三十四

 

 ひそひそと声を落として言葉を交わし合うのが、意識の隙に入り込んでくる。微睡みと覚醒の間で、その声は徐々にはっきりとしてくる。と同時に、左肩に強烈な痛みと、異様な身体のだるさが襲ってきた。
 思わず小さく呻き声を上げると、声を落として話をしていた人達がそれに気がついたようだった。
「美月様」
 重なる三つの声に、記憶の中から人物を当て嵌めていく。焼けるような痛みを放つ左肩に思わず力が入って、更に苦痛が全身を駆け抜けた。
「闇音は」
 瞳を開けて途切れる息と一緒に、名前を零す。一気に甦る記憶をできるだけ鮮明に思い出そうと努力しながら、荒い息を吐き出した。
「無事なの? 朱兎さん、真咲さん、彰さん。闇音に、怪我は、ない?」
「ご無事です。闇音様はご無事でかすり傷一つありません――ですが、今はご自分の心配をしてください!」
 朱兎さんは宥めるようにそう言ってから、今度は声を荒げた。
「どうして飛び出したりしたのですか! 刀が貫いたのですよ、あなたの左肩を! それがもう少しずれていたら、どうなっていたとお思いですか!」
「朱兎さん、美月様は今目が覚めたばかりで」
「彰はちょっと黙ってて!」
 困惑した彰さんが朱兎さんを抑えようとするけれど、それすらも一括した朱兎さんは、今度はおろおろと私の右手を握った。
「僕はもう寿命が五十年は縮みました! 何年後かに僕が早世したらあなたのせいです! 一生恨みます!」
「朱兎さん」
「どうして僕たちがいるのにご自分が前に飛び出すのです! あの男に向かって行くなど、考えなしがすることです! 僕たちがあの男を止めるために追っていたのに! 聖黒と彰が術を飛ばしてあの男の手元を狂わせることに成功したからよかったようなものの、それがなければあなたは今頃心臓を一突きされて亡くなられているのですよ!」
「……ごめんなさい……」
 一気にその言葉を吐き出して、朱兎さんの汗ばんだ手を握り返した。今更ながらに自分が取った行動の意味を知る。目の前の朱兎さんの取り乱しようを見ると、本当に申し訳なくなった。
「でも、みんなが、動いてくれてるのが、見えなかったの。闇音を守らなくちゃ、としか、考えられなかったの」
「あなたはどこまで……僕たちを心配させれば気が済むのですか……」
 今度はさめざめと零した朱兎さんを慰めるように、真咲さんがその背中をさすった。
「でも本当に、こうしてご無事でよかったです」
 真咲さんは私へというよりは朱兎さんへ、落ち着かせるように朗らかな様子で言った。私は頷いてから、気を失う前の状況を思い出しながら口を開く。
「あの人、どうなったんですか」
 向かってきた、狂気に満ちた瞳を浮かべる男を思い出して、背筋がぞっとした。あの目に浮かんでいたのは、紛れもない殺意だった――それも、闇音に対する。
「捕らえました。今は黒月の使われていない蔵に入れています。見張りもつけていますから、逃げ出すことは不可能です」
 彰さんが落ち着かせるような、穏やかさを装った声を出す。いつも冷静な彰さんですら、今は狼狽えているのが微かに伝わってきた。私はほっと息を吐き出して、目を閉じた。
「どうして、あの人、闇音を狙ったんですか」
「それはまだ何とも」
「でも黒月の当主を襲うなんて――闇音様が一人のところを狙うならまだしも、三大も三神も揃っていたのに……」
「よほど腕に自信があったのか、ただ考えが足りなかったのか……」
 ぽつぽつと三人の間で零されていく言葉を聞きながら、靄がかかったような頭であの場面を思い出そうとする。
 向かってくる一人の男。その人の血走った瞳。夕陽を不吉に反射させた刀を振りかざして、真っ直ぐ闇音目がけて走り込んで来ていた男の前に、咄嗟に飛び出した私。土に染みつくように零れ落ちた赤い血と、左肩を貫いた刀――そして最後に覚えているのは、抱きとめてくれた温かい腕だ。
 思い出せば思い出すほど、恐ろしい光景だった。それでも安心していられるのは、こうして見知った顔を再び見ることができたからだろう。
 部屋に涼やかな風が入り込む。衣擦れの音が聞こえて目を開けると、蒼士さんが盆を持って部屋に入ってきていた。
「美月。具合は――悪そうだな」
 蒼士さんは先にそう言ってから、朱兎さんたちとは反対側に腰を下ろした。
 蒼士さんは私の額にそっと手を当ててから、少し顔を険しくする。けれどすぐに何事もなかったように微笑んだ。
「美月、ちょっと起き上がってお粥を食べて。食欲はないだろうけど、少しでも食べてくれないと薬が飲めないから」
 蒼士さんはそう言うと、腰に手を当てて私がゆっくりと起き上がるのを手伝ってくれた。動き始めると同時に左肩に鋭い痛みが走る。思わず顔をしかめると朱兎さんの泣きそうな顔が目に飛び込んできて、私は慌てて作り笑顔を浮かべた。
 蒼士さんに蓮華を渡されて、お粥を掬う。ほんのりとした卵の甘みと塩加減がちょうどいい。食欲をそそるような香りが鼻を抜けるけれど、絶えず走るずきずきとした痛みが左肩の怪我を忘れさせてくれない。更にそれに追い打ちをかけるように身体が熱っぽく、結局私はそれらに負けて、お粥を口に運べたのは数えるほどだった。
