三十五

 

 ふと、眠りが浅くなったのだろう。遠くから聞こえてくるやり取りが耳に飛び込んできた。
 そのやり取りは段々とこの部屋へ近づいてきている。声を聞くともなしに聞いているけれど、ぼんやりとしている今ではそれが誰なのかまでは分からない。
 速い速度で近づいてくるやり取りに、一人がもう一人を必死になってこの部屋から遠ざけようとしているのだと分かった。
「――おやめ――いくらあなた様でも――誰も入れるなと仰っています!」
 声を殺すような叫び声は、芳香さんのものだった。けれどもう一人の声はそれを煩わしいというように、一蹴した。
「あれが何と言おうと、この屋敷は私の管轄下にある。私がどこへ行こうとあれに止める権利などない」
「何を仰っているのです! この屋敷を実質的に守り動かされているのは闇音様です」
「実質的に%ョかしているのが闇音でも、その上に立つのは私だ。どけ。それ以上邪魔立てするといくら当主三大といえども許さん」
 低い声を出したその人に、芳香さんはなおも食い下がろうとした様子だった。けれどその前に、新しい声が割り込んだ。
「総帥。ここから先は誰も入れるなという命を受けております」
 感情を押し殺したような淡々とした声は、蒼士さんのものだった。蒼士さんのそんな声は初めて聞く。部屋のすぐ外でやり取りがされていることが、三人の声の近さから分かった。
「どうぞお引き取りを」
「青龍か――そこをどけ」
「それはできません。どうしても美月様にお会いになりたいのでしたら闇音様の許可を得てください」
「なぜこの私があれの許可を得ねばならない」
「おやめください!」
 芳香さんの必死の制止も虚しく、その人――お義父さんは部屋に入ってきたようだった。音を立てて床を歩くのが振動で伝わってくる。ゆっくりと閉じていた瞳を開けると、私を見下ろすお義父さんの姿が目に入った。
「美月様は怪我を負われたのです! そのせいで発熱までなさっておいでですのに、なぜそのように強引になさるのですか、龍輝様!」
 怒りを隠そうともせずにお義父さんに食ってかかる芳香さんを、お義父さんは既に無視している。それ以上お義父さんに反論すれば、本当に許されないだろう。
「総帥。御退出願います」
 鋭くお義父さんを見る蒼士さんの瞳には、引っ張ってでも連れ出すというような気配すら感じられる。
 ここでもめ事を起こすのは得策だとは思えない。咄嗟に思った私は身体を起こしながら、蒼士さんと芳香さんを交互に見つめた。
「蒼士さん、芳香さん。私なら大丈夫です。少し眠ったら、随分、よくなりましたから」
 痛み止めが効いているのか、先程までの刺すような痛みはない。ただやはり身体を動かすと鈍い痛みが走る。
「お義父さん。何か、ご用ですか?」
 今度はお義父さんに目線を移すと、お義父さんは二人に顎をしゃくって「出ていけ」と合図を送る。
 芳香さんは憤然たる面持ちで、蒼士さんは怪訝な顔つきでそれぞれお義父さんを見る。けれど結局は二人とも身を翻した。
 お義父さんは二人が出て行くのを待っていたのか、随分と長い間何も言わずに私を見下ろしていた。それを焦れったく思った私が口を開いたけれど、私よりも先にお義父さんの声が部屋に響いた。
「怪我をしたそうだな」
「はい」
「あれを庇ってだと聞いたが」
「……はい」
「庇う価値もない者を庇って」
 忌々しげに吐き出された言葉に、一瞬で思考が凍った。氷のように冷たいお義父さんの表情は、何も動かない。
 庇う価値も、ない者――。
 その言葉が朦朧とする頭の中をぐるぐると回る。
「それは、どういう意味ですか」
 静かに訊ねると、お義父さんは厳しげに目を細めて私を見下ろした。その目が蔑みと憐れみで染まっているのがはっきりと分かった。
「別棟にまで足を運んだというのに忠告し損ねたからな――あれに関わると、命を落とすぞ」
「……仰っている意味が、分かりかねます」
「あれに関わると、皆何かを失う。私の息子は死に、あれと親しくしていた西家の白虎も正体を失くした」
 それまで暗い影が霞んでいたような頭の中が、突如としてはっきりとし始める。かっと熱くなった頭を、なんとか冷静に保とうと努力しながら言葉を紡いだ。
「何が、言いたいんですか」
「あれと親しくするなと忠告している。あれは君を自室に引き入れてまで、君と共にいる。今回怪我をしたのも元を辿ればあれを庇おうとしたからだ。あれと親しくしていると、今度は君の命が亡くなるだろう。そうなる前に忠告しようとしていた――少し、遅かったようだが。君は斎野宮の姫だ。その姫が黒月に嫁いできたというのに、すぐに屍にするわけにはいかん」
 淡々と、何の温度もなく言葉を紡いでいくお義父さんを、私は冷えた目で見ていた。けれどそれとは正反対に、沸々と煮えたぎるようなどろりとした感覚が腹の奥で渦巻くのを感じる。
「今回は助かったが、次は分から」
「出て行って」
 震える手で強く拳を握りしめて、睨みつけるようにお義父さんを見上げて私は言っていた。
 がたがたと震える顎は、熱のせいでも怪我のせいでもない。涙がこみ上げてくるのは、だるさのせいでも痛みのせいでもない。すべて目の前に立つ、この人のせいだ。闇音の父親だという、この人のせいだ。
「あなた、どうしてそんな酷いことを、そんなにも簡単に言えるんですか」
 私が話を遮ったことに驚いたのか、お義父さんは目を見張って私を見下ろしていた。その間にも私の中の怒りが高まっていくのが分かる。
