三十三

 

 自分を奮い立たせるように、胸に抱えた紙袋を抱き締める。それは予想以上に大きな音を立てて存在を主張した。
「闇音、駄菓子って好き? お土産に買ってきたんだけど」
 見上げた横顔が、少しだけ動いて私を見下ろした。その瞳に一瞬だけ浮かんだ動揺の色が、追い打ちをかけるように私を不安にさせる。
「……ごめん。やっぱり食べないよね。あの、今日駄菓子屋さんに行って――ってごめん。興味なかったんだよね」
 目を伏せて抱きかかえていた紙袋を、少し離す。
 先程から私は謝ってばかりだ。これだと逆に鬱陶しがられてしまうかもしれない。
 ふわりと漂ってくる甘い香りが、今は思考を鈍らせるような気がして、できるだけ遠ざけたかった。
 どうしてこうも自分は役立たずなのだろう――そう思いながら袋の中で揺れるりんご飴を睨んでいると、思いがけず横から伸びてきた手がそれを掴んだ。
 驚いて見上げると、闇音がりんご飴を手にしていた。意外にもすんなりと馴染んでいるそれに呆然としていると、闇音は不愉快そうに眉をひそめた。
「何だ。さっきの言葉は嘘で、これは全部お前一人で食べるつもりだったのか?」
「違うの。そうじゃないんだけど……」
「何だ」
 解せないと言った様子で私を見下ろす闇音に、続ける言葉を失った私は口をつぐんだ。それを闇音は淡々と見下ろしてから、りんご飴に目を移す。
 食べるでもなく、闇音はただずっと飴を見つめているだけだった。いつの間にか、闇音は歩調を弛めていた。
 そっと闇音を盗み見る。闇音は不意に顔を上げると飴を持つ手を下ろして空を見上げた。その横顔が傾く陽に照らされて、ほんのりとオレンジ色に染まる。何か言葉を掛けられるような雰囲気ではなく、私はただその横顔を見上げて、深淵に沈んだような黒い瞳の光を見つめた。
「お前は、どうしてそうなんだ」
 突然吐き出されるように呟かれた声は、聞き落としてしまいそうになるほど小さかった。「何が」という問い掛けの言葉を呑み込んで、続く言葉を待つ。闇音はそっと柳眉を寄せて、再び口を開いた。
「俺はお前に辛く当たっているだろう。それなのに、どうしてお前はそうなんだ?」
 まるで苦しみを吐き出しているようだった。歪められた顔に、微かな苛立ちが浮かんでいる。
「俺はお前を道具≠ニしてしか見ていないのに。その役目すら果たせていないお前を疎んでいるのに。お前を憎いと思うこともあるのに――どうして、お前は変わらないんだ? どうすれば、変わらずにいられるんだ?」
 表情とは違って、闇音の低い声には感情が乗っていなかった。何色にも染まっていない声で言葉を紡いでいく闇音は、まるで独り言を言っているようにも見えた。
 それでも闇音は私に答えを求めるように、顔を私へ向ける。その瞳の奥に、仄かな灯りが見えた気がした。
「どうすれば、変わらずにいられたんだろうな」
 闇音は私の顔を見て、それだけを呟くと再び視線を外す。その問い掛けの先にある答えを、闇音は既に持っているような響きだった。
 どうすれば変わらずにいられたのか――その答えは、声に滲んだ慕わしさが、言葉よりも如実に語っていた。
「今の闇音を、闇音は嫌いなの?」
 そっと囁くように問うと、闇音は首を少し傾けた。
「さあな――嫌いでも好きでもない。どうでもいい」
「でも私は、好きだよ」
 そう告げると、闇音はぴたりと足を止めた。一歩先に進んでしまった私は、そこで歩を止めて闇音を振り返る。闇音の顔には拒絶でも絶望でもない、悲嘆が浮かんでいた。
 咄嗟に出たのであろうその感情に、私の心は押し潰されそうになる。それでも私は無理やり口を開けて、言葉を継いだ。
「私は今の闇音が好きだよ。昔の闇音を知らないから、比べることはできないけど……もし知っていても、きっと今の闇音が好きだって言ったと思う」
 丁寧に言葉を紡ぐ――闇音に少しでも届けばいいと願いながら。
 闇音は真っ直ぐと、悲しみを露わにした瞳を私へ向けた。
「どうして」
 初めて聞く、嘆きに掠れた闇音の声に、私は唇を噛み締めた。
「どうして俺に土産なんて買ってくる? どうして俺をそんな風に見るんだ」
 闇音はそう言って俯くと、暫くしてからりんご飴を私に向けて静かに差し出した。赤く艶めくそれは、夕陽を反射してきらりと輝く。
「俺はお前を好きになれないのに」
 小さいけれどはっきりとした声は、凛とした拒絶を乗せていた。何者も必要としないその声に、顔を上げる。
 闇音の顔がぼやけて見える。そのせいか、闇音の表情は声とは裏腹に悲しげに瞳に映った。
「分かってるよ。私には何の価値もない。繁栄ももたらすことができない、役立たずな女だから」
 毅然とした声を出そうとしたのに、それは失敗して無様に震えていた。
 そのあとに広がった静寂(しじま)を破るように、闇音が顔を歪めて口を開く。けれどその声が漏れる前に、後ろから切羽詰まった真咲さんの声が上がった。
「闇音様!」
 ただ事ではないその叫びに、思わず目を走らせる。闇音は私よりも一瞬、反応を遅らせて振り向こうとしていた。
 目に飛び込んできたのは、斜陽に反射した不吉な光だった。近づいてくる人の早さと闇音の動きに、間に合わないという絶望的な言葉が頭を過る。そしてそれと同時に、考える間もなく身体が動いていた。
「美月様!」
 三神と彰さんの声が重なって私を呼ぶのが、遠くで聞こえた。
 目の前には一人の男の姿が、ぼんやりと夕陽に形作られている。地面に目を落とすと、土がゆっくりと赤い鮮血で染まっていくのが見えた。まるで他人事のように目に映るその光景を見つめてから、少し遅く肩を貫いた刃の存在だけを痛みもなく感じた。
 唐突に全身から力が抜けていく。困惑が滲む声で私の名を呼ぶ声が頭上から聞こえる。
 抱きかかえるように背後から伸ばされた腕が、力なく崩れ落ちていく私の身体を支えてくれたのを、遠くなる意識の片隅で感じた。

 

 

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