短い廊下を彰さんに続いて歩き、一室の前で立ち止まる。閉じられた襖の前で彰さんは正座をすると、中に向かって声を掛けた。
「闇音様。姫様がいらっしゃいました」
 彰さんの言葉に、中からは一切の反応も返ってこない。暫しの間、闇音の反応を待っていた彰さんは特に気に留めた様子もなく、先程よりも少し大きな声で、失礼いたします、と言って音もなく襖を開けた。
 襖を開けると同時に、中から淡い灯りが漏れる。
 彰さんに促されて中へ入ると、床の間の前に座って書類だろう紙に目を落とす闇音の姿が横目に入った。慌てて闇音の方へ体を向けて畳に座るけれど、闇音は一向に顔を上げようとしない。
 途方に暮れた私は、取りあえずと思いなおして、書類の置かれていない場所を見つけて付書院(つけしょいん)の上に書簡をそっと置いた。
「さっき使用人の人が――名前は聞いてないから分からないんだけど――届けてくれて。真咲さんは今外に出てるから、代わりに私が闇音のところに持ってきたの」
 付書院から手を引っ込めながらそう付け加えると、闇音は初めて顔を上げた。行灯(あんどん)の淡い光に照らされて、闇音の表情さえも柔らかく見える。
「じゃあ私、帰るね」
 思わず見惚れそうになる自分の心を叱咤しながら、そう言って立ち上がる。
 襖のわきで用事が済むのを待っていた朱兎さんと彰さんを見つけて、用事は終わったと告げるように微笑むと、二人も立ち上がった。
「待て」
 今にも敷居を跨ごうと足を踏み出したその時、闇音の低い声が部屋に響いた。
 その声に呼び止められて、慌てて闇音の方を振り向くと、闇音は相変わらず書類に目を落としたままだった。その様子に不思議な思いで首を傾げていると、しばらくして闇音は目を上げて朱兎さんと彰さんを見据えた。
「彰、朱雀。下がっていろ」
 闇音は短くそう言うと、顎でしゃくって二人を促す。
 彰さんはその言葉に瞬時に反応して一礼すると、音も立てずに下がって行った。ただ朱兎さんの方は、その言葉の意味を推し量るようにあからさまに闇音をじっと見つめていた。
 それでも闇音は朱兎さんを無視して、再び書類に目を落とす。
 しばらくの間、闇音を見つめていた朱兎さんは、諦めた様子で私に一礼すると襖をゆっくりと閉め始めた。
「襖は開けたままで」
 闇音は書類に目を落としたまま、朱兎さんに短くそう命ずる。その言葉に朱兎さんは咄嗟に手を止めて、閉じかけていた襖を再び開いて下がって行った。
「閉め切られるよりも、お前もその方が楽だろう」
 朱兎さんが廊下を歩く音が完全に届かなくなると、闇音はそう付け加えた。
 私は訳が分からないなりに、曖昧に頷いて闇音の手元へ視線を落とす。
 いきなり呼び止められたことに今更ながら動揺し始めてしまう。一体何の用だろう、という言葉がぐるぐると頭を駆け巡る。
 闇音はそんな私の心は露知らず、再び書類に目を落として読みふけり始める。
 最初の数分、闇音をぼんやりと見つめていたけれど、することもなく手持無沙汰になった私は、そっと部屋を見渡してみた。
 この部屋は、やけに質素にまとまっている。寝殿造とはがらりと違って、別棟自体が質素な造りで、寝殿やそれに連なる建物の部屋と比べると、この部屋もとても小さくこじんまりとしている。
 床の間には私の部屋にあるのと同じ、紫蘭の花が生けられている。そして、その奥には風景画らしい掛け軸が掛けられていた。床の間の隣には違い棚があり、そこには綺麗な陶器が飾られているけれど、豪華な印象とは程遠いものだ。
 すっきりとまとめられて片付けも行き届いた部屋をゆっくりと見渡していると、闇音はようやく手に持っていた書類を置いた。けれどすぐに私が持ってきた書簡に手を伸ばして、今度はそちらに目を落とした。それを見て、私は心の中だけで唇を尖らせた。
 私はそわそわと落ち着かないというのに、目の前に座るこの人は、落ち着いた様子で黙々と自らの用事に手を付けている。闇音が私を呼び止めたというのに、話を切り出す様子も見せず、これではどちらが用事があるのか分からない。
 しばらく闇音を見つめてから、肩の力を抜いて何気なく外へ視線を走らせる。すると目の前に広がるのは白い海だった。
 目に見える限り白砂が敷き詰められおり、それが闇の中でぼんやりと光って見える。白砂には丁寧に箒目が付けられていることも手伝って、波打つ海を思わせる。その白砂の上には、いくつかの場所にまとまって石が配置されているだけで、南庭とはまったく違う趣を感じさせる。植物も生き物も存在しないこの空間は、どこか幻想的で現実から切り離されるような錯覚を覚える。
