二十五

 

「姉ちゃん、起きてるかな?」
 西家の屋敷の門をくぐるなり、近くにいた女中さんを捕まえて輝石君が訊ねる。声を掛けられた女中さんは一瞬驚いた表情を見せたけれど、すぐに微笑んで頷いた。
「御気分もよろしいようで、庭に出ておいでです」
 女中さんの言葉に安堵したのか、ほっとしたような笑顔で返した輝石君は、彰さんと私を引っ張るようにして歩き出した。
「庭に出てるなんてほんとに気分がいいんだなー。最近、ちょっと体調よくなかったんです」
 輝石君は弾む声でそう言うと、彰さんと私を満面の笑みで振り返る。
 彰さんはそんな輝石君の笑顔が伝染したかのように、優しく口元を綻ばせた。
「よかった」
 彰さんはたった一言そう呟いて、晴れ渡る空を見上げた。もうすぐ梅雨入りの天界で、貴重な快晴の空だった。

 

 輝石君に案内されて着いた庭は、前に訪ねたときと変わらず鹿威しの音が規則的に鳴り響いていた。まるで心の安定を保つためのように、数秒置きに庭園に響き渡るその音は、自然と気持ちを落ち着けてくれるように感じられる。
 輝石君は苔むした岩の前に佇んでいる小柄な人影を見つけると、嬉しそうに一目散に駆けて行った。
「姉ちゃん!」
 輝石君はそう呼び掛けながら走り寄る。
 私は輝石君の弾む背中と、岩に視線を落としている白亜さんを交互に見つめてから、輝石君の後について彼女の元へと歩き出した。
 彰さんは腕に抱えている大きな荷物を、近くにある石の上に丁寧に置くと、白亜さんの隣に立って彼女と同じように視線を岩へと落とした。
 私が輝石君の隣にまでやってくると、輝石君は私に頷いてみせてから、白亜さんへ柔らかい笑顔を送った。
「姉ちゃん。姫さまと彰が来てくれたよ。覚えてるだろ? 美月さまだよ」
 輝石君は私を白亜さんの前に押し出しながら、ぼんやりと岩を見つめている彼女に声を掛ける。
 すると白亜さんは、ふわふわと定まらない視線を私へ送って柔らかく微笑んだ。その笑みだけでは、彼女が私を覚えているのかの判断はつかない。
「あら、雲だわ」
 白亜さんはすぐに私から視線を外して、頭上に広がる空を見上げると呟く。白亜さんの言葉にすかさず反応したのは彰さんだった。
「ああ、雲だ」
 彰さんは、まるで天使のように清らかな微笑みを湛えて白亜さんを見つめる。けれどその瞳は清純な表情とは打って変わって、悲嘆の色に暮れていた。
 そのあまりの色の違いに、私は瞬間胸が詰まってしまった。
「白亜? 今日は気分がいいみたいで安心したよ。最近はなかなか来れなくてごめん」
 今度はじっと空を見上げて、ゆっくりと移動している雲から目を離さない白亜さんに、彰さんは彼女の背中にそっと手を添えて語りかける。
 けれど白亜さんにはその声が聞こえていないのか、それとも隣に彰さんがいることにも気づけていないのか、まったく反応がない。それでも彰さんは辛抱強く優しい声で話し続けた。
「私は最近、仕事尽くしだよ。朝から夜までずっと書類を整理したり、闇音様の雑用をしたり、買い出しに行ったり。でも仕事をしてると気持ちが落ち着く。……何も考えられずにいられるからだろうか」
 彰さんは風で乱れた白亜さんの髪をそっと撫でて整える。髪に触れるだけなのに、彰さんの細い指が少しだけ震えているのが、私が立っている場所からでも分かった。
「白亜……」
 彰さんの方を見ることもしない白亜さんに向けて、一心に視線を注ぐ彰さんの姿は悲しげで、そしてこの上なく美しく見えた。
 髪を撫でるだけでも、その視線だけでも、彼がどれほど白亜さんを想っているのかが痛いほど伝わってくる。彼らが辿る道の先が、たとえ暗闇だろうと混沌だろうと、二人の行く末が幸せであるようにと願わずにはいられなかった。
 輝石君は立ち尽くす私の腕を取ると、二人の傍から私を連れて離れていく。
 その手が着物を通してでも熱が伝わるほどに熱いことに気がついて、私はまた胸が締め付けられた。
 彰さんだけではない。輝石君もそうなのだ。
 白亜さんを想ってやり切れない気持ちを抱いて、彰さんの行き場のない想いを汲んで苦しんでいる。
 私は分かっていたはずのことを、今この場で再び痛感した。

 

