二十八

 

 あの後すぐに白亜さんは疲れたのか、張り詰めていた糸が切れたように眠り込んでしまった。その時刻も夕暮れだったので、彰さんと私は輝石君に暇を告げて、黒月邸へ戻ることにした。
 夕陽の淡いオレンジが世界を照らす中、彰さんと私は無言だった。
 彰さんは、何かを言おうと私を見下ろしては何度か口を開いたけれど、結局、彼の口から言葉が出てくることはなかった。
 多分、彰さんは彰さんなりに、白亜さんの言葉に驚いたのだと思う。
 白亜さんが眠ったあと、彰さんは彼女の寝顔を穏やかな目で見つめながら、ぽつりと零した。「闇音様は一体どんな幼少期をお過ごしになっていたのでしょうか」と。
 彰さんが闇音と面識を持ったのは、三大に選ばれる少し前だったそうだ。ちょうど、大勢の三大候補者たちと精錬に励んでいた頃だったらしい。今から四年前のことだそうだ。
 それからの闇音しか知らない彰さんは、泉水さんや聖黒さんから何度も「闇音は優しい子だ」と聞かされても、まったく信じられなかったらしい。けれど、白亜さんの口から聞いた言葉は、彰さんの今までの考えをがらりと変えさせるには十分だったようだ。
 私の方も、実のところ困惑している。
 今まで何度となく「闇音は心根が優しい」と色んな人から聞かされてきた。
 確かにそうなのだろうと思ってはいた。そうでなければ、皆が皆、口を揃えてそんなことを言うはずもないからだ。単純な理由ではあるけれど、それは確かなことに違いない。
 闇音は優しい。
 そう言われ続けて、私自身もそうだろうと思い続けていた。けれどやはり、実感はまったくと言っていいほど湧かなかった。
 闇音が私に見せる側面は、常に冷たく、そして無関心な様子だったからだ。最近は少しだけ違う側面も見えてきたけれど、やはり私に対する基本的な態度は変わらない。だから、彼がどんな風に優しい子だったのか、まったく想像がつかなかった。
 けれど今日、白亜さんの口から闇音の話を聞いて、それも龍雲さんが生きていた頃の闇音の姿を垣間見ることができて、私は少なからずショックだった。
 龍雲さんが生きていた頃の闇音は、きっと今よりは幸せだっただろうと思っていた。
 真咲さんから、闇音が龍雲さんを慕っていたことは聞いていたし、龍雲さんを亡くしてから彼の性格が変わっていったことも知っていた。だから、闇音は龍雲さんといつも一緒にいて、可愛がってもらっていたのだろうと勝手に考えていた。
 でも、どうやら私の推測は違っていたらしい。
 闇音は龍雲さんにも満足に会えずにいたのだ。
 龍雲さんは闇音のよさを知ってくれていたようだけれど、ではお義父さんやお義母さんは知っていたのだろうか?
 白亜さんが言っていた「他の方々」というのは、彼らのことを指すのではないだろうか?
 そうなのだとしたら、闇音は幼い頃から実の両親に疎まれていたというのだろうか。そして、たった一人で別棟に閉じ込められていたというのだろうか――。
「実を言うと、私は今、少し混乱しています」
 唐突に彰さんが言った。
 私は隣を歩く彰さんを見上げて、小さく首を傾げた。
「闇音様のことです。白亜が言ったことを信じられなくて……」
 消え入るような声で呟く彰さんの横顔は、とても辛そうで、そしてなぜだか憤りも感じられた。
「……怒ってるんですか?」
 私が思わず訊ねると、彰さんは、はっとした様子で微苦笑を浮かべた。
「いえ――そういうわけでは。闇音様がお優しいという話は幾度となく耳にしましたが、今までは到底信じられずにいたのです」
 彰さんはどこか苦しそうにそう言うと、視線を落とした。
「美月様はどう思われていますか? 闇音様のことを。お慕いしていますか? それともお嫌いでしょうか」
 彰さんの真正面からの言葉に、私は思わず言葉に詰まって、進めていた足を止めてしまった。
 彰さんはそのまま数歩歩いて、それから私が立ち止まったことに気づいたらしい。私の斜め前で歩を止めると、くるりと振り返った。
 質問をしたのは彰さんなのに、おそらく私よりも困惑した顔を浮かべている彰さんへ、夕陽が降り注いでいた。
「いきなりどうしたんですか?」
 彰さんへの答えが見つからない私は、彼から目を外して言った。自分の背中から注がれる黄昏の光を感じて、私の心は妙にふわふわと浮いている。