 この人は一体、闇音の何を見ているのだろう。何もかもを見落として、何もかもを見ようとしていないこの人が、闇音の父親だなんて。
「最低です。あなたの話を、聞きたくない。出て行ってください」
 熱が上がっていくのが分かる。左肩に痛みが増すのが分かる。それでも止められない怒りを、荒い息と途切れる言葉に乗せながら、目の前に立つお義父さんを睨み上げた。
 闇音は私を庇ってくれた。疎んでいると言っていた私を、見捨てずにいてくれた。
 そんな闇音の優しさを知らないこの人の言葉を、どうして受け入れることができるだろう。どうすれば彼の父親だと尊敬することができるだろう。
 肩で息をしながらも、睨みつける力だけは緩めない。緩ませることはできない。
 目の前のお義父さんは、私が吐いた言葉と状況をやっと理解した様子で、私を見下ろしてわなわなと震え始めた。暗くても分かる、怒りに満ちた表情に揺らぐ空気。
 それでも睨み続ける私は、もしかすると取り返しのつかないことをしているのかもしれない。だとしても、その価値はあると思えた。
「人が折角、憐みをもって接してやっているというのに――」
「そんなものは不要です」
 相手の言葉を遮って、一気に告げる。
 もうこの人を、義父だとは思えない。たとえ闇音と血が繋がっているのだとしても、闇音を思うようにこの人まで思えない。私の心は、そんな風に広くない。
 再びずきずきと熱を持ち始めた左肩を気にしてもいられない程、目の前に立つ男への怒りが湧きあがっていく。くらくらとする頭に鞭打って、必死になって意識を留めようとする。少しでも気を抜くと、意識を失ってしまいそうだった。
「そこで何をしているんですか」
 不意に部屋に現れた新しい声に、私の力は簡単に抜けた。それまで力一杯に込めていた拳が解けて、ぶるぶると震えだす。視線を外した私は、部屋にゆったりと入ってきた闇音を見て、瞳に涙が溜まっていくのを感じた。
「ここには入るなと、青龍と芳香に言われたはずですが」
 闇音は月に照らされる顔を険しさと訝しさに染めて、真っ直ぐ彼の父親である男を見つめていた。私をじっと見下していた義父はゆっくりと闇音へ身体を向けて、その瞳に侮蔑を露わにした。
「お前如きが私に命令する気か」
「ご不満でしょうが、俺が当主です。芳香が報告に来ました。あなたが美月の部屋に強引に押し入って、何人もこの部屋へ入れるなという俺の命に背いたと。あなたに命を出したのは、この家を取り仕切っている俺です。このような状況下で俺の命に従わないということは、俺に疑念を持たれたいということですか?」
「……私が嫁に危害を加えるとでも言いたいのか」
 淡々と続ける闇音に、彼はかっと目を見開いて声を荒げる。けれどそれすらもかわすように、闇音は表情を変えずに続けた。
「その可能性がないとは言い切れない」
 その一言に激高したのか、彼は肩を怒らせて闇音を睨みつける。怒号が飛ぶかと一瞬、覚悟したけれど、彼は唇を厳しく真一文字に結んで部屋から(いき)り立ったまま出て行った。
 その後ろ姿を目で追っていた私は、唐突に闇音の手が自分の目の前でひらりと踊ったのを見て驚いた。瞳が手を追って闇音の顔に辿りつくと、先程にも増して気が抜けるのを感じた。
 闇音はそんな私を見て、少し顔をしかめる。
「どうして起きている? 傷のせいで熱も高い。寝ていろ」
「闇音」
 再び遠くなりそうな意識を繋ぎとめるように、闇音の腕に縋る。闇音に振りほどかれるかと思った手は、意外にもそのままだった。
「怪我はして、ないんだよね? 無事なんだよね? 大丈夫、なんだよね?」
 今のやり取りを、聞いていないでしょう? あの言葉を、聞かずにすんだんでしょう?
 お願いだから、聞いていないと言って。聞かずにすんだと、言って。
 次から次へと零れ落ちる涙を拭う気力さえなく、白い布団に向けて顔を俯けたまま闇音の腕にしがみつく。こんなことをすれば迷惑だと分かっているのに、止められない。顔を見られないように必死で闇音の腕を掴んでいると、ふいに視界が黒く染まった。
 髪に乗せられた温かな体温が、あの場所で抱きとめてくれた温かさと重なった。そのことに失いそうになっていた意識が、更に遠くなる。
 闇音が、私に触れている。私から触れたのではなく、闇音から私に触れている。
 なんとかこの事態に気を失わずにすんだ私は、どうやらピークを越えたようだった。今度ははっきりと頭が冴えてくるのが分かった。傷の痛みは驚きで一瞬引いたものの、再び熱を放ちながら痛みを伝えてくる。
「どうしてお前が泣くんだ。お前が泣く必要はないのに」
 切なく細い声が、頭上から零れ落ちてきた。その声だけで、闇音がやり取りを聞いていたのだと分かった。
 ぎゅっと闇音の着物を掴むと、闇音がゆっくりと身体を離した。黒曜石のように澄んだ黒い瞳が、惑いに揺れていた。
「どうして俺を庇ったりした? 俺のことなど、見捨てればよかったのに。なぜだ」
 髪に添えられたままの手は、力を失ってゆっくりと肩へ落ちた。私はその手をそっと握って、少しだけ首を傾げる。
「どうして、私を庇ってくれたの? 私のことなんて、見捨てればよかったのに、どうして?」

 

 

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