十六

 

「よく納得させられましたね。彼を」
 彰さんは雪留君の湯呑みを片付けながら、ほっとしたように言った。私はそれを見て、手伝おうと手を伸ばす。
「納得はさせられなかったと思います。何て言うか……丸めこんだと言うか」
「確かに」
 彰さんは私の手をやんわりと退けながら、くすくすと笑った。その笑顔を見て、ふと、彰さんとこうしてゆっくりと話をすることが久々だということに気がついた。
 最後に話をしたのは確か、白亜さんのお見舞いに行った帰り道――そこで彰さんは私に言った。闇音のことを好きになってはいけない、と。
 その言葉の意味を、龍雲さんの命日に彰さんが言っていた「黒月家の混沌に染まって欲しくない」ということが理由なのではないかと最初は考えていた。けれど日が経つにつれてその解釈ではどうも納得がいかない自分がいた。何かがしっくりこないのだ。
 私に闇音を好きになるなと言った日以来、彰さんは私と意図的に距離を置いていた。それは明らかだ。だからこそ、こんな風に普通に会話できる今を逃す手はなかった。
「彰さん。聞きたいことがあります」
 手際よく片付ける彰さんを見つめながら、私は姿勢を正した。彰さんは片付けの手を止めずに、少しだけ目を上げた。
「何でしょう?」
 彰さんはそう言いながら、テーブルを布巾で丁寧に拭く。どうも意図的に私と目を合わせないように思えた。
「白亜さんのお見舞いに行った帰りに、彰さんが言っていたことですけど。あの、私に言いましたよね? 『闇音様を好きにならないでください』って」
 静かに告げると、彰さんは布巾を盆に戻した。
「どういう意味なのかずっと考えていました。最初は『黒月家の混沌に染まって欲しくない』っていう言葉からきたのかと思いました」
「でも今はそう思えない――ということですか?」
 彰さんは目を伏せたまま、長く細い指を正座した腿の上で組み合わせた。私はどこか切なく見える彰さんから目を逸らさずに頷いた。
「違う意味があるんじゃないかって、考えていました。あの、例えば……実は彰さんが闇音の――」
 私は少し身じろぎして口籠る。その先を言えずにいると、彰さんが顔を上げた。
「闇音様の、何です?」
 少しだけ険しくなった彰さんの表情に、私はもうどうとでもなれと思いながら言った。
「闇音の好きな人を知っているから、だから私が好きになっちゃ駄目って言ってるのかと……」
 ぎゅっと拳を握って俯きながら一気に告げる。そのまま暫く力を入れ過ぎて白くなった拳を見つめていたけれど、あまりにも彰さんの反応がないので私はそっと目を上げた。そして目に入ったのは、珍しくぽかんとしている彰さんだった。
「えっと……彰さん?」
 そっと呼び掛けるとそれが合図となったのか、彰さんは勢いよく俯いて肩を震わせた。その姿に今度は私がぽかんとしていると、くっくっという喉を鳴らすような笑い声が小さく部屋に響いた。
「もしかして笑ってますか?」
 小さく呟くと、彰さんは微笑みながら顔を上げて、それからすぐに軽く頭を下げた。
「すみません……何をおっしゃるのかと思えば、まさかそんな内容だったのでつい」
 彰さんは小さく呼吸を繰り返すと、穏やかな顔つきに戻って私を真っ直ぐ見つめた。
「私は闇音様がお好きな女性を存じ上げているわけではありません。さらに申し上げれば、私が知っている内で闇音様が誰かを好きになられたことはないかと思います」
「それはつまり、闇音は誰のことも好きじゃないっていうことですか?」
「端的に申し上げるとそういうことです」
 彰さんはゆっくりとそう告げる。私はその言葉を確かめるように心の中で繰り返した。
 誰のことも好きじゃない――。
「その好きって、どういう好きなんでしょうか?」
「少なくとも恋愛対象として見られている方はいないかと」
「だったら、白亜さんのことは今でも好きなんでしょうか」
 そっと呟くと、彰さんは表情を固くした。