 私は闇音のことをどう思っているのだろう?
 今まで、そんなにちゃんと考えたことなんてなかった。闇音を好きじゃないと、ずっと自分では思ってきていた。
 でも本当にそうなの? 私は闇音を好きじゃないの? 好きじゃない人のことを、こんなにも考えたりするものだろうか?
 分からなかった。自分の気持ちなのに、何一つ分からない。
 そもそも、好きとは何なのだろう。
 好きにも色々な種類がある。友達の好き=A家族の好き=A兄妹の好き=\―そして恋人の好き=B
 泉水さんを想うとき、私の胸は切なく痛む。張り裂けそうで、それでいて甘い痛みが、心を包み込む。泉水さんと一緒にいるとき、胸が高鳴るのを感じて苦しくなる。
 そんな痛みを、私は闇音と一緒にいるときに感じたことはない。彼と一緒にいるときに感じるのは、いつも悲しい痛みだ。
 それは彼の冷たい鋭利な言葉に対する悲しみだったり、彼が時折垣間見せる寂しさに対する悲しみだったり、色々な種類の悲しみ≠セ。だけどその中で一貫するのは、恋愛の悲しみではないことだ。
「闇音様が今までどんな思いを抱いてきたのか――それは私には分かりません。きっと理解することも出来ないでしょう。けれど誰かが、闇音様を救って差し上げなければいけないのかもしれませんね」
 彰さんは顔を逸らして、再び視線を落とす。その瞳は、いつもの彰さんの柔らかい光とはまったく違っていて、私は瞬間自分の足が無意識のうちに退いたのを頭の隅で感じた。
 彰さんの瞳は、今まで見たこともないほど暗く冷たく、絶望に捕らえられた者の光を宿していた。それはまるで、闇音が両親や自分について話すときと同じようだった。
 けれど一つ違ったのは、彰さんの視線には闇音以上に酷薄な鋭さが光ってみえたことだ。
「彰さん……?」
 私の口から零れた声は、風に溶け込んでいった。
「彰さん、闇音のこと嫌いなんですか? 好きにはなれませんか?」
 目を伏せる彰さんをとてつもなく遠く感じながら、私は声を絞り出して訊ねる。
「闇音はきっと、優しい人です。今はそれがなかなか見えないけど、でも根底が優しい人なら、元の性格は変わったりしないはずです」
「それは分かりますよ。闇音様はお優しいのでしょう。白亜がああ言ったのですから、きっとそうなのでしょう。ですが私は、そう簡単に心を変えることは出来ません」
 私の眼に映る彰さんは、いつも優しくて穏やかで、闇音のことを公平に見てくれている人だった。けれどそれは表面上のことで、本当は闇音を忌んでいたのだろうか? でも本当に嫌っていたなら、こんな風に苦しそうに闇音の話をするだろうか――?
「好きにならないでください」
 彰さんの名を呼ぼうと開かれた私の口から、その言葉が発せられる前に、彰さんの張り詰めた声が私の耳に届く。その言葉の意味が一瞬分からなくて、私は馬鹿みたいに彰さんを見つめ返していた。
「闇音様のことを好きになってはいけません――彼を愛さないでください、美月様」
 私は多分、闇音をとても気にかけている。それは、闇音の過去を知りたいとか、そういう次元の話ではないと思う。私が闇音に抱く気持ちは、彼が抱える闇を少しでも和らげたいという願いだ。
 闇音の話や、彼の過去を覗くたびに、その切ない思いに胸が引き裂かれそうになる。それを考えると願わずにはいられなくなる。
 闇音に今よりも少しだけでもいい、楽になってもらいたいと。この気持ちはどこかで好き≠ニいう気持ちに繋がっているのかもしれないと、漠然と私は思う。
 けれど目の前で私に「闇音を好きになるな、愛すな」と言う彰さんは、私以上に闇音を思っているようにさえ見える。その矛盾に、私の頭は混乱した。
「……どうして? 私、闇音が好きだよ。それは愛とかじゃないと思うけど、闇音を心配するこの気持ちは好き≠チていうことだと思うの。それにさっき彰さんも言ってたじゃない。誰かが闇音を救ってあげなきゃって――なのにどうして、そんな悲しそうな目で、そんなこと言うの? 彰さんだって闇音のこと思ってるでしょう?」
 たどたどしく言葉を紡ぐ私を、彰さんは目を細めて見つめてから、やがて口を開いた。
「――ええ、思っています。おそらく、ここに息衝(いきづ)く誰よりも」

 

 

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