「美月ちゃん?」
 風に乗って、柔らかい声が届く。その声を聞いた瞬間、今まで胸の中を渦巻いていた苦しい思いが少し和らいだ気がした。
 振り返って泉水さんを見つめれば、いつもと変わらない微笑みを湛えた彼がいた。
 世界はこんなにもいつもどおりに進んでいるのに。突然、たった一人で宇宙の片隅に投げだされてしまったような、そんな心細さが私の中には確かにあった。
「どうしたの? 蒼士も一緒で」
 私を見つけて言う言葉はみんな一緒なんだな、と思うとなんだかおかしくなった。少しだけ笑って、それから私は泉水さんと、その隣に立つ譲さんに向かってお辞儀した。
「泉水さん、譲さん。お久しぶりです」
 丁寧に頭を下げてから顔を上げると、少し慌てた様子の譲さんの顔が目に入った。
「姫君、お久しゅうございます」
 譲さんは言うと、私に負けないぐらいに深々と一礼する。譲さんを包む雰囲気が以前よりも柔らかいものに変化していたけれど、律義なところは変わっていないらしい。
「差し支えなければ、御用件をお伺いしたいのですが」
 譲さんは確かめるように博永さんと雪留君に目を配ってから、再び私に視線を戻す。どうやら白月三大のうちで私の登場に一番驚いているのは譲さんらしかった。
「泉水さんに会いに来たんです。少し、泉水さんと話がしたいんですけど」
 私は一息にそう言うと、伺うように泉水さんと譲さんを見比べる。
 泉水さんは驚いたように少し目を見張ってから、すぐに口元を弛めて私を見つめた。譲さんの方はちらりと泉水さんに目を遣って、それから頷いた。
「では私たちは下がっています。泉水様、中でお待ちしております――博永、雪留も中へ」
「えー。僕も姫と話したい。っていうか僕、これから輝石のところに行こうと思ってたんだった。すっかり忘れてたけど」
「今は駄目だ。中へ入りなさい。輝石のところにも後で行けばいいだろう」
 不満そうに文句を言う雪留君に、譲さんは呆れた顔で雪留君を引っ張って行く。その様子に苦笑を浮かべた博永さんは、門を閉めながら私に一礼した。
「では、私も失礼します」
 静かに門が閉まっていく様子を泉水さんが微笑ましそうに見つめていた。ぼんやりと泉水さんを見つめていた私の耳元で、不意に蒼士さんの声が聞こえた。
「では私も下がっています。あちらでお待ちしておりますので、お話が終わりましたら呼んでください」
 蒼士さんは白月邸の塀が途切れる辺りを手で示すと、泉水さんに一礼してから歩いて行ってしまった。私はその後ろ姿を少し見つめてから、泉水さんへ視線を戻す。
 きっと、私がここにいる理由が分からずに訝しく思っているだろう。けれど泉水さんは表面には優しさしか出さずに、じっと私が話し始めるのを待っている。なかなか言葉が出てこない私にも、泉水さんは微笑みを浮かべたまま根気強く私の言葉を待ってくれていた。
 私は一体、何のためにここに来たのだっただろうか。ただ泉水さんの顔を見たい一心でここまで来た私は、話すべき事柄も上手く見つからない。こうして泉水さんと向かい合っているだけで、それだけで満足だったのだ。
 けれど、何かを話さなくては。いつまでも無言でいたら怪しまれてしまうかもしれない。それに、もう泉水さんに会うのは最後だと決めたのだ。こうして切ない想いを抱いて会うのは、もう最後にしようと――。
「泉水さん」
「何かな?」
 泉水さんに届くかどうかも危ういような小さな声で呼びかけたのに、泉水さんは優しく目を細めながら答えてくれた。
 呼びかけたはいいけれど、次の言葉が続かない。困惑する私に、泉水さんはおかしそうに少し笑った様子だった。
「そっちに行ってもいいかな? ちょっと距離が離れすぎていると思うんだよね」
 泉水さんは、私との間に広がっている会話をするには遠い距離を指差して、首を傾げた。その距離に今になって気がついた私は、慌てて頷いた。もしかしたらさっき私の呼びかけに答えてくれたのも、実際には私の声は泉水さんまで届いていなくて、ただ私が口を動かしたのに反応してくれたのかもしれない。そんな気がした。
「それで、どうしたの?」
 泉水さんは私の目の前まで歩いてやってくると、私の顔を覗き込むようにする。その行為にすら胸が締め付けられて、私はぎゅっと拳を握った。
「泉水さん。一つ、恩に着せてもいいですか?」
 震えないように注意しながら声に出す。泉水さんは私の台詞に驚いた様子で「え?」と返すと、すぐにおかしそうに笑った。
「面と向かって『恩に着せる』って言われたのは初めてだよ」
