二十九

 

「お帰りなさいませ。美月様」
 自室に入った途端、朱兎さんがその言葉とともに出迎えてくれた。
 一体どこのお嬢様なのか、と自嘲気味に思ってしまったけれど、確かに今の私はその出迎えが相応しい立場なのかもしれない。それはあくまで立場だけで、私自身にその器があるかどうかは別の問題だけれど。
「白亜はどうでしたか? 元気そうでしたか?」
 蒼士さんが私を振り向いて訊ねる。私はそれに曖昧に微笑みながら、答えを探した。
 元気だったと言っていいのだろうか。
 白亜さんは、輝石君や彰さん、そして私のこともよく分かっていないようだったし、眠りに落ちる前には、私を闇音と間違えて話をしていた。さらに体調も思わしくないようだった。
「どうだろう……元気、ではないのかもしれないけど――」
 私はそこまで言ってから、聖黒さんを始めとする四神家の三人が一様に難しい顔をしていることに気づいた。
 私は三人の顔を順番に見つめてから、小さく首を傾げた。
「何かあったんですか?」
 疑問をそのまま口に出しながら、三人の傍まで寄って座る。私が蒼士さんへ視線をやると、蒼士さんは困ったように朱兎さんへ目を向けた。
 私は不自然な三人の様子を訝しく思いながら、歩き疲れた足を投げ出して溜め息を零す。
 今、私の頭の中は、帰り道に彰さんが言ったあの一言で埋め尽くされているといっても過言ではなかった。
 彰さんのあの言葉の意味は、一体何なのだろう? 彰さんは何を考えてああ言ったのだろう?
 その理由がまったく掴めなくて、私は頭を捻る。
 あのあと、いくら訊ねても彰さんは何も答えてはくれなかった。
 どうして私が闇音を好きになってはいけないのだろう? どうして彼を愛してはいけないのだろう?
 仮にも闇音と私は夫婦だ。闇音が私を好きになることは、天地がひっくりかえってもないだろうけれど、お互いを思い合える関係になれれば、それに越したことはないと私は思う。そしてそれは、闇音の臣下三大である彰さんならば、その立場上、私以上にそれを望んでいてもおかしくない人なのだ。
 その彼が、闇音を愛するなと言う。苦しそうな悲しそうな、見ている私の方が心が痛む瞳で。
 芳香さんが闇音に不満を抱いているのは知っている。それは周知の事実だ。
 けれど彰さんは今まで常に中立の立場を取ってきた人だ。その人が考えていることとは、一体何なのだろう――?
「美月様」
 じっと一点を見つめて考え込んでいた私は、突然掛けられた声に驚いて、弾かれたように顔を上げた。目に入ったのは、唇を真一文字に結んだ聖黒さんだった。
「北家から戻って参りました」
 聖黒さんは言いにくそうに一言呟くと、目を伏せた。
「北家は大丈夫だったんですか? 何か問題でも起きたんですか?」
 聖黒さんは北家から書簡で呼び出しを受けていたのだった。至急戻ってくるように、という言葉だけがつづられた書簡に、聖黒さんが北家へ帰っていたことを思い出して、私は言った。
 西家訪問と彰さんの言葉ですっかり失念していた私は、しっかりしなければ、と思いながら聖黒さんを見つめた。
 聖黒さんは、視線を四方に忙しなく走らせてから、眉間に皺を刻んだ。
 そのらしくない行動に私は少し胸騒ぎを覚えて、居住まいを正すと太股の上で両手をぎゅっと握り合わせた。
「何か、よくないことですか?」
 私の口から零れ出た弱々しい声に、聖黒さんはやっと私に視線を合わせた。けれど、目が合った次の瞬間には聖黒さんは両手を突いていた。
「申し訳ございません。小梅が――妹が申し訳ないことをいたしました」
 聖黒さんは体をわななかせて、床につきそうなほど頭を下げた。
「あなたがなぜ闇音様をお選びになったのか、正直申し上げて分かりませんでした。あなたは泉水様をお選びになるだろうと、四神家一同、そう考えていたのです。ですが……今日、やっと分かりました」
 聖黒さんは、漆黒の髪を床に投げ出したまま続ける。
「泉水様が北家にいらっしゃいました。小梅を妻に望む、と告げられて――あなたは妹のために泉水様をお選びにならなかったのですね。妹のせいで、あの子のせいでご自分のお気持ちを捨てられたのですね」
 初めて動揺した様子の聖黒さんを見て、私は戸惑いを隠せなかった。聖黒さんの声が震えていて、本当に辛そうに言葉を紡いでいるのを見ると、胸が締め付けられる。
「それは、違います」
 まだ低く頭を下げたままの聖黒さんに向かって、私ははっきりと言い切った。
 聖黒さんは少しだけ潤んだ瞳で私の顔を見上げると、そのままじっと私の言葉を待つように微動だにしない。私はそれを見て、言葉を選びながら慎重に口を開いた。
「小梅さんのせいとか、誰かのせいとかじゃないんです。私は、私のために闇音を選んだんです」
「ですが、あなたは泉水様を……」
 私の言葉を否定するように、聖黒さんがゆっくりと首を振る。私は握り合わせた手に視線を落とした。
「泉水さんを好きでした。でも、小梅さんと泉水さんがお互いを深く想い遣ってると知って、敵わないって思ったんです。私がいなくなれば、二人は幸せになれるって」
