静かな屋敷の中をゆっくりと歩く。私は時折、横手に見える南庭を見つめながら、手に持つ書簡を落とさないように持ち直す。
 そして、渡殿を通って寝殿へと入った朱兎さんと私は、今度は闇音の部屋を探すために屋敷内へと視線を移した。
 私は二日前に見たきりの屋敷の見取り図を必死に頭に思い起こす。当主――闇音の部屋は南向きの一番広い部屋だったはずだ。見取り図で見たところ、南庭への見晴らしが一番よさそうな部屋だ。
 朱兎さんも見取り図を頭に描きながらだろう、周囲を一通り見渡すと小さな声で部屋の名を呟いてから、私を振り返った。
「このまま真っ直ぐ行けばたどり着けますね。参りましょう」
 朱兎さんはそう言うと微笑んで、私を促すように先に立って歩き出した。私はその後について歩き出すと、手に持つ書簡へ目を落とした。
 闇音が自室へ人を寄せ付けないのも、「人が嫌い」だからだろうか――。
 闇音は一体、今までどんな風に過ごしてきたのだろう。人が嫌いだと言い切るようになってしまったきっかけは、一体何だったのだろう。そう考えると思わず顔が歪んだ。
「姫君、着きましたよ」
 唐突に声を掛けられて驚いた私は、踏み出そうとしていた足を引っ込めて立ち止まった。
 朱兎さんは物思いふけっていた私を優しい面差しで見下ろすと、すっと顔を上げて目の前に広がる襖を見つめた。それに促されて私も襖の方を向くと、息を呑んだ。
 月が照らす闇夜の中、黒龍が体をうねらせている絵が描かれている見事な襖が目の前に広がる。闇はどこまでも深く、月の光はその中で淡く辺りを照らしている。そしてその光を受けて、黒龍は美しく気高く、そしてどこか他者を寄せ付けないような冷たさを湛えて存在している。その黒龍の美しさと孤独が、どこか闇音と重なって見えた。
 思わず襖から目を逸らす。この襖から例えようのない圧迫が感じられるようだった。
 一つ深呼吸をして心を落ち着かせると、襖へ視線を戻す。そこでおかしなことに気が付いた。
 この屋敷で目に着く部屋は、すべて蔀戸で仕切られている。上下二枚に分かれたそれは、下一枚は立てておき、上一枚を釣り上げて採光用として使用しているのだ。けれどここにはわざわざ襖が入れられている。そしてよくよく見てみると、襖の絵はまだ新しいものだった。描かれてからそう年数も経っていないように思われる。
 訝しげに思いながらも、その考えを追い払う。取りあえず今は、この書簡を闇音に届けることが先だ。
 私は真っ直ぐ襖に描かれた黒龍を見つめてから、朱兎さんと視線を交わすと、襖に手を掛けた。一瞬だけ躊躇ってから小さく息を吐いて、それを横に引こうと手に力を入れる。
 少し襖が開いて部屋の中に光が差し込んだと同時に、廊下の端で甲高い叫び声が聞こえた。そのあまりの悲痛な叫びに、思わず体を硬くして襖から手を離すと、勢いよく声がする方を振り返った。
「何をしているの!」
 叫び声を発したその人――お義母さんは、目を剥きながら荒々しく声を発して私の方へ音もなく走り寄る。それから少しだけ開かれた襖を後ろ手で勢いよく閉めると、私をじっと睨み据えた。
「何をしているの!」
 怒りに震えながら再度そう言うと、お義母さんは私から視線を外して朱兎さんを見据えた。
 一体何が起こっているのか把握できずに、朱兎さんと私は顔を合わせると、それからすぐに、わなわなと震えながら目を剥くお義母さんへ視線を戻した。
 三人は無言のまま数分の間見つめ合って、それからようやく私が小さく声を発した。
「あの、闇音に書簡を届けようと……」
 お義母さんを見つめながら発した言葉は、最後には尻すぼまりになって夕焼けの中に呑みこまれた。その強い怒りに呑みこまれそうで、視線すら合わせているのが苦痛に思える。
「闇音の部屋はここにはないわ! ここは闇音の部屋じゃないわ!」
 お義母さんは私の答えを聞くと、さらに怒りに震えながら、顔を真っ青にしてそう強い調子で言い切った。
 闇音によく似た美しい顔は、今はその面影も見つけられないほど変わり果てている。激しい怒りと恐怖にも似た何かに支配されたように、お義母さんはただ目を剥いて浅い呼吸を繰り返しながら私を見つめている。それになすすべもなく呆然と立ち尽くすだけしかできない私は、先程放たれた言葉の意味も理解できずに、ただお義母さんを見つめ返した。お義母さんは顔を歪めてそんな私に一瞥をくれると、細く襖を開けてするりと部屋の中へ入り、強く襖を閉めきった。
 行き場の分からない怒りをぶつけられて取り残された私は、大きな音を立てて閉まった襖を、半ば放心状態で朱兎さんと二人で見つめていた。

