真咲さんは、芳香さんに連行されるように連れてこられた私の部屋で、そわそわと辺りを見渡すと、居心地が悪そうに私へ視線を移動させた。
 私はそれに構わずに、真咲さんに視線を据えると口を開いた。
「最近の闇音のことですけど」
 私の口から闇音の名前が出たことに、一瞬どきりとしたように身を硬くして、真咲さんは私を見つめ返す。
「そんなにお仕事って忙しいんですか? あの日、私の部屋に訪ねてきてくれて以来、ろくに闇音と会話らしい会話をしてないんです。……もっとも、あの日だって会話らしい会話はしてませんけど」
 少し上目使いで私を見上げる真咲さんを見つめて、私は思い出す様に二日前のやり取りを思い浮かべる。
 今日で黒月家へ入って五日目。明日には結婚の儀が執り行われるにもかかわらず、闇音は意図的か自然にか、私を避け続けていた。
 あの日、闇音から厳しい一言を受けた彰さんと芳香さんは、何が何でも積み上げられていた本を私に覚えさせようと頑張り、四神家は四神家で、別の思惑――美月様があのように言われたままでは気が済みません、と聖黒さんは言っていた――から何が何でも私に完璧に本の内容を覚えさせようと躍起になったため、闇音に会いに行くという私の計画は見事に崩れ去った。
 目の前には彰さんと芳香さん、隣には四神家がずっとついていたために、部屋を抜け出すこともできなかったのだ。厠へ行くという理由ですらなかなか部屋を出してもらえなかったのに、闇音の部屋まで行くと言っても絶対に誰も許してくれなかっただろう。
 けれどその甲斐あって、既に覚え終えた本は山のように積み上げられ、残すところ一冊となっている。それに安堵した彰さんは今、席を外して輝石君と一緒に白亜さんの元へお見舞いに行っていた。
「あの、闇音様は、本日は自室にお籠りになって仕事をなさっておいでです」
 真咲さんは数秒の沈黙を破って伏せがちにそう言うと、もう一度私を上目使いで見上げた。そこにすかさず芳香さんの横やりが入る。
「それじゃ答えになってないじゃない。闇音様のお仕事が忙しいのか聞いてらっしゃるのに」
 芳香さんが的確にそう指摘すると、真咲さんは困ったように小さく息を吐いた。
「お仕事はそれほど忙しいというわけではないと私は思います。いろいろと面倒なことは既に片が付きましたし」
 真咲さんはそう言うと、私の後ろに積み上げられた本の山にちらりと視線をやった。
「姫様、あちらがもう終えた本ですか?」
 真咲さんの視線をたどって、私は後ろに並べなれた本を肩越しに振り返る。そして真咲さんに向き直ると頷きながら口を開いた。
「そうです。あっちがもう勉強し終わった方で、こっちがまだ勉強し終わってない方です」
 そう言いながら、私の横に置かれた一冊の本を手で真咲さんに示す。
 すると真咲さんはほっと息を吐いてから、穏やかな笑みを浮かべた。
「安心しました。その一冊だけなら今日中に覚えられますね。そうすれば、後は明日を待つばかりです」
「だから今日は闇音に会いたいと思って。お仕事がそんなに忙しくないなら、会えませんか?」
 安心した様子の真咲さんを見つめて、すかさず私がそう言うと、真咲さんは面食らったように目を見開いた。それから少し考えるように視線を空中へ漂わせると、私へ視線を戻した。
「私だけではそれは決められません。闇音様の確認を取らないと……」
 真咲さんは尻すぼまりにそう言うと、助けを求めるように自分の斜め前に座る聖黒さんを見つめた。
 今まで一言も発さなかった聖黒さんはその視線に気づいて、困ったように真咲さんに微笑むと、私へ視線を移動させて口を開く。
「美月様、真咲が困ってしまっていますよ」
 聖黒さんが口を開いたのに続いて、朱兎さんも眉尻を少し下げて苦笑いを浮かべながら口を開いた。
「闇音様もお仕事で部屋に籠っていらっしゃるなら、邪魔をなさらない方がよいかと思います」
 二人の意見を聞いて、蒼士さんへ視線を走らせる。すると蒼士さんも、聖黒さんと朱兎さんの意見に賛成だというように、私に諭すような視線を送った。
 それから私は困った様子の真咲さんに視線をやる。ここまであからさまに困られては、闇音の確認を取って欲しい、とは言えない。私はしぶしぶ頷くと、心の中で頬を膨らませた。
 私は闇音に会いたい。会って話がしたい。そして闇音を知りたい。闇音がそれを拒否すると分かっていても、彼を知りたかった。すべてが理解できるとは到底思っていないけれど、少しでも闇音を理解したいと思う気持ちは止められない。
 けれど闇音は私を避ける。私をただの繁栄をもたらすもの≠ニしてしか見ていない。それはここに来る前からはっきりと分かっていたことだったけれど、少し悲しかった。

