悲しみと苦しみで少し潤んだ瞳に、蒼士さんのすべての感情が現れているようだった。
「俺は、君を死なせたくないんだよ――」
 肩に置かれた手が、きゅっと握られた。俯く蒼士さんの髪が雨に濡れてきらきらと光っていた。
 もしもこのまま力が現れなかったら? その答えは簡単明瞭だ。私は死ぬ。けれど私が死んで悲しんでくれる人がいる。辛いと思ってくれる人がいる。私はそんな人たちを残して死ねるのだろうか。
「美月が生きていてくれて、幸せでいてくれるなら俺はそれで満足なんだ。それが俺の傍ではなくても、俺自身の手で美月を幸せにできなくても、美月が幸せで元気に暮らしてくれるなら、俺はそれで十分なんだよ」
「――でもそれじゃあ、蒼士さんは? 蒼士さんの幸せは?」
 蒼士さんはそっと顔を上げる。その瞳から迷いは見えなかった。
「蒼士さんが私をお父さんたちのところへ戻したことを知られたら、どうするの? 東家はどうなるの? 青治さんと撫子さんはどうするの? 蒼士さんは私の傍にいてくれるの? ご両親を残していくの?」
 違う。こんなことが言いたんじゃない。けれど堰を切ったように溢れ出すのはこんな言葉ばかりだった。
「駄目だよ。私にそこまでしてもらう価値なんてない。私のせいで蒼士さんの人生を狂わせるなんてできない。蒼士さんは東家の当主で、青龍で……」
 私が一言「戻る」と言いさえすれば、蒼士さんは今すぐにでもお父さんとお母さんの元へ連れて行ってくれるだろう。けれどそれは、背徳行為だ。斎野宮の両親はすべてを知った上で私を呼び戻した。四神家を率いる北家の玄武である聖黒さんは、それに同意している。そして今、私は黒月の当主、闇音の奥方だ。その私を何の断りもなく勝手に下界≠ノ降ろせば、蒼士さんは大きな代償を支払わなければならないだろう。
「私は蒼士さんにそんなことさせられない」
 首を振って答える私を見下ろして、蒼士さんは私の頬にそっと触れた。
「俺の幸せは、君が幸せでいてくれることだ。そのためになら、すべて捨てられる。両親も家も、地位も、名誉も、財も――」
 蒼士さんの両手が私の顔をそっと包み込む。その手の暖かさに心が締め付けられた。
「すべて捨てる。美月のためなら、なんの躊躇いもなく捨てられる」
 だから――と蒼士さんの少し掠れた、切望を乗せた声が静かに頭の中に響く。
「頷いて。一度、頷いてくれるだけでいい。今だけは俺を選んで」
 闇音なら、私がいなくなっても差して何も思わないだろう。感慨を感じることだって、きっとない。ここで蒼士さんを選んだとしても、闇音はきっと簡単に受け入れて、私がいない生活を受け入れるだろう。
 震える手が蒼士さんの手に重なる。その手を少し握る。震えが少しだけ和らいだ気がした。
 これほど私の気持ちを包み込んでくれる人を、私は知らない。蒼士さん以上の人は、きっといない。深く心に染み入る想いを抱えながら、頬を包み込んでくれている温かな蒼士さんの手をそっと外した。
 その瞬間、蒼士さんが私を悲しそうに見つめた。
 ここで頷ければ、どれほどよかっただろう。蒼士さんの気持ちを受け入れられたなら、どれほど楽だっただろう。蒼士さんならきっと、私を一番に想ってくれる。きっと私を一番、幸せにしてくれる。
 でも、頷くことはできなかった。こんな中途半端な気持ちで、蒼士さんにすべてを投げ出してもらうことなんてできない。今の私にそんな価値なんてない。
「――それでも、俺を選ばないんだね」
 蒼士さんの呟き声が耳を打つ。その声に溢れそうになっていた涙が、一筋零れ落ちたのが分かった。
 蒼士さんの手が頭に置かれる。その手がまるで慰めるように優しく私の頭を撫でてくれた。私が慰められる時ではないはずなのに、こんな時でも蒼士さんは私を想ってくれている。こんなにも、どうしようもない私を。
 ごめんなさいという私の言葉が、雨音に紛れて消えていった。

 

 

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