「ですが――」
「闇音にはとても申し訳ないことをしてると思います。闇音はお互いの利害関係が一致しただけだって言ったけれど、私はやっぱり闇音に申し訳なく思ってます。でも、闇音に悪いことをしてでも、私は泉水さんと小梅さんに幸せになってもらいたかったんです」
 私は湧きあがる罪悪感と引き裂かれそうな胸の痛みを覚えながら、目を閉じた。
 私は泉水さんと小梅さんに幸せになってもらうために、消えたのだ。そのために闇音を選んだのだ。
 そう思った途端に、頭の中で一本の線が繋がったのを感じる。
 私が闇音を気に掛ける理由は、闇音の過去だけが原因ではない。彼が抱える闇を和らげたいという願いだけでもない。
 きっと、私が常に闇音に対して抱いているこの罪悪感も理由の一つなのだろう、と。
 我ながら、嫌な人間だ。こうして闇音を気に掛けることで、私は自分の罪悪感を少しでも減らそうとしているのだろうか――最低だ。
「私は二人に幸せになってもらうために、闇音を選んだの」
 私はその言葉を改めて口に出すと、思わず顔を覆った。
 闇音が私を望む理由はただ一つ、繁栄のため。そして私が闇音を望んだ理由は、泉水さんと小梅さんの幸せのため。
 何一つ、お互いを思い合っていない私たちが、口先でどれだけ相手を気にしていると言っても、それが相手に届かないのは当たり前だ。それがいつか変わる日が――相手に伝わる日が、くるのだろうか。
「あなたにそう仰っていただいても……北家としては、二人の結婚を許すことは出来ません」
「どうして?」
 聖黒さんの言葉に私は顔を上げる。目に入ったのは、苦しそうに歪む聖黒さんの顔だった。
「泉水様はあなたの――美月様の婚約者となるはずだった方です。美月様が闇音様をお選びになったのは、妹のことがあったからに他なりません。そんな妹を北家の当主、玄武としては許してはおけません」
 きつい口調で言い切る聖黒さんに、嫌な予感を覚えて私は目を見開いた。
「小梅さんをどうするつもりなの……?」
 聖黒さんは真っ直ぐ私を見つめ返すと、言った。
「勘当切ります」
 聖黒さんが抑揚のない声で言った途端、部屋に静かな動揺が広がった。
 蒼士さんも朱兎さんも目を見張って、けれど無言のまま聖黒さんを見つめていた。
「どうして、そんなことするの? ただ人を好きになって、その人と結婚したいって言っただけじゃない」
 つっかえながら私が小さな声で言うと、聖黒さんは悲しげな視線を床に落とした。
「美月様はお分かりではないのです――」
「なら、分かるように説明して」
 聖黒さんの言葉を遮って私が言うと、蒼士さんが驚いたように私を見つめたのが横目に入った。けれど、それに気を留める余裕がない私は、きつい瞳を聖黒さんに定めたまま、さらに言葉を継ぐ。
「私、泉水さんと小梅さんに言ったの。『幸せになって』って言ったのよ。二人は私がそう言っても、首を縦には振らなかった。特に小梅さんは、私にそう言われて苦しそうだった。でも、その二人がやっと決心したのに、どうして分かろうとしないの?」
「分かりたいです、よ……。私が妹を嫌っているとでもお思いですか?」
 聖黒さんは唇を戦慄(わなな)かせながら、眉根を寄せる。それは、潤んだ瞳から涙が零れないようにするためのようだった。
「妹ですよ。小梅は私の可愛い妹です。ですが、物事はそう簡単には運ばないのです。それはこの三ヶ月、天界で過ごされたあなたにもお分かりでしょう? 輝石のことも、そして泉水様と小梅のことにしても、どれ一つとっても彼らの望むようにはなっていないでしょう」
 聖黒さんはそう言うと、額に手を当てて俯いた。聖黒さんの隣で、蒼士さんと朱兎さんが同じように唇を噛み締めていた。
「私が小梅を勘当せずとも、両親があの子を勘当するでしょう。どうあっても、避けられない道です」
「泉水さんの家は? 泉水さんを勘当するの?」
「それは分かりませんが――おそらく、白月家も結婚を許しはしないでしょう」
「どうして? 四神家は貴族みたいなものなんでしょう。なら、白月家と結婚しても地位から考えれば申し分ないんじゃないの?」
「……確かに、四神家は天界では上位の家で、普通ならば白月家の跡取りと婚姻を結んでも申し分ない家です。ですが、二人のことは許さないでしょう」
 どうして? という疑問が口をついて出る前に、私にはその理由がはっきりと分かった。聖黒さんの表情を見ていれば、それは簡単明瞭なことだった。
 その理由はきっと私≠セ。
 泉水さんと小梅さんが結婚する。それは、斎野宮の第一子である私がいたのに、二人が斎野宮をないがしろにしたと解釈されかねないのだろう。
 だから、白月家も北家も二人を許せないのだ。私がいるせいで――。
 私は呆然と思いながら、込み上げてくる涙を堪えることも忘れていた。

 

 

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