 

 今日は真咲さんも仕事の手伝いはないらしい。先程のやり取りを何とか交わした真咲さんは、白亜さんの元へ行っている彰さんに代わって、芳香さんと一緒に本を読む私に付き添ってくれている。時々出す私の疑問に、二人は優しく答えてくれ、その甲斐あって無事に残りの一冊も頭に詰め込み終えることができた。
 ふうっと長い息を吐いて庭へ目をやると、既に日が傾きかけている。オレンジ色を(はら)んだ雲が浮かぶ空を見つめて、そっと閉じられた本に手を置いた。
「そう言えば、彰はまだ西家?」
 真咲さんが思い出したように口にした言葉は、ぼんやりとした私の頭に心地よく響く。その余韻を残しながら前を見つめると、芳香さんが真咲さんの方を向いて頷いているところだった。
「多分、夕食も頂いてくるんじゃない? いつも白亜さんのところに行くとなかなか帰ってこないもの」
 芳香さんの言葉に真咲さんも深く頷いた。すると少し物思わしげに朱兎さんが口を開く。
「それにしても彰って、本当に白亜のことが好きなんだね。いつも甲斐甲斐しくお見舞いに行ってるし」
 朱兎さんはそう言うと、切ないなあ、と小さく呟いた。
 それを聞いて、私は小さく首を傾げて朱兎さんを見つめる。するとそれに気づいた聖黒さんが寂しげな笑みを浮かべて私を見つめた。
「彰はずっと白亜のことが好きだったんですよ。ですがある日突然、白亜が今の状態になってしまい、何が原因かも分からず、彰はずっと一人で苦しんでいたようです」
 そう言うと聖黒さんは私から視線を外して、部屋から見える庭をぼんやりと見つめる。
「白亜は一向によくなる気配がありません。彰はそんな白亜にずっと付き添っているのです」
 ぼんやりと庭を見つめる聖黒さんの横顔を見ながら、私は思わず小さく息を吐いた。
 彰さんと白亜さんはお互いを想い合っているのに、すれ違ってしまっている。それは誰にも止められなくて、誰にも正せない道へと乗り上げてしまっている。それでも彰さんは諦めずに、輝石君と一緒に白亜さんと向き合っている――必ずよくなると信じて。
 そう思うと、心のどこかで希望のような淡い光が差し込んだ気がした。
「姫様。私たち、これからちょっと用事があるんです。少し野暮用で出ないと行けなくて」
 ぼんやりと畳に視線を落としていた私に、芳香さんが明るい声で話しかける。その声に、物思いにふけっていた私は反射的に体を硬くした後、すぐに息を長く吐いて小さく笑顔を浮かべた。
「そうなんですか? すみません。勉強に付き合ってもらって、引き止めてしまって」
 立ち上がる二人に向かって急いでそう言うと、二人は笑って首を振った。
「いいえ、こちらこそ申し訳ありません。何せこの屋敷は人手不足なものですから……」
 真咲さんが笑顔を苦笑に変えてそう言うと、芳香さんがその言葉を補うように続けて話す。
「この屋敷の使用人って極端に少ないんですよ。だから、私たちも雑用に追われてるんです。今日は食料の買い出しですよ」
 少々不満そうに芳香さんはそう言うと、少し唇を突き出してみせた。
 そんな芳香さんを見て蒼士さんは小さく笑い声を零すと、可笑しそうに笑いを堪えながら口を開いた。
「じゃあ俺たちも手伝おうか。その買い出し」
 蒼士さんがそう提案すると、聖黒さんも穏やかに頷いた。
「そうですね。私たちが黒月邸に入ったせいで食扶持(くいぶち)を増やしてしまいましたし。手伝いましょう」
 聖黒さんがそう言うのを聞くと、蒼士さんも真咲さんと芳香さんに頷いて見せる。それから蒼士さんは私の方を向いて言った。
「では、私たちは二人の買い出しに付き合ってきます」
 蒼士さんはそう言うと立ち上がって、真咲さんと芳香さんの後を歩き出す。それに続いて聖黒さんも私に笑顔を向けてから立ち上がった。
 それに慌てて私が声を掛けようと口を開くと、蒼士さんが不意にぴたりと立ち止まって、くるりと振り返った。
「美月様はこちらで朱兎と一緒にお待ちくださいね」
 私も一緒に行く、と言おうと口を開いた私は、蒼士さんの言葉を聞いて慌てて口を閉じた。
 先手を打たれてしまった。
 そう思いながら蒼士さんを見上げると、蒼士さんはそれを知ってか知らずかにっこりと微笑んで、聖黒さんと一緒に真咲さんと芳香さんの後を追って部屋を出た。その後ろ姿を少し恨めしく思いながら見つめた後、私と一緒に部屋に取り残された朱兎さんへ視線を移す。
