十二

 

 朝食を食べ終えた私は、閑散とした別棟の廊下を歩いている。母屋(おもや)――寝殿造りの屋敷の方を三大はそう呼んでいるらしい――も十分静かすぎるのだけれど、それに輪をかけた静けさだ。
 歩く度に小さな音を立てる廊下を黙々と進んでいると、いつの間にか闇音の部屋の前に着いていた。四神のために用意された部屋と、三大の部屋はしっかりと襖が閉められているのに、闇音の部屋は襖がすべて開けられている。
 廊下から見えるその景色と闇音の性格とに違和感を覚えながら、闇音の部屋を少し覗いてみる。
 そろりと視線を動かして床の間の前へ動かすと、呆れたような、それでいて無表情な闇音と視線がかち合ってしまった。慌てて姿勢を正して闇音を見つめると、闇音は鬱陶しそうに目を閉じた。
 闇音の態度に委縮してしまった自分を直立不動のまま励ましていると、闇音が大きな溜め息を吐いた。
「いつまでそこに突っ立っているつもりだ? 俺はお前がどうしていようが構わない。だがそうやって見られていると気が散って鬱陶しい」
「ご、ごめん。えっと……入ってもいいの?」
 急いで視線を逸らして、敷居の前に留まったまま訊ねてみる。少し待った挙句、返ってきたのは刺々しい闇音の声だった。
「ずっと廊下に立っているままでいいのか? ……俺がお前を呼んだんだろう。それぐらい他人に訊かなくても分かるだろ」
 闇音の言葉に内心むっとしながらも、頷いてから部屋へ入る。
 私から言わせてもらえば、闇音が相手だからいちいち確認を取っているのではないか。今まで私と一緒の空間にいるのを嫌がられていると自分で自覚していたからこそ、訊ねられずにはいられないのだ。
 部屋に入ってから、きょろきょろとあたりを見渡す。どこに座ればいいのかと、思わず闇音に訊ねそうになる。小さく開いた口を慌てて閉じてから、私は闇音の視界に極力入らないように部屋の隅に腰を下ろした。
「あの、闇音はお仕事するんでしょう? 私は何すればいいの? ずっとここにいるだけでいいの?」
 小さく首を傾げて訊ねると、闇音はちらりと目を上げてから面倒くさそうに頬杖をついた。
「そうだな……。真咲も芳香も彰も、俺がお前を向き合うことを望んでいるらしい。そのことについてお前に訊きたい」
「何?」
「お前はどう思う――俺とお前が向き合うことで何か変わると思うか? お前の力とやらは発現しそうなのか」
 闇音は鋭く光る瞳を私へ向けている。その視線に絡め捕られて思わず答えに詰まると、闇音は視線を逸らさずに続けた。
「俺はそんなことで何も変わらないと思っている」
「……じゃあ、どうして私を呼んでくれたの?」
「変わらないとは思っている。だが、何か行動は起こすべきだ。それ以外の理由はない」
 闇音は言うと、私から顔を背けた。その横顔が冷たい美しさを纏っている。
「これまでと同じことを続けていたのでは、それこそ何も変わらないだろう。もちろん、このまま同じように過ごしていても力が現れる可能性はある。だが、そんな可能性の低いものに懸けたくはない。だから変えることにしたまでだ」
「そう……」
 闇音の答えに俯きながら零す。
 闇音の向き合う≠ニ私の向き合う≠ヘまったく種類が違う。闇音はあくまで家のためだ。
 だったら私は何のために闇音と向き合うのだろう。
 生きるためだろうか。それとも何かもっと別の理由のためだろうか。だとしたら、それは一体何なのだろう――。
「それで、お前はどう思う? 変わるか、変わらないか。力は現れるか、現れないか」
 冷たさを湛えた言葉に、反射的に身体が強張った。顔を上げると、言葉と同じように鋭利な氷のような冷やかさを帯びた顔つきの闇音がいた。
「変わるのか、変わらないのか。現れるのか、現れないのかなんて、今の私には分からないよ。でも……でもね、変わって欲しいと思う。現れて欲しいって思うよ」
 正座した膝の上で、強く手を握る。冷たい闇音に負けないように――いつかこの冷たさを溶かせるように。
「私は今まで誰の役にも立てなかった。闇音に対してもそう――何もできてない。だからこのまま死にたくないの。ちゃんと闇音と向き合って、闇音の役に立ちたいの。それが繁栄≠ニいう方法でしかできないのなら、ちゃんとそれをこの家にもたらしたい。だから、力が現れて欲しいって思う」
 ぎゅっと目を瞑る。
 私がこの世界に帰ってきた意味を、失いたくない。両親に悲しみしか与えられないなんて、そんなのは嫌だ。闇音に失望されただけだなんて、それでは死にきれない。
 手を握り合わせて目を開けると、やはり無表情な闇音が目に入った。彼は「そうか」と小さく呟くと、息を吐いた。
「お前は生きた方がいい。でなければ、お前が死んだ後には大勢の命が失われるだろうからな」
 闇音は頬杖を解いて、もう興味が失せてしまったのか、書類に手を伸ばした。
 けれど私は闇音が言った台詞に凍りついて、彼をじっと見つめた。もたつく自分の口に厳しく命令を送って無理やり開く。そこから言葉が漏れるまでに数秒を要してから、私はやっとのことで言葉を紡いだ。
