朱兎さんに引っ張られている腕に力を入れて、足を踏ん張って廊下の真ん中で無理やり止まる。南庭から自室へ向かう長く静かな廊下で、私は朱兎さんと蒼士さんの背中を見つめた。
「やっぱりこんなに一方的に聖黒さんだけを責めるなんておかしいです。それなら大元を責めなくちゃ」
「大元?」
 朱兎さんはぽつりと零してから、私を振り返った。
「私の両親です。聖黒さんは両親に口止めされたか何かだったんでしょう? それなら聖黒さんを責めるんじゃなくて……」
「分かりました、美月様が言いたいことは。でもそれはできません」
「どうして?」
 息をつく暇も与えずに、すかさず入れた問い掛けに朱兎さんは困ったように瞳を眇めた。
「我々四神家は、斎野宮に忠誠を誓った身です。その頂きにおわすご当主夫妻に楯突くことはできません」
 それなら、と口を開こうとした私を、朱兎さんは小さく手を上げて制した。
「ですが先程も申しましたとおり、我らの主は美月様です。その美月様の命に関わることをずっと黙っているなど、背徳行為です」
 反論しよう思っても、何の言葉も出てこない。
 朱兎さんの意見も分からないわけではない。北家が仕えているのは斎野宮家だ。だがその当主である聖黒さんが直接仕えているのは、今は私なのだ。だが北家が斎野宮家に仕えている以上、その当主夫妻に口止めを願われれば、それを無下にすることもできない。
 ぎゅっと口をつぐんで着物を握る。土砂降りと化した雨音が、耳障りで仕方がなかった。
「美月様」
 自分を呼ぶ声と同時に、柔らかな浴布が頭からすっぽりと被せられた。その布越しに暖かな手を感じて、強張っていた心がふっと緩むのを感じる。
「皆さん、ずぶ濡れになって……」
 あだっぽい独特な声が聞こえて顔を上げると、芳香さんが困ったような顔つきで私たちを見渡していた。その後ろには、雨が地面を叩きつける様子を無表情に見つめている彰さんがいる。
「美月様。湯殿の用意が整っておりますから身体を温めてきてくださいませ。そのままでいらっしゃいますとまたお風邪を召しますよ?」
 芳香さんは言いながら、水気をたっぷりと含んだ私の髪を優しく拭いてくれる。私は咄嗟にその手を握って、芳香さんを見上げた。
「南庭に聖黒さんがまだいるはずです。聖黒さんの方が風邪を引いてしまう……屋敷の中に連れて入ってください。私は後で構わないから、聖黒さんを先にお風呂に入れてあげてください。あと、聖黒さんは怪我をしてるんです。手当もしてあげてください」
 一気に言い連ねる私に辟易した様子を見せながらも、芳香さんはゆっくり頷いた。
「分かりました。聖黒さんもちゃんと屋敷の中に入っていただきます。聖黒さんにはこちらの湯殿を使っていただきましょう」
 芳香さんはまるで小さな子どもを宥めるように私を見下ろす。そして「彰」と軽く呼ぶと、それに頷いて答えた彰さんは身を翻して歩いて行った。
「あの、輝石君がどこに行ったかは知りませんか?」
 遠ざかって行く彰さんの後姿を見つめながら訊ねると、芳香さんが首を傾げたのが横目に入った。
「輝石なら西家に戻ったんだろう」
 蒼士さんの小さな、それでいてどこか厳しい声音が後ろから届く。声を追うように足音が聞こえて、次の瞬間には蒼士さんは私の隣に立っていた。
「心配しなくていい。きっと明日には顔を見せるから」
 無理やりに微笑んだような顔で蒼士さんは私を覗き込む。私は少しだけ眉をひそめてから頷いた。本当にまた、輝石君はいつもと変わらず私のところに来てくれるだろうか。私は輝石君を失望させてしまったのではないだろうか。
「とにかく今は身体を温める方が先だ――芳香。聖黒さんに東北対の湯殿を使ってもらうなら、美月が使う湯殿は?」
 蒼士さんは真っ直ぐ芳香さんを見つめる。芳香さんは一瞬だけ瞠目して、それからすぐに思い直したように言った。
「別棟の闇音様がお使いになる湯殿をどうぞ。闇音様の許可はいただきますので」
 芳香さんが驚いた様子を見せたことで、私はやっと蒼士さんの口調がいつもとは違うことに気がついた。
 この口調は、田辺の両親のところで暮らしていた時、蒼士さんがしてくれていた懐かしい話し方だ。天界に来た時には、頑なに拒んでいたこの親しげな話し方を、今またしてくれていることに思わず胸が痛んだ。優しい蒼士さんは、私がいつものように話しかけてくれることをずっと願っていたのを知っている。そして私の死期が足音を立てて近づいて来ている今、それを叶えてくれるのだろう。
「蒼士さんと朱兎さんも、別棟の湯殿を使ってください。私たちが使っている湯殿が闇音様のものとは別にありますから」
 芳香さんは私たちに向かって告げると、踵を返して歩き出した。
 私は、隣で歩調を合わせて歩いてくれている蒼士さんを見上げる。先程のことが頭の中をちらついて、罪悪感で心が満たされる。果たして私に、蒼士さんに気に掛けてもらえる程の価値があるのだろうか。
 そんなことを考えていると、それを見透かしたかのように慈しむような笑みを湛えて、蒼士さんが私を見下ろした。思わず蒼士さんから顔を逸らしてしまう。その微笑みに耐えられるだけの心が、今の私にはなかった。
 私は何もできない無力な人間だ。輝石君と朱兎さんの気持ちも、聖黒さんの葛藤も、分かっていても何の手立ても講じられない。そして、ずっと私を想ってきてくれていた蒼士さんの気持ちと向き合うことすらできていない。
 愚かな自分が、情けない自分が、疎ましかった。

 

 

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