第三部


 

 

 足取りは重い。引き摺るように足を前へ踏み出して、真っ直ぐ前だけを見つめる。
 蒼士さんはそんな私の隣で、何も言わずについていてくれる。今は話しかけずにいてくれることが、ただただ有難かった。こんな時に話すべき言葉を、私は知らないから。
 死ぬかもしれない。
 その言葉が頭の中に浮かんだ瞬間、たった一人の顔が浮かんだ。
 それは父でも母でもなく、田辺家の両親でもなく、四神の四人でも、三大のみんなでもなく、闇音でもない。
 自分でも往生際が悪いと思う。身を引くと決めたのに、未だに忘れられずにいる。でも一目、会いたい。もう、会う勇気すら消えてなくなるかもしれないから――。
「……あれ? 姫?」
 少し驚いたような無邪気な声が耳を打つ。それでやっと目的地に到着したのだと知れた。
「どうしたんですか? 蒼士さんも一緒で」
 雪留君がぱたぱたと私に向かって走り寄りながら、不思議そうに首を傾げている。雪留君の顔を見るのが久しぶりで、とても懐かしく感じた私は、感慨深く彼の顔をじっと見つめてしまった。
「姫?」
 雪留君は訳が分からないといった様子を見せて、さらに首を捻る。その仕草の可愛らしさに私は微笑んで、それからはっきりと告げた。
「泉水さんに会いたいの」
「え? 泉水様?」
「うん。会いたい」
 繰り返すと、雪留君が困ったように眉をひそめた。
「泉水様は今ちょうど、譲と出掛けてて――でも、もうすぐ帰ってくると思います。中で待ちますか?」
 雪留君は門の中を指差す。少し開けられている隙間から、黒月邸と同じ寝殿造りの屋敷が目に入った。
「中に入ってもいいの? というか、もしかして雪留君、これから出掛けるところだった? ごめんね、邪魔しちゃって……」
 門をノックした覚えも、誰かに取り次いでもらった覚えもない私は慌てて付け足す。すると雪留君はにっこりと花のように微笑んで頭を振った。
「別に大した用事じゃないですから。輝石のところに行こうかと思ってただけで」
「そっか……」
 私は言うと、そっと俯く。
 これが最後。もう泉水さんには会わない。そう決めて白月家までやってきた。
 泉水さんと小梅さんの結婚については、斎野宮の両親が私の代わりに何とかしてくれるそうだ。二人の望む結果になるように両家に掛け合うと、父と母は約束してくれた。二人の瞳が「私の願いは必ず叶える」と語っていた。父と母は、私が直接白月家と北家に足を運ばなくてもいいように、自分たちがすぐに何とかすると言ってくれたけれど、私は最後に泉水さんにどうしても会いたかった。
 私が十六になってから、三ヶ月。タイムリミットは残り九ヶ月だ。そう易々と死ぬつもりはない。けれど、今まで誰ひとりとして力が発現した娘がいないと言われれば、気弱になるのも仕方がないと思ってしまっている。
「――あの、姫? どうかしました?」
 雪留君が私の顔を覗き込みながら、疑問そうにしている。私はそれで我に返って、雪留君に焦点を合わせた。
「ごめん。何でもないよ」
 微笑んで言うけれど、上手く笑えている自信はない。私の心配どおり、変な顔になっているらしい私を見て、雪留君はさらに怪訝そうな顔つきになった。
「何でもないっていう感じ、しませんけど」
 雪留君は呟くと、私の隣に立っている蒼士さんを見上げた。
「姫に何かあったんで――」
「雪留? まだいたの?」
 雪留君の言葉を遮って、穏やかな声が聞こえてくる。ふと雪留君の背後に目をやると、私を見つけて驚いている博永さんがいた。
「え? 姫君?」
 博永さんは目を見張ってそう言うと、慌てた様子でこちらに走り寄ってきた。
「どうなさったんですか? 何かご用ですか?」
 博永さんは両手一杯に書簡を抱えて、掛けていた眼鏡を外しながら私を見下ろす。私はまた懐かしい顔に会えたのが嬉しくて、今度は本当の笑顔を浮かべていた。
「お久しぶりです、博永さん。元気そうでなによりです」
「え? ……あっ、考えてみるとそうですね。最後にお会いしたのは婚儀の日でしたから、もう一月近く前ですね」
 博永さんは朗らかに言うと、蒼士さんに視線を移す。そしてすぐに雪留君と同じように怪訝な表情になった。
「えっと……何かあったんですか?」
「いえ、別に」
 蒼士さんは手短に答えると視線を外す。そんな蒼士さんを博永さんは不思議そうに見つめてから、私に目を戻した。
「泉水様ですか? 生憎と出掛けているんですが、すぐに戻ってくると思いますから」
「それはさっき僕が言ったよ」
 すかさず雪留君が言う。博永さんは困ったように優しく微笑んで雪留君を見下ろした。
 短い梅雨が開けて、既にここ数日は風の中に夏の香りが漂っている。夏が嫌いだと何度も言っていた泉水さんを思い出して、ぎゅっと胸が痛くなった。
 来年の夏、私はここにこうしていることができるだろうか? 蒼士さんがいて、他の三神もいて、闇音がいて、三大のみんながいて、そして泉水さんがいるこの世界に。
 微かに吹く風に前髪が揺れる。泣きそうなほど辛いのに、涙は流れない。何かしなくちゃいけないのに、何をすればいいのか分からない。空を見上げてみると、泣きだしそうな空に浮かぶ黒い雲が見えた。
 そっと目を閉じて、風の音を聞きながら泉水さんを待つ。今会いたい、たった一人の人を。

 

 

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