 しばらくぼんやりと庭を見つめていた朱兎さんは、私の視線に気づいたのかこちらに顔を向けると、柔らかく微笑んだ。
「置いてけぼりですね」
 朱兎さんの言葉に私は苦笑いを浮かべると、そうですね、と小さく返す。
「それにしても、なんとか婚儀までにすべてを終えられてよかったですね。最初、あの本の山を見た時は、慣れないところにいる緊張で目が可笑しくなったのかと思いましたけど」
 朱兎さんは私の後ろに積まれている本の山を見つめながらそう言うと、ほっと息を吐く。その様子を見つめながら、今自分がいる場所を思い出して、私はもう一度苦笑を浮かべて口を開いた。
「なんとか本は読み終えましたけど、まだ黒月邸の間取りを全然覚えてないんですよね」
 私が困ったようにそう言うと、朱兎さんも同じように困った様子で眉尻を下げて小さく頷いた。
「それは僕もでしたよ。最初は到底覚えれそうになかったんですけど、意外とすっきりと部屋も配置されているので、そんなに覚えるのが苦ではなかったですよ」
「さすが、ですね。私もそういうこと言ってみたいです」
 朱兎さんの言葉に、私は心なしか落ち込んで項垂れながらそう言う。すると朱兎さんが慌てて、姫君、と私を呼んだ。
「姫君もすぐに覚えられますよ。僕たちもいますし――」
 朱兎さんはそう言いかけると、何かに気づいたように部屋口を振り返った。
 ずっと朱兎さんを見ていた私も、朱兎さんにつられるように部屋口へ視線を走らせる。するとそこには、黒月家の使用人と思われる人が気後れした様子でこちらを窺っていた。
「何か?」
 その人を直と見据えながら、朱兎さんが低い声で訊ねる。
 その人は朱兎さんの声に申し訳なさそうな表情を浮かべると、遠慮がちに口を開いた。
「こちらに真咲様がいらっしゃると伺ったのですが……」
「真咲なら買い出しに出掛けましたが。彼に何か急ぎの用事でも?」
「いいえ。あの、真咲様ではなく闇音様に……」
 その人は朱兎さんの問い掛けに慌てた様子で首を左右に振ると、手に持つ書簡を遠慮がちに示す。示された書簡を見つめて朱兎さんは片眉をぐいっと引き上げると、首を傾げた。
「闇音様に用事なら、わざわざ真咲を探す必要はないのでは?」
 朱兎さんの問いにその人は、どうしてこんなことになったのか、というような表情をありありと浮かべながら、はあ、と小さく言葉を吐き出した。
「ですが、闇音様への用は真咲様に頼むのが通例でして。それに私たち使用人は、闇音様のお部屋へは近付かないように、と言い付けられていますから……」
 その人はそう言い終えると今度は、どうしたものか、と思案顔に変わって廊下をちらりと振り返った。
 その様子を、頼りなさげだと思いながら見つめていたらしい朱兎さんが、小さく息を吐くのが横目に入る。それから朱兎さんは彼を見据えた後、指示を仰ぐように私をじっと見つめた。けれど、朱兎さんの視線が向けられる前に、既に私の口は開いていた。
「私が行きます」
 私はそわそわとした様子の使用人と、朱兎さんに向かって少し大きな声で告げる。
「私は闇音の部屋に近付くなとは言われてないですから。だから真咲さんの代わりに、私がそれを闇音まで届けます」
 立ち上がって彼に近付きながらそう言うと、彼はほっと小さく息を吐いて、笑顔を浮かべた。
「ありがとうございます。あなた様にこのようなことを頼むなど、面目もございません。ですが、どうかよろしくお願い致します」
「いいえ、困っている時はお互い様ですから」
 書簡をしっかりと受け取りながら私は笑ってそう言う。するとその人は小さく笑顔を浮かべてから、深々と一礼して廊下の奥へと消えて行った。
「じゃあ、行きましょうか」
 いつの間にか私の後ろに立っていた朱兎さんを振り返って、私は笑顔を浮かべる。
 朱兎さんは私の言葉に笑顔を浮かべて頷いて見せる。
「闇音様のお部屋は寝殿ですね。僕もまだ寝殿には大広間へしか足を運んだことがないんですけど、この屋敷で一番広い部屋ですからすぐに見つかるでしょう」
 朱兎さんはそう言うと、私を案内するように斜め一歩前へ出てゆっくりと歩き出した。

 

 

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