十三

 

「お邪魔を致しまして申し訳ございません」
「い、いいえ」
 丁寧に頭を下げている聖黒さんに、何も言わない闇音に代わって私が手を振りながら言う。聖黒さんはゆっくりと顔を上げると、私に向かって微笑んでから闇音に顔を向けた。
「闇音様。私たち四神はこれから斎野宮へ参ります。どうか我らがいない間は、美月様のことを何卒――」
「お前らがいない間は俺が面倒を見ている。心配しなくていい」
 闇音は聖黒さんの言葉を遮って、億劫そうに手で払う仕草をする。「面倒を見ている」という言葉に多少引っかかりはしたものの、私は聖黒さんに向かって頷いて見せた。
「大丈夫だよ。迷惑にはならないようにするから」
「そのお言葉が聞けて何よりです、闇音様。美月様も闇音様と仲良くお過ごしくださいね」
 聖黒さんは満足そうに微笑んでから、もう一度頭を下げる。聖黒さんの台詞に闇音は不満そうに眉を吊り上げたけれど、結局それ以上は何も言わなかった。
「では失礼致します」
 聖黒さんは最後にそう言って立ち上がると、廊下を歩いて行く。私はその後ろ姿に向かって「気をつけて行ってきてください」と声をかけた。聖黒さんはそれに少しだけ振り向くと頷いてから、また歩きだした。
「俺はこれから仕事をする。お前は適当に過ごせ」
 闇音は書類を手に取ると目を伏せて、私に向かって手で軽く払う。それに私が眉根を寄せていると、闇音は目を上げて私を見つめた。
「不満か」
 私の心を見透かしたような言葉に、思わず返答に詰まる。闇音はそんな私を見て大きく嘆息した。
「不満だと言われても俺にはどうしようもない。俺は泉水みたいに暇ではないから」
「……ここで泉水さんは関係ないじゃない」
 突然闇音の口から出た泉水さんの名前に、私はどぎまぎしながら言った。すると闇音は小さく首を振って、再び書類に目を落とす。
「いや、関係ある。白月の仕事を担っているのは当主である泉水だけではない。あの家は総帥も仕事をしているからな。だが黒月はそうではない」
「お義父さんはお仕事してないの?」
 私の「お義父さん」という言葉に反応してか、闇音はぎろりと私を睨みつけた。
「総帥が仕事をしているようにお前の眼には映るのか? つくづくおめでたい奴だな。総帥は当主を退いた三年前から、都とこの家に関する仕事を一切していない。隠居しているも同然だ。だから俺が一切の仕事を担っている」
 闇音は言うとこめかみに細い指を押し当てて、悩ましげな表情を浮かべた。そんな闇音を見て、私は唇を噛む。
 この家に嫁いできて一ヶ月も経っているのに、私はこの家のことを何も知らない。いや、知ろうとしてこなかったのだ。それは恥ずべきことだった。
「ごめんね……私、何も知らなくて。あの、闇音?」
 私がそっと呼び掛けると、闇音は手を下ろして私をじっと見据えた。
「私も何か手伝えることがあったら手伝うから、何でも言って。お仕事は手伝えなくても、ほら、雑務とかあれば」
 闇音の負担を少しでも減らしたい。そう思う一心で少し身を乗り出して言うと、闇音は珍しく驚いた様子で目を見開いた。そんな闇音の表情を見たのは、婚礼の儀の日以来だった。
「本当に何でも言ってね」
 何も答えてくれない闇音に繰り返して言うと、闇音は少し辛そうな表情を見せた。
 闇音のこんな表情は初めて見る――いや、初めてじゃない。龍雲さんのことを話す時、闇音はこの表情をする。それに驚いていると、闇音は一瞬のうちに表情を失くした。
「お前に手伝えることなんてない」
 闇音は一言、そう告げると書類に目を落とした。その返答に私は俯く。
 闇音が一瞬見せた辛い表情に、何も言うことができなかった。闇音が抱える膨大な量の仕事を、私は何一つ手助けすることができない。何もできない自分がもどかしくて、何もできない自分が恥ずかしい。
 それから私は、無意識のうちに闇音の台詞を反芻していた。
『総帥は当主を退いた三年前から、都とこの家に関する仕事を一切していない』
 だとすると、闇音は三年間もずっと仕事漬けの毎日だったのか。もしかしたら、私がこの世界にやって来てから嫁ぐまでの二ヶ月間、闇音が私の前に姿を見せなかったのは本当に仕事が忙しかったからではないのだろうか。
 三年間――。
 頭の中で数字を繰り返していた私は、ふと気がついて顔を上げた。
「三年前って、闇音って十六歳で当主になったの!?」
 思わず大きな声で訊ねてしまった私は、すぐに口を覆う。けれど時すでに遅し、すらすらと筆で文字を綴っていた闇音の右手ががくんと大きく揺れた。
「ご、ごめんなさい」
 慌てて謝ったけれど、闇音は大きく溜め息を零して筆を置く。それから書き損じた和紙をぐしゃっと丸めると新しい和紙を取り出した。
「そうだ。俺は十六で当主になった。それが何かあるのか?」
 闇音は低い威圧的な声――どすの利いた声と言っても過言ではない――を出して言う。反射的に頭を下げて手を突いて「すみませんでした」と言いたくなってしまう声だ。けれど私は本能に逆らって、闇音を見つめて口を開いた。
「何かあるわけじゃないんだけど――その。闇音って今の私と同い年で当主になったのかと思うと、すごいなって思ったの。私なんて全然しっかりしてないし、家を背負うなんてできないから」
「それはお前がそういう風に育てられなかったからだ。俺はもうずっとそうやって育ってきたから、できて当たり前だ」
「そうかな。すごいことだと私は思うけどな。そうやって育ってきたからって誰にでもできることじゃないよ」
 すらすらと流麗な文字を綴る闇音を見て私が心からそう言うと、闇音は小さく「そうか」と呟いた。仕事に再び集中し始めた闇音を見て、私は小さく「邪魔してごめんね」と言ってから庭へ目を遣った。

 

 

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