「それ、どういう意味なの……?」
 闇音は億劫そうに書類から目を上げると、射抜くような目で私を見据えた。その目に正座で許される限り、身体を仰け反らせてしまう。けれど闇音はそんなことには気を留めない様子で、じっと私から目を逸らさずに告げた。
「お前が死ねば、お前の母は死ぬだろう。四神も死ぬだろう。もしかすると、芳香まで死ぬかもしれないな」
「だから、それはどういう意味なの? 私が力を出せなかったら、私と関わった人は死ぬってことなの?」
 じわじわと瞳がぼやけてくる。闇音はそんな私に冷たい一瞥をくれてから、外を見遣った。
「そういうことではない。それなら俺も泉水も、斎野宮当主も四神一族も全員死ななくてはならなくなるだろう。俺が言っているのは『お前を追って死ぬ』ということだ」
 闇音が紡ぐ言葉に戦慄して、私は目を見開いたまま思考が止まったようにじっと闇音を見つめた。闇音は小さく息を吐くと、続ける。
「斎野宮の奥方は、お前を溺愛している。当主の方は理性を保って馬鹿な真似はしないだろうが。四神は言うまでもないだろう。お前を失えば、あいつらは生きていられないだろう。特に青龍などは、お前がいない世界に未練もないだろうしな」
「でも、聖黒さんが言ってたわ。私が死んだとしても、後を追うことは許されていないって。だから、そんなこと――」
「確かに許されていない。だが、そんなものが枷になると思うのか? あの四人相手に命令≠ネどという枷が通じると思っているのか? そんなもの踏み倒してでも、あいつらは好きなように動くだろう。お前を失った時に、死にたいと思えばあいつらは死ぬ。お前に対して玄武がそう言ったのは、お前を安心させるためにすぎない。『あなたを追って死にます』なんて言われたら、たまったもんじゃないからな」
「そんなこと――」
「芳香は俺にも分からないが、もしかしたら死ぬかもしれないな」
「……そんなことを簡単に言うなんて。芳香さんは闇音の臣下でしょう? どうしてそんな言い方ができるの? 芳香さんにもしものことがあった時、闇音は何も思わないの?」
「思わないな」
 闇音は即答すると、持っていた書類に再び目を落とした。
「三大など、いくらでも代えが利く。芳香の代わりなど、吐いて捨てるほどいる。芳香に限ったことではない。彰でも、真咲でも、死ねば代えはいる」
 淡々と恐ろしい言葉を紡ぐ闇音を、私は心の底から悲しいと感じた。
 どうして闇音は、こんなことを平然と言えるようになってしまったのだろう。きっと昔はそうではなかったはずなのに。
「そんなこと言っちゃ駄目だよ、闇音……芳香さんの代わりは誰もいない。芳香さんが抜けた穴は、芳香さんにしか埋められないよ。それは彰さんも真咲さんも同じ。それに、闇音だってそうなんだよ。闇音の代わりは誰にもできない」
「そうだろうか?」
「そうだよ!」
 淡々とした態度を崩さない闇音に、思わず声を荒げる。
 闇音は驚いたように、そして不愉快そうに目を上げて、すっと目を細めて私を睨む。けれど私はそれに立ち向かうようにじっと闇音を見つめ返した。
「そうなんだよ。闇音の代わりは世界中を探しても見つからない。だから闇音は生きてるんだよ。代わりが利かないから、闇音がいるの」
 闇音は弧を描くように瞳を弛ませて、口元に笑みを浮かべる。一見するととても美しい微笑なのに、彼の周りを取り巻く空気は一気に温度を下げた。
「そんなものは戯言にすぎない」
「そんなことな――」
「では、聞かせてもらおうか。兄上の代わりにここにいる俺は、一体なんだ?」
 書類を付書院に置いた闇音は、甘さのある顔で小首を傾げる。
 黒月邸にやってきたばかりの頃に、この部屋で交わされたやり取りを嫌でも思い出す。私が言葉に詰まると、さらに畳みかけるように闇音はすっと身を乗り出した。
「兄上の代わりに当主に据えられた俺は? 兄上が生きていたなら、存在価値すらなかっただろう俺が生きている理由は、何なんだ? 代わりがいないから? 存在価値がない俺の代わりなど、最初から必要ないだろう。だったら俺がここにいる理由はなんだ?」
 距離を詰めるように迫ってくる闇音に、私は唇を噛み締めてからゆっくりと口を開いた。
「闇音がいる理由なんて簡単でしょう。闇音は龍雲さんの代わりでここにいるんじゃない。闇音を必要としてる人がいるからここにいるんだよ。存在価値がないなんて、そんな馬鹿なことがあるはずない。真咲さんは本当に闇音を慕ってるわ。真咲さんにとっての闇音も、私にとっての闇音も、誰にも代わりは務まらない。あなたは大切に思われてるのよ」
 闇音はすっと身体の動きを止めて、私を探るように見つめる。それから身体を退くと小さく首を振った。
「お前なら、そう言うだろうと思った」
 闇音は小さく呟いてから、片眉を引き上げて廊下へ目を遣った。私がつられて廊下へ目を向けると、そこには頭を下げる聖黒さんがいた。

 

 

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