 泉水さんは喉の奥の方でくっくっと笑うと、柔らかい視線を私に落とした。
「どうぞ。恩に着せてください」
 泉水さんは先を促すように言う。私はその言葉に勇気をもらって、深く頷いた。
「小梅さんとの結婚は、きっと上手く進むと思います」
 私が静かに告げると、泉水さんは途端に笑みを消した。その瞳が困惑に揺れているのを見て取って、私は続けて言葉を紡ぐ。
「両親に掛け合ってきました。斎野宮から、白月家と北家に話をつけてくれるそうです」
 もしかしたら迷惑なことだったかもしれない、と今になって思う。もしかしたら泉水さんと小梅さんは、二人の力だけでなんとかしようとしていたかもしれないのに。私の行動は有難迷惑にもならないような、ただの迷惑行為だったかもしれない。
 もしかしたら、あからさまに嫌な顔をされるかもしれない。もしかしたら、はっきりと「迷惑だ」と言われるかもしれない。そう覚悟を決めて、泉水さんの言葉を待つ。
 泉水さんの感情の揺れが空気を通して伝わってくる。きっとどう返せばいいのか分からないのだと思う。耐え切れなくなって俯くと、泉水さんの声が耳を打った。
「本当に、恩に着せられてしまったな……」
 ぽつりとした小さな声が、捕らえ処のない感情を表しているようだった。
「最初は私の力だけでなんとかしようと思っていたんだけれどね」
 その台詞にびくりとして顔を上げると、予想外にもそこにあったのは私を優しく見下ろす泉水さんの顔だった。
「それも最初だけだったよ。両親に言っても、あちらの総帥や奥方に言っても、何一つ進展しなかった。ただ一言『許せない』と言われるだけで。その上、聖黒からも『小梅のことは諦めて欲しい』と言われてね。だから今は、藁にも縋りたい思いだった」
 泉水さんは風で流れていく雲の様を見つめながら静かに話す。その髪がさらさらと風になびいて、きらきらと雲から顔を覗かせた日の光に染まって輝いていた。
「ありがとう。本当に、ありがとう」
 泉水さんは私の手を取ってそっと握ると、私の目を直と見つめてゆっくりと言う。そんな泉水さんの様子に目が潤んだのが分かった。私はそれを零さないように気持ちを奮い立たせて、口を開く。
「恩に着せられましたか?」
「十分ね」
 私が訊ねると、泉水さんは深く頷いて答えた。私はそれを見てから、再び言葉を紡いだ。
「だったら一つお願いがあります。聞いてくれますか?」
 泉水さんはまた驚いたような顔をして、けれどすぐに私の言葉を促すように頷いた。
「正直に答えて欲しいことがあるんです。絶対に嘘はつかないでください」
 懇願するように、私は泉水さんを見つめる。泉水さんは面食らったような表情を一瞬だけ浮かべて、けれどそれからすぐに聞く態勢に入ったらしい。少し首を傾げて私を見下ろした。
「あの時――会合の日に、私が闇音じゃなく泉水さんを選んでいたら、泉水さんは私と結婚してくれましたか?」
 私が言うと泉水さんは一瞬固まって、それからただ悲しそうに微笑んだ。それでも私は泉水さんから目を離さない。じっと答えを待って黙っていると、やがて泉水さんは根負けした様子で私から目を逸らした。
「――結婚、したと思う」
 静かな泉水さんの声。その中に微かな偽りが見えた。
 嘘だ、と泉水さんの横顔を見て私は思った。
 泉水さんはきっと、私が彼を選んでいても私とは結婚しなかっただろう。あの時の泉水さんは、もう既に心を決めていたのだと思う。私とは結婚しないという意思を。
 嘘を吐かないでと頼んでも、泉水さんは私に嘘を吐く。きっとそれは私のことを思ってくれてなのだろうと分かってはいるけれど、その嘘が今は悲しいだけだった。
「きっと、結婚したと思うよ――美月ちゃんがそれで幸せになれるのなら」
「……ずるい逃げ方です」
 私がぽつりと零すと、泉水さんは私に顔を向けた。その顔は申し訳なさそうにひそめられていた。
 私の懇願すら、するりとかわしてしまう。つまりそれは、泉水さんにとっての私の存在価値だ。きっとこの願いを口にしたのが小梅さんだったなら、泉水さんは嘘を吐かなかっただろう。
「これでやっと吹っ切れました」
 涙が溜まって視界が滲む中で、泉水さんを見上げる。ぼやけているお陰で、泉水さんの表情はよく分からない。
「さようなら。泉水さん」
 そっと告げて、踵を返す。
 諦められる。この想いを本当の意味で捨てられる。やっとそう思えた。

 

 

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