「お菓子食べますか? たい焼きは姉ちゃんの好物で一杯作るんですけど、作りすぎちゃって食べきれないんです。これ食べるの、姉ちゃんと雪留と女中さんぐらいだし」
 輝石君は今朝作ったという白餡のたい焼きが乗った皿を差し出してくれた。
 雪留君とは今でもやっぱり仲良しなのね、と思うと自然と笑みが零れる。いけない、急ににやけては不審者だ、と思って私は軽く頬を叩いて表情を引き締める。輝石君は、私の挙動不審なその様子を不思議そうに見つめながらも、微笑んでくれていた。
 私は小さく咳払いをすると丁寧にお礼を言って、たい焼きを皿から取って一口頬張る。途端に口の中に餡の甘い香りが広がって、すぐに舌の上で溶けていった。
 優しい味にほっと一息ついていると、輝石君が珍しく険しい表情を浮かべているのが目に入って、私はたい焼きを皿の上に置いて居住まいを正した。
「あの、一つ訊いてもいい? ――っていっても、言いたくないことなら答えなくてもいいんだけどね」
 私が声を掛けると、輝石君は鋭い視線を緩めて笑顔を作ってくれた。そして、あまりに真摯に輝石君が私を見つめるので、急に申し訳なくなった私は、慌てて最後の一文を付け足した。
「どうぞ。何でも訊きたいことを言ってください。美月さまのためなら答えますよ」
 さらりとそう答えてくれた輝石君にお礼を言ってから、けれどしばらく口にするのを躊躇って、自分の中で葛藤した挙句に、私はやっと言葉にした。
「さっき屋敷で輝石君が言ってたことなんだけどね。あれって、どういう意味なんだろうって思って……」
 言い出したはいいけれど、どんどん尻すぼみしていった私の声は、最後は蚊のなく声と言ってもいいほどだった。輝石君は少し顔を前に突き出して、聞き取りにくくなっていく私の声を懸命に聞き届けてくれたようで、私の声が消えていく頃には悲哀に満ちた表情を浮かべていた。
「あの……ごめんなさい。悪い意味とかで聞いたわけじゃないの。でも失礼だった。ごめんなさい」
 輝石君の顔を見た私は、途端に無遠慮な質問をした自分が恥ずかしくなって俯いた。
「どうして美月さまが謝るんですか? 美月さまが他意なく訊いたことは分かってますよ、俺にも」
 輝石君はまるで私を慰めるように優しい声でそう言ってくれる。それを俯きながら聞いた私は、さらに申し訳ない気持ちになってしまった。
 私はいつもこうだ。誰かにこうして気を遣わせてばかり――変わらなくちゃいけない。もっとしっかりしなくてはいけない。
 そう思って私は顔を上げて輝石君の瞳を見つめた。
「本当に言いたくなければ言わなくていいの。ただ好奇心だけで訊ねたわけじゃないの」
「分かってます」
 輝石君は間髪を入れずに答えると、私の目を見つめ返しながらゆっくりと頷いた。
「彰さんは白亜さんの今の状態も受け入れてる。傍から見てるにすぎない私にもそれがすごく伝わってくるの。なのに輝石君は、白亜さんと彰さんは結婚できないって言ってたから……。確かに結婚するとなると大変だろうけど、彰さんなら、そんなこと苦にもならないって思うような気がして」
 言葉を選びながら私がそう言う間、輝石君は少しだけ眉間に皺を刻んで外を見やっていた。
「当人同士が結婚したいと思っていれば、結婚すればいいって俺は思ってます。でも物事はそう簡単じゃないんです」
 輝石君の瞳は、まるで悲嘆を映しているかのように暗く鈍い輝きを放つ。輝石君のいつもは元気な横顔が、今はとても静かでいつもより大人びて見えた。
「まず姉ちゃんの気持ちも分からないし……いや、姉ちゃんは彰を好きだったけど、今の気持ちが分からないから。多分、今でも好きな気持ちに変わりはないと思うけど……」
 輝石君は、そっと口元を緩めて悲しい笑みをその横顔に湛えた。
「彰がすごく姉ちゃんを想ってくれてるの、俺も分かります。これは誰にも内緒だったんですけどね――前に一度、彰が姉ちゃんと結婚したいって申し出てくれたことがあったんです。姉ちゃんが今の状態になって、すぐぐらいに」
 輝石君は静かな落ち着いた声で語る。その内容に私は驚いて、少し目を見開いて輝石君を見つめた。
「でも断りました。あの頃の俺には、彰の申し出がただの自己犠牲に思えたんです。姉ちゃんを哀れに思ってそう言ってくれたんだって。あのときの俺は自分のことだけで一杯一杯で、正直姉ちゃんのことも彰のことも考えてる余裕がなかった。だから彰の本心が見えなくて……。今ではそうじゃないって分かるけど、でもやっぱり、あのとき断ったことは正解だったって思ってます」
「それはどうして?」
 思わず私が訊ねると、輝石君は私へ顔を向けて答えた。
「彰の家は、結構古くから栄えてる家なんです。もちろん白月や黒月や斎野宮とは格が違うし、四神家よりもずっと下です。けど、財があるし、この都でもそれ相応の権力をずっと維持してきた家柄です。その家の跡取り息子が、いくら四神家の姫といえども、精神を病んでいる娘と結婚するわけにはいかないんです」
「――白亜さんとの結婚を彰さんが望んでも?」
「彰が望んでも、彰の両親が許さないと思います。それに――それに、これが彰のためなんです。この先どうなるか分からない姉ちゃんの傍にずっといることが、彰の今後のためにはならないから」
「でもそれは、彰さんが決めることなんじゃないの?」
 思わず呟いた私の声は、引き取り手のないまま消えていった。
 輝石君はただ、悲しそうに微笑むだけだった。

 

 

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