 

 それからどのくらい経ったのだろう。
 二人して放心状態となり、なすすべもなく立ち尽くしている朱兎さんと私は、辺りが闇に呑みこまれ始めるまでそこから動けずにいた。その間、二人は何も言葉を交わさなかった。その余裕がなかったのだと思う。
 そして静かな空間の中で床がきしむ音がして、私は我に返った。朱兎さんもその様子だった。二人で一斉に音のする方を振り向くと、驚いた様子の彰さんが早足でこちらへやってくるところだった。
 彰さんの姿にほっとして肩の力を抜くと、隣に佇む朱兎さんへ視線を走らせる。すると朱兎さんも私と同じようにほっとした様子で彰さんを見つめていた。
「どうなさったのですか? こちらで」
 彰さんは足早に目の前まで来ると、朱兎さんと私を交互に見つめながら小さな声で囁くように言った。それから襖をちらりと見やると、眉根を寄せた。
 私はその瞬間、まだ部屋の中にお義母さんがいることを思い出して、さっと襖へ目を走らせると、彰さんの袖を引っ張りながら長い廊下を歩いて角を曲がる。それから慎重に小さな声で言葉を紡ぐ。
「闇音宛てに書簡が届いたんです。真咲さんは買い出しに出掛けていていなかったので、代わりに私が届けようと思って」
 私は彰さんに書簡を見せながらそう言うと、続けて話す。
「それで前に、彰さんに闇音の部屋を教えてもらっていたので、朱兎さんと届けに行ったんです。でも――」
「闇音様のお部屋はあちらではありません」
 私が言葉を続けるよりも早く、彰さんがそう遮った。
 それを受けて朱兎さんが不審そうに彰さんを見つめる。
「でも見取り図であの部屋を指して、当主の部屋だって――」
「ええ、当主のお部屋はあちらです。ですが闇音様のお部屋ではありません」
 彰さんは朱兎さんの言葉も遮ると、硬い表情で質問を挟む隙を与えずにそう告げた。彰さんの言葉に困惑して、朱兎さんと私は顔を見合わせると首を傾げる。
 未だ理解できていない朱兎さんと私を、彰さんは困ったように見つめてから数歩進んで振り返った。
「闇音様のお部屋まで案内いたします。どうぞ」
 彰さんは短くそう言うと、朱兎さんと私に促すような視線を送って歩き出した。
 その後ろ姿をしばらくの間見つめていると、朱兎さんが隣で、姫君、と私を呼ぶ小さな声が聞こえる。その声にゆっくりと朱兎さんの顔を見上げると、朱兎さんは困惑した様子ながらも、頷いて見せた。それを見て私も頷くと、彰さんの背を追った。

 