 ぼんやりとしながら石庭を見つめていると、かさりと紙を置く音が耳に飛び込んでくる。無意識に音のする方を向くと、闇音が書簡を付書院の上へ置いてこちらを静かに見つめているのが目に入った。
 少しの間、見つめ合うようにして向き合っていると、闇音の声が部屋に静かに響き渡った。
「彰は白亜の見舞いに行っていたはずだが、どうしてお前を連れてここまで来たんだ?」
 闇音はそう言うと、じっと詮索するように私の瞳を見つめる。淡く照らされた闇音の髪や瞳はその灯りを受けて、いつもの漆黒とは違い淡い色に映し出されている。
「彰さんはお見舞いに行ってたけど、朱兎さんと二人で書簡をここに届ける途中でばったり出くわしたの」
「どこで?」
「寝殿で」
 言ってしまってから、しまったと思う。けれど既に時は遅く、闇音は私の答えに眉根を寄せて、さらに鋭い視線を送ってきていた。
 今ここで、闇音に先程の一件を聞くつもりはなかった。聞いたところで素直に答えてくれるはずもないだろうし、それに知ることが少し怖かった。
 闇音を知りたいと思う気持ちと、それを知って自分はどうするのだろうという気持ちが、奇妙に心の中で綯い交ぜになっている。闇音のことを、彼の過去を知ったとしても、自分ができることなど皆目ないような気がしている。ただ自分の欲求だけで彼の過去を知りたいと望むのは、彼を無暗に傷つけてしまう結果を招くのではないかと考えだしたのだ。
 私はそんな思いを表情に出さないように、なるべく自然な様子を心がけて闇音を見つめ返した。けれど闇音は、その私の心を探るように一瞬目を細めると、私から目を離さずにゆっくりと言葉を継いだ。
「寝殿で?」
 闇音はそう言うとなおも私に視線を据えたまま、頬杖をついて姿勢を崩した。そして少し首を傾げると艶やかな表情を浮かべた。
 一瞬で部屋を満たす空気が一変する。先程までの刺々しい雰囲気とはがらりと変わって、艶やかな表情を浮かべる闇音はあまりにも妖艶だ。
 闇音の表情に思わず硬直して、私は目を見開いて闇音を見つめ返す。金縛りにあったように体も動かなくなり、視線すら逸らすことができない。じわじわと顔に熱が昇っていくのが自分でも分かって、それが無性に恥ずかしいのに、それすらどうしようもできない。
 闇音はそのままじっと私を見つめると、いつも出す冷たい声とは打って変って、あだっぽい声で静かに言葉を続けた。
「まさか寝殿で迷っていたのか? ……当主の部屋の前で?」
 闇音はなおも艶めかしい表情を浮かべながら私をじっと見据えている。その瞳に気圧されて、私はこくりと頷いた。それ以外の行動がとれなかったのだ。
 闇音は私が頷いたのを見ると、途端にいつもの闇音に戻った。
 一瞬にして先程まで醸し出していた妖艶さを見事に消し去ると、いつもどおりの感情を映さない表情で私を見つめる。けれど私を見つめていたその瞳は不意に伏せられて、次いで闇音は小さく息を吐いた。長い睫毛が、横から照らされる淡い光に美しい影となってその頬に落ちる様は、思わず息を呑むほど美しかった。
「お前の興味がありそうなことを教えておいてやろう。ただしこれは、俺のいないところで勝手に詮索されるのが嫌だからだ、ということを理解しておけ」
 闇音はそう言うと、伏せていた目を上げて私を見つめる。射るようなその視線に、先程とは違う理由で私はまた動けなくなって、闇音を見つめ返した。
「当主の部屋の中を見たか?」
 淡々としたその言葉に、感情は一切籠っていない。冷たさすらも感じられない言葉に、私は思わず全身が粟立つのを感じて、闇音から目を離さずにゆっくりと首を横に振った。
 闇音はそれを見て取ると、さらに言葉を続ける。
「だとすれば、あの部屋の前で奥方に会ったんだろうな」
 奥方≠ニいう言葉が、彼自身の母親を指しているということに、しばらくの間気づく事ができなかった。闇音の口から漏れたその言葉は、あまりにも冷たくよそよそしいもので、母親に対して発する言葉としてすぐさま解釈することができないような響きだった。
 呆然と闇音を見つめる私を知ってか知らずか、闇音は私から視線を逸らすと静かに告げた。
「あの部屋は、兄上の部屋だ」

 

 

back  龍月トップへ  next

 

小説置場へ戻る  トップページへ戻る

 

Copyright © TugumiYUI All Rights Reserved.

inserted by FC2 system