「次は痛み止めと解熱の薬。この二つは一緒に服用しても大丈夫なものだから」
 蒼士さんは薬が包んである小包をわざわざ開けてから私に手渡してくれた。
 私は小さく息を吐き出してから薬を口に流し込む。するとタイミングよく蒼士さんが、水が入ったコップを口元に運んでくれた。同じようにしてもう一つも水で流し込むと、蒼士さんは私の背中を支えていてくれた腕をゆっくりと倒して、再び私を寝かせてくれた。
「熱が出たのは傷のせいですので、傷が治るまで絶対に安静にしていてください」
「さすがに、この身体じゃ、無茶できませんから、安心してください」
 心配そうに言う真咲さんにふふっと笑ってみせると、それだけでも肩に痛みが走った。そんな私を心配そうに見る真咲さんに、私はそっと左肩に手を当てながら続けた。
「この傷、どなたが手当して、くれたんですか?」
 訊ねてから「後でお礼を言わないといけませんから」と切れ切れに言うと、真咲さんが柔らかく目を細めて口元を弛めた。
「闇音様です」
 穏やかに紡がれた名前に、私は目を見張って固まった。呆然とする頭では言葉が見つからない。じっと視線を動かさない私を見兼ねてか、真咲さんが先を続けてくれた。
「闇音様が、美月様の負傷なさったところを手当致しました。それに」
 真咲さんはそこで言葉を切ると、突然涙ぐんでハンカチを取り出した。
「あの場で、美月様をお庇いにもなられました。あのような者でしたら闇音様は一瞬で返り討ちになさいますのに、美月様を庇われながら、美月様にこれ以上怪我をさせないようにと応戦なさったのです」
 真咲さんは目にハンカチを強く当ててぽつぽつと呟いた。それはなぜか感涙に見えて、真咲さんの様子も怒った風はなくどちらかと言えば喜んでいるように見えた。
「ごめんなさい……私、足手まといに……」
「違います! 私は嬉しいんです。闇音様が、ご自分以外の誰かのために行動なさるなど、もう十年以上も……」
 咄嗟に謝った私の言葉を遮って、真咲さんはふるふると首を振る。そして涙が浮かぶ瞳を上げると、私の手をそっと握った。
 その手の暖かさを感じながら、闇音の声を思い浮かべる。困惑に満ちた、闇音の声――怪我をして足手まといな私を庇って、見捨てずにいてくれた闇音に心が痛くなった。
 天井を見つめていると衣擦れの音が聞こえてきて、私はそちらへ目を遣った。見ると、聖黒さんが少しほっとしたような表情を浮かべて朱兎さんの隣に腰を下ろしたところだった。
「美月様。目が覚められたのですね」
 そっと髪を撫でていく手が温かい。気を緩めて微笑むと、聖黒さんは何度か頷いた。それから朱兎さんと蒼士さんを交互に見て、私の髪から手を離しながら口を開く。
「先程、輝石には連絡しました。誰にも傍受されていません」
「輝石は何だって?」
「今すぐ黒月に向かうと返してきましたが、なんとか押し止めました」
「輝石、居ても立っても居られないだろうね……」
 朱兎さんが聖黒さんの報告に相槌を打つ間、蒼士さんは神妙な表情で頷くだけだった。
「とにかく日が昇るまで待ちなさいと言っています。それと、美月様」
 聖黒さんは突然、話の矛先を私へ向けた。
「斎野宮へは、どのようにご連絡すればよろしいでしょうか」
「え?」
「闇音様が襲われたこと、今回の美月様のお怪我のこと――どこまで連絡すればよろしいのでしょう」
 伺うように訊ねてくる聖黒さんに、私は落ちてくる瞼を必死に開けて呟いた。
「闇音は、何て?」
「闇音様は、美月様に一任すると」
 躊躇うことなく返されてきた答えに、私ははっきりと目を開けて何度か呼吸を繰りかえした。痛みを忘れるほどの驚きだ。
 今まで闇音が私に何かを任せてくれたことがあっただろうか? ましてや今回の件は大事だ。それを、黒月とも私個人とももう関係のない斎野宮への連絡を、私に一任するなんて。
 そのことに純粋な驚きを隠せないまま、私は聖黒さんを見つめて、闇音が望むだろう――そして私自身も望む答えを紡ぐ。
「一切、知らせないで」
「……知らせるなと、仰せですか」
 聖黒さんの確かめるような声音に、私ははっきりと頷いた。
「斎野宮は、黒月とは関係ない家。闇音が襲われたことも、私が怪我をしたことも、黒月家の、存亡に関わります。それを他家に知られては、いけません」
 痛みからくる息苦しさに絶え絶えになりながらも、最後まで強く言葉を紡ぐ。真っ直ぐ聖黒さんを見つめ続けると、聖黒さんはゆっくりと目を閉じてから言った。
「ではそのように」
 聖黒さんのその一言が合図となって、全員がそれぞれ私に一言告げてから部屋を下がっていった。
 一人部屋に残された私に、痛みを覆うほどの睡魔が襲ってくるのに時間はかからなかった。

 

 

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