「……どうでしょう。最近は白亜とも疎遠になっていたようですから、私にはよく分かりません。私が白亜と知り合った頃には、もう白亜は闇音様と親しくはしていませんでしたから――白亜の方は闇音様のことを気に掛けていましたが」
 その言い様に私は首を傾げた。
 彰さんの言い方では白亜さんと面識を持ったのは最近のように聞こえる。彰さんが闇音と初めて会ったのは四年前だということは聞いて知っているけれど、四神の――特に西家の二人とはずっと幼い頃から交流があるものだと思っていたのだ。
「彰さんは、白亜さんと闇音が仲良くしていた頃は知らないんですか?」
 難しい顔になっていると自分でも自覚しながら彰さんに訊ねる。すると彰さんは静かに頷いた。
「ええ。私が白亜と初めて会ったのは四年前ですから」
「四年前って、闇音とも四年前に会ったんでしたよね? 三大候補として……」
「そうです。私は生まれてから十八までは西国に住んでいました。父が西国で国司を務めておりましたので」
 それはもしかして世間でいう「左遷」というものなのだろうか……。
 そんな失礼なことを考えていると、彰さんは私の思考を読み取ったように少し笑って口を開いた。
「悒名家は代々都で高い役職に就いていました。私の父もその例外ではありません。彼が地方の国司を務めたのは世間一般で言う左遷ではなく、国司を務め終えた後に再び都に戻り、更に高い役職に就くためです。いわば一種の階段のようなものです。その階段を登ることで昇進するという」
「あっ……そ、そうですよね。すみません」
 罰が悪くなった私は、咄嗟に頭を下げる。すると彰さんの柔らかい声が頭上に降ってきた。
「いいえ。詳しく説明しないと左遷のように思えますから、美月様が気になさることではありません。私は父が西国の国司になってから生まれたので、十八年間は西国で暮らしました。白亜や闇音様と出会ったのは、父の任期が終わり都に戻ってからです」
 彰さんは続けてそう言うと、どこか自嘲気味な笑顔を浮かべてから小さく息を吐いた。
「そうだったんですか……えっとじゃあ、彰さんって都に出てきてからはまだ四年っていうことですか?」
 彰さんの表情に少し驚きながら、私はゆっくりと話を続ける。
 彰さんは盆を持って立ち上がった。
「ええ、そうなります」
 にっこりと微笑む彰さんに悪いとは思いながらも、私は話の軌道を修正することにした。
「だから彰さんは闇音の幼い頃は知らなくて、白亜さんが闇音は優しい人だって言っても信じられなかったんですね」
「……ええ。そうです」
「でも白亜さんの言葉を今は信じているんですよね? 私も闇音のことを全部知っているわけじゃありません。というか、まだ何も知りません。でも、闇音を好きになっちゃいけない理由が私には分からないんです」
 彰さんが考えていることの一欠片でもいい。それを引き出そうとじっと彰さんを見上げていると、彰さんは私を見下ろして苦笑を零した。
「似ています」
 突然ぽつりと漏れてしまったような彰さんの言葉に、私は少しだけ首を傾げた。彰さんは私の顔を眇め見てから、切なく微笑んだ。
「白亜から聞いたことがあります。亡くなられた龍雲様と白亜はどこか似たところがあったらしいと――だから闇音様は白亜に懐いたのだと」
 絞り出すように紡がれた彰さんの言葉の中に、なぜか深い諦めが見え隠れする。その理由が知りたくてじっと瞳を覗き込むけれど、彰さんは私の方へ顔を向けなかった。
「そして美月様――あなたは白亜によく似ています」
 彰さんは顔を背けたまま、呟いた。その言葉に咄嗟に何も返せなかった私は、ぼんやりと彰さんの横顔を見つめていた。
 ここに息衝く誰よりも∴ナ音を思っている彰さんの、その心の内にあるものは何なのだろう。

 

 

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