 彰さんは黙々と歩き続けて、それに続いて朱兎さんと私も静かに歩き続けている。彰さんはどうやら私に質問されるのを拒んでいるらしかった。それを感じ取った私は、ぎゅっと口をつぐむと不安な心持ちで前を歩く彰さんの背中を見つめた。
 寝殿を通り抜けて渡殿へ進む。さらに西北対(にしきたのたい)へ進むと、そこで彰さんは立ち止まった。ここに闇音の部屋があるのか、と思いながら私が辺りを見渡していると、彰さんはそのまま庭に下り、そこにいくつか置かれている下駄のうちから一つを迷うことなく選んでその足に履き、地面に片膝をついて小さめの下駄を手に取り私に示した。
「どうぞ、姫様」
 彰さんの手に持たれた下駄を少しの間見つめてから、私は慌てて両手を振った。
「自分で履けますから」
「お気遣いなさらずに、どうぞ」
 彰さんは私が必死に手を振るのを優しく見つめると、その調子で私の言葉を退けた。
 朱兎さんは彰さんと私のやり取りを横目に、自分はさっと下駄を履いて庭へ下りると困ったように微笑みながら私を見つめた。
 私は彰さんと下駄を交互に見つめて、諦めの溜め息を履くと床に座って下駄を履かせてもらう。足袋を履いた足に鼻緒がぴたりと止まると、彰さんは下駄から手を離して立ち上がった。
「お足下に気をつけてくださいね」
 彰さんは白砂が敷き詰められた足元と道標となっている飛石を示すと、また歩き始めた。
 私は歩き出した彰さんの背中を見つめてから、ゆっくりと歩き出す。朱兎さんも私に合わせて歩き出した。
 大小様々な大きさの飛石が、間隔も程よく配置されているその上を、彰さんについて歩く。静寂を破るのは、下駄が飛石に当たる音だけだった。
 ぼんやりとしながらその小気味()い音を聞いていると、朱兎さんの声が頭上で聞こえてきた。
「そう言えば、彰。今日は早かったね。僕はてっきり夕食も西家で頂いてくるのかと思ってた」
 朱兎さんの言葉に彰さんは歩を進めながら肩越しに振り返ると、苦笑を浮かべた。
「輝石にはそう言われたんですが」
「白亜と一緒にいたいなら、少しぐらい遅くなっても誰も何も言わないよ。皆ちゃんと理解してるから」
 朱兎さんの優しい言葉に、彰さんは今度は振り返らなかった。そしてそのまま数歩黙って歩くと、小さな声で答えた。
「そう言って頂けるとありがたいんですが……」
 彰さんはそこで言葉を切ると、少し躊躇うように項垂れた。それから小さく肩をすくめると、真っ直ぐ前を向いたまま言葉を続ける。
「白亜といると、あの目で真っ直ぐ見つめられると私は、私が許せなくなるのです。私がこんなことを言うなんて、白亜にも輝石にも申し訳が立たないのですが……」
 彰さんから発せられたその小さな声は、悲痛に満ちていて、行き場のない心の叫びが闇となって辺りを覆っているようだった。
「彰が自分を責めることなんてないよ。冷たい言い方だけど、白亜のことは、誰にもどうすることもできなかったんだよ。だから彰が自分を責めることなんて――」
 朱兎さんの慰めの言葉を遮るように、前を歩く彰さんは強く頭を振った。
「いいえ。何か別の、よい方法があったはずです」
 彰さんは強い調子でそう言い切ると、それきり何も言わなかった。けれど、その肩は不自然に震えていた。
 それを見て朱兎さんは何か言おうと口を開きかけたけれど、そのまま何も言わずに閉じた。
 少しの間、黙って歩き続ける。再び静寂が戻ってきて、周りに響くのは飛石に当たる下駄の音だけだった。辺りを支配し始めた闇は、彰さんの心を映し出しているようで、そこに響く下駄の音は寂しげに反響するだけだった。

 

 俯いて歩き続けていた私の目に彰さんの足が飛び込んできて、思わず顔を上げると寂しげに微笑んでいる彰さんの顔が目に入った。
「着きましたよ」
 彰さんはそう小さく言うと、目の前にひっそりと佇む別棟を示した。それを見て朱兎さんが目を見開くと、小さな声で呟く。
「まさか、別棟が闇音様のお部屋?」
「ええ。元々はこの中の一室が闇音様のお部屋だったそうなのですが、当主になられた時に、別棟すべてを闇音様の住居となされたそうです」
「ここすべてとはいっても、別棟でしょう。別棟に当主が住むなんて……」
 彰さんの説明に、朱兎さんは納得いかない様子で呟くと、別棟の全体を見つめて顔をしかめた。
 私はただ別棟を見つめて、それから彰さんへ視線を動かした。
「闇音は中にいるんですか?」
 私がそう言うと、彰さんは頷いて静かに引き戸を引いた。豪華というよりはすっきりとまとめられた玄関は、周りに溶け込むように小さく佇んでいる。彰さんに促されて中へ入ると、それに続いて朱兎さん、そして最後に彰さんも中へ入った。
「どうぞ」
 彰さんはそう言うと、目の前に続く廊下を手で示した。

 

 

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