三十

 

 夕食を取る気力は、今の私にはなかった。
 泉水さんとの結婚をやめれば、小梅さんは勘当切りされずに済むという。聖黒さんは「誰からも祝福されない結婚なんて当人同士をも不幸にするだけだ」と淡々と目を伏せて言っていた。
 でも本当にそうなのだろうか? 誰からも祝福されなくても、お互いがお互いを想っていれば幸せになれるんじゃないの? そんな考えは甘いの?
 私は、そろそろやってくるだろう闇音を待ち構えて、そんなことばかり考えていた。
 私のせいで、北家と白月家が壊れかけている。聖黒さんが小梅さんを思う気持ちが、痛いほど私の胸を刺し貫く。これで罪悪感を覚えない方が無理というものだった。
 冷たい布団の上、それに負けないほど体温を失った手を握り締めて、じっと闇音を待つ。
 この事態を収拾するために、とにかく動かなければならない。私が招いた結果なのだ。私以外の誰にもできないことだ。
 そのためには、闇音の許可がいる。
「酷い顔だな……いつものことだが」
 俯いた視界の端に、闇音の足が見えた。弾かれたように顔を上げて目に映ったのは、いつもどおりの無表情で無感動な闇音の顔だった。
「闇音。お願いがあるの」
 私は闇音に向かって、逸る気持ちと震える声を抑えながら言った。
 闇音は柳眉を寄せると、私の様子を怪しむように腰を下ろした。
「一日でいいの。里帰りさせて欲しい。それから、白月家と北家に行かせて」
 私が言うと、闇音はあからさまに眉を吊り上げて、値踏みするように私を見つめた。
「お願い」
 闇音を真っ直ぐ見つめる瞳と言葉に、渾身の思いを込める。
 けれどそれは届かなかったのか、闇音は私から視線を逸らせて嘆息した。
「理由を言え。斎野宮と白月、北家に行かなければならない理由は何だ」
 闇音の低い声を聞いた瞬間、この人は何もかも、すべて知った上で言っているのだと知れた。
 すべてを知った上で、闇音は私に言わせたいのだ。私の口から二人のことを、北家と白月家の今の現状を。
 そんな闇音があまりにもひどい仕打ちをしているように思えて、けれどすぐに、それは私の自分勝手な考えなのだと思う。私だって十分、闇音に対してひどい仕打ちをしているのだから。
「泉水さんと小梅さんが結婚したいって言ってるの。でもそれを両家は許さない。その原因は私よ。だから、私が何とかしたいの」
「なぜお前が何とかする必要がある? 泉水と小梅のことなら、お前にも俺にもまったく関係がないことだ。お前が首を突っ込むことではない」
「こうなったのは私のせいだからよ」
 感情が欠落したような声で言葉を紡ぐ闇音に、私はまた心が痛むのを感じながら言った。
 色々な感情が心の中に広がって、どうにかなってしまいそうだった。
「私、二人に言ったの。幸せになってって。私が消えることで、二人は幸せになれるって思ってた……でも違った」
 私はぼんやりと闇音の瞳を見つめながら、言葉を継ぐ。
 そんな私を、闇音は冷たい瞳で見つめていた。
「私が天界に帰ってきたせいで二人は苦しんで、そして今また、私のせいで二人は苦しんでる。だから――」
「仮に、お前が斎野宮や白月、北家に行ったところで、何が変わるというんだ? どうせお前が行っても何も変わらない。お前が何を言っても『そうは言っても許せない』と言われて終わりだ」
 闇音は私の言葉を遮って言うと、あぐらをかいた膝の上に肘を乗せて頬杖をつく。
「お前が行っても何も変わらない」
 闇音はそう言うと、どこか甘さのある顔で小首を傾げた。
「残念だったな。お前は泉水と小梅のために俺と結婚したのに――それが叶わなくて」
 闇音は口元に小さな笑みを湛えると、立ち上がる。私は闇音の一言に生気を奪われたように、呆然と前を見つめていることしかできなかった。
 闇音はこうなることを知っていたの? その上で私が闇音を選ぶのを黙って見ていたの?
 でもそれを責めることが、私にできるの……?
「言ったはずだ。俺は繁栄のためにお前が欲しかった。他のことは俺にとってはどうでもいいこと――」
 闇音はそこで突然言葉を切ると、私の前に屈み込んだ。目の前に闇音の顔が見えるけれど、その顔が妙にぼやけて見える。まるで視界が曇ったみたいに。
 ぼんやりとした視界の中で、闇音が目を見開いているのが辛うじて分かる。そのときになって初めて、私は自分の目から涙が零れていることに気がついた。
「ごめん。泣くつもりはなかったんだけど……」
 私は慌てて涙を拭うと、真っ直ぐ闇音を見つめた。
「お願い。私は自分ができる精一杯のことをしたい。迷惑はかけないって誓う。だから、一日でいいの。自由に動かせて」
 少しでも身を乗り出せば闇音の顔とぶつかりそうな距離の中で、私は彼の瞳を見つめる。闇音と出会ってからきっと初めてだろう、その距離にもまったく臆することはなかった。
 多分それは、闇音の無表情な瞳の中に、一筋の光が見えたからだと思う。
 闇音は躊躇いがちに手を上げて私の頬に触れようする。けれど決して私に触れることはなく、そのまま闇音は手を下ろした。
 それから闇音は顔を背けると、長く息を吐き出した。
「俺を責めないのか」
 まるで息と一緒に吐き出されたかのような言葉は、とても小さかったけれど私にまで届く。
 私は再度、溢れてきた涙を拭う。
「どうして私が闇音を責められるの? 私たち、利害関係が一致しただけでしょ? 闇音は繁栄のため、私は泉水さんと小梅さんの幸せのため――ただそれだけのことなんでしょ?」
 立葵の前で闇音が言った言葉を、今度は私が繰り返す。けれど私は最後に一言、付け加えた。
「でも私は、もうそれだけにはしない。これからはちゃんと、闇音が嫌がっても闇音を見るよ」
 闇音は私へ顔を向けると、暗い色の瞳を大きく見開いてじっと私を見つめる。それから暫くして、闇音はそっと目を伏せた。
「それも泉水が結婚するからか? 迷惑な話だ」
 言葉はとても冷たくて、思わずぞっとするほどだった。けれど闇音の顔を見ると、そのすべてのパーツが悲しみに満ちているように見えた。まるで、自分に対して――そして私に対して、哀憐を垂れているように。
 闇音はそれから暫しの間、黙り込んだまま、部屋から微かに見える月を見上げていた。
 私もそれ以上何を言えばいいのか分からなくて、自然と口をつぐんでいると、唐突に沈黙を破る一声が闇音から上がった。
「一週間後だ」
 え? と呟いて闇音を見ると、闇音は静かに私を見ていた。
「一週間後、斎野宮へ行く。そのときにお前も来ればいい。その後は白月でも北家でも好きなところへ行って、お前はお前の用事を済ませろ」
「闇音も斎野宮へ一緒に行ってくれるの?」
「勘違いするな。俺は俺の用事を済ませるだけだ――俺はそれとは別に、斎野宮の当主夫妻に確かめたいことがある」
 そう言った闇音は、沈着冷静な瞳をしていた。

 

 

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