十一
かちゃかちゃと、箸がお椀や皿に当たる音がする。それ以外、部屋の中に響く音はない。私はそろそろと目を上げて、綺麗な箸さばきでご飯やおかずを口に運ぶ闇音を盗み見た。
真咲さんに闇音を救って欲しいと言われたものの、具体的に何をすればいいのかなんて私には分からない。
第一、どうやって救えばいいのだろう。碌に闇音のことを知らない私に、どう救えというのだろう。私に、救えるというのだろうか――。
「さっきから、何だ」
不機嫌そうな闇音の低い声が耳を打って、私はびくりと身体を跳ねあがらせてしまった。恐る恐る闇音を上目遣いで見てみると案の定、不機嫌そうに眉根を寄せた闇音が、漬物に箸をつけていた。
「えっと……何だとは何でしょうか」
この際、しらばっくれてしまえと逃げに走った私は、そんなことを口走っていた。するとこれもまた予想どおり、闇音はゆっくりと目を上げてきつい瞳で私を睨んだ。
「何度も何度もおろおろした目で見られて、さっきから鬱陶しい。自分では気づかれていないと思っていたのかもしれないが」
闇音は言いながら、漬物を白米の上においてそれで綺麗にご飯を包んだ。
「ごめんなさい。あの、気分を害させるつもりはなかったの。ごめんね」
私は素直に謝る方に方向転換して、目を伏せた。
これでは失敗だ。最初からこんな風に不機嫌になられてしまっては、話をしようとしても上手く進むはずがない。
どうしようかと考えながら、私は鯵の焼き魚に箸を伸ばした。
取りあえず、最初から闇音の過去について触れるわけにはいかない。第一、闇音が簡単に話してくれるとも思えないし、無理に聞き出しては逆効果になりかねない。ここはひとつ日常会話だ、と決起した私は、鯵とご飯を口に入れて咀嚼してから闇音を見つめた。
「あの、今日はいい天気だね」
会話をする素質や能力というものがあるとしたら、私には皆無らしい。そして闇音は私の台詞には無言で、鯵の身をほぐしていた。
無視されてもへこんではいけないと、私は自分を奮い立たせて続けて口を開いた。
「昨日はすごい雨だったよね。梅雨も開けたところだったのにね」
耳に痛い沈黙が部屋を満たす。
私は当たり前のように無視してくる闇音を見つめてから、お膳に目を落とした。私は闇音を知ろうとして彼を見つめているけれど、闇音にはやはりその気はないらしい。闇音から私を呼んでくれたことで少しだけ期待したのだけれど、それもどうやら空振りに終わりそうだ。
それでも、と私は奮起して口を開いた。
「今日、彰さんは西家で朝ご飯なんだって。でもその代わりに、輝石君はここでご飯食べてるんだよ」
三度目の正直を願った私の決死の話題に、闇音はゆっくりとみそ汁を啜った。その姿を見て、失敗かと落ち込む。ご飯を食べることに専念しようと、私は仕方なく漬物を箸で掴んだ。
「彰に朝食が作れるのか?」
ぽつりとした闇音の声が、耳に届いた。私が驚いて勢いよく顔を跳ねあげると、闇音は片眉を吊り上げた。
「えっと――さっきもそのことについて話してたの。彰さんにはご飯、作れないんじゃないかって輝石君も心配してたよ」
「だろうな」
闇音は小さく頷いて、少し横を向く。目線の先には石庭があった。
「輝石とは違って、彰は台所になんて立ったことはないだろう。悒名家の跡取りだ。そんな風には育てられなかっただろうから……白亜が食べられるものを作れるといいが」
闇音がぼんやりとそう言うのを聞いて、私は違和感を覚える。何にだろう、どこに違和感があるのだろうと暫くの間考えて、そして分かった。
「闇音。白亜さんのことは名前で呼ぶの?」
少し首を傾げて私が問いかけると、闇音はそれまでぼんやりとしていた視線を急にはっきりとさせて、心なしか目を見開いた。その反応に驚いて言葉を継げずにいると、すぐに闇音は厳しく目を細める。視線は庭に向かっているままだ。
「悪いか」
「ううん、悪くないよ。ちょっと驚いただけで」
闇音は輝石君を覗いた三神のことは、聖黒さんのことは玄武と、蒼士さんのことは青龍と、朱兎さんのことは朱雀と、必ずそう呼んでいた。そのまま当てはまめれば、白亜さんのことは白虎と呼んでいたはずだ。白亜さんはもう白虎を退いているとはいえ、闇音が彼女のことを呼び捨てで呼ぶなんて予想外だったのだ。
闇音の厳しい瞳を見つめながら、私はこの間お見舞いに行った時の白亜さんの言動を思い出していた。
「あの、闇音は……」
白亜さんと仲がよかったの? 今でも彼女を心配しているの?
闇音が私に目を当てて、黙ってその先の言葉を待ってくれている。けれど訊ねることができなくて、私は代わりに小さく首を振った。
「何でもない」
私が呟くと、闇音は怪訝そうな顔つきになったけれど、それ以上何も言わずにお茶に手を伸ばした。
闇音が龍雲さんを思うように、ずっと白亜さんのことも慕っていたのだとしたら――? もしそうなら、闇音が大切に思う人が二人も失われたことになってしまう。一人はもう手の届かないところへ。もう一人は、目の前に自分がいたとしても必ず認識してもらえるとは限らないところへ。
「……そうだ。四神のみんなは今日、斎野宮に行くって」
話題を変えてしまおうと、私はそう言った。
四人は今日、改めて斎野宮に行くそうだ。聖黒さんが言っていた「近いうちに斎野宮当主夫妻に会うことになる」という予想は的中したわけだ。
「お前の話を聞きに行くためか」
闇音の確かめるような声音に、私は頷いた。すると闇音が嘲笑に似た、自嘲の笑みを浮かべた。
私がその笑みの意味を測りかねている間に、闇音は立ち上がって部屋の奥に控えていた給仕係の男の人に目だけで合図してから、部屋から出て行こうとする。
私が焦って、まだたくさん残っているお膳を見下ろしていると、ふと闇音が立ち止まった気配がした。私が確認するように目を上げると、敷居を跨いだところで私を振り返っている闇音と目が合った。
「俺は自室に戻る。お前もそれを食べ終わったら来い」
闇音はそれだけ言うと、さっさと踵を返して消えて行った。
もしかしたら、私は完全な空振りではないかもしれない。闇音も少しは私と向き合おうとしてくれているのかもしれない。それがたとえ不本意だとしても、そう思うと嬉しく感じる自分がいた。
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