二十

 

 俯きながら歩いていると、後ろからそっと肩に手を乗せられたのを感じた。その微かな重みを感じて手を伝ってその主を辿ると、蒼士さんが私の肩に手を置いて振り返った私に前方を見るように、と促しているところだった。それに素直に従って前を向くと、闇音がこちらに向かって歩いてきているのが目に飛び込んできて、私はそれを驚きに満ちながら見つめていた。
 まさかこんなに簡単に闇音に会えるとは思ってもおらず、けれどやはり闇音と私の立場を考えればこうなって然るべきだったのだとも思えた。心の中にもやもやとした捉えどころのない感情が広がって行くのを感じて私は小さく首を捻った。私自身は一体、闇音をどういう人間だと思っていて、彼に何を望んでいたのかよく分からなかった。
 闇音は私の目の前までやってくると立ち止まった。
「それで? 何の用だ」
 闇音は真っ直ぐ私を見つめて、冷淡な表情を浮かべている。いつもどおりの闇音に、私は胸を撫で下ろす。どうやら突然の訪問を嫌がっているという様子ではないようだった。――つまり、いつもどおりということだ。
「あの、街へ行きたくて」
「街?」
 闇音を見上げて私が言うと、彼はあからさまに眉を寄せてまるで不審なものでも見るかのように冷やかな視線を私へ落とす。
「そう、街に行きたくて。それで闇音に出掛ける許可を貰いに来たの」
 いつものことだ、と自分に言い聞かせながら闇音の視線を受け止める。闇音の視線が落ちた場所が、まるで鋭い氷の刃先が突き刺さったかのように痛む。けれどこれにも慣れなくてはいけないのだ、と私は急速に冷えていく心の中で思った。
「街に用事があるのか? それなら使用人に頼め」
 闇音はそう言うと、後ろについていた真咲さんを振り返って何かを伝えようとする。それが使用人を呼び付けようとする言葉だと知って、私は首を振って付け加えた。
「違うの。別に街に用事があるわけじゃなくて、ただ出掛けてみたくて」
 私の声が響いた直後、闇音はゆっくりと振り向くと能面のような顔をみせた。
「わざわざ街へ出て何になる?」
 言外に無駄なことだと匂わせながら、闇音は溜め息を零す。威圧的に組まれた闇音の腕を見つめながら、すんなりと言い返せなかった私は次の言葉を探した。
 闇音が物足りなさそうに私を見下ろしているのを視界の端で捉える。その様子に焦っていると、今まで無言で闇音と私のやり取りを見つめていた蒼士さんが、見るに見かねた様子で間に割って入った。
「美月様はここ数日、緊張で気が張り詰めてお疲れになっているのです。たまの息抜きぐらいよろしいのではないですか?」
 蒼士さんは私へ視線を送ってから闇音に向かう。闇音はそんな蒼士さんを一瞥すると、顔を逸らして流し目で私を見つめた。
「たまの息抜きか」
 ひどく低調な声が廊下に響く。その声はそのまま、そんなもの必要なのかと言いたげな闇音の表情へと繋がった。闇音の顔にはありありと、大した苦労もしていない癖に、という私への評価が表れている。再び何も言い返せなくなった私に闇音は酷薄な視線を落とすと口を開いた。
「……まあいいだろう。この屋敷の中にいても、別段することもない。屋敷の造りもどうやら覚えたようだし――」
 と闇音はそこで言葉を切ると、確認するように聖黒さんを見つめる。すると聖黒さんがその視線の問いに答えるように頷いた。
「芳香。お前が街へ連れて行ってやれ」
 闇音は聖黒さんから芳香さんへ視線を走らせると淡々とそう言った。あまりにぞんざいな闇音の言い方に芳香さんは不服なのか一瞬だけ顔を歪めてから、はい、と返事をした。
 その様子を見つめていた朱兎さんが、ふと沈黙を破って声をあげる。彼の眉は難しくひそめられていた。
「闇音様、それには及びません。街へは僕たちだけで事足りますので、どうぞお気遣いなく」
 あまりにもぞんざいに他人を扱う闇音と、ぞんざいに扱われた芳香さんの二人に対して心を痛めているかのように、朱兎さんはそっと穏やかに告げた。優しく諭すような声に闇音は苦虫を噛み潰したような表情を浮かべると、続けて四神を見渡して片眉を引き上げた。
「お前たちだけで行くのは構わないが、街は一見簡単に見えても意外と入り組んだ造りだ。そこで迷われては迷惑だ」
「それはご心配には及びません。輝石がいますので」
 闇音の冷やかな言葉にも一切動じず、聖黒さんは輝石君の肩に手を置いて誇らしげに言った。突然自分の名前が出てきた輝石君は、寝耳に水の表情を浮かべて聖黒さんを見上げて、次いで闇音を見上げた。
「そうですね。俺がいるので大丈夫です」
 輝石君は目を大きく見開きながらもそう言ってのけると、少し落ち着きを取り戻したのか私ににっこりと笑顔を向けた。その笑顔にほっとして私も思わず頬を緩めていると、小さく呟くような闇音の声が頭上から降ってきた。
「そうか、お前は街に詳しいんだったな」
 耳に届いたその声があまりに穏やかで、いつもの闇音の声音とまったく違っているのに驚いて私は思わず闇音を見上げる。すると目に入ったのは、今まで一度として見たことのない穏やかな闇音の表情だった。その瞳は、輝石君に向けて優しげに細められていると言ってもいいほどだ。
 今まで見ていた闇音の冷たい美貌とは正反対の暖かな美しさを目の当たりにして、思わず闇音を凝視する。一体、今のやり取りのどこに彼を穏やかな心にさせる事柄があったというのだろう。不思議に思いながら暖かな視線が向けられている当の本人である輝石君へ視線を走らせると、輝石君は驚きに満ちた目を見開いたまま顔の筋肉を固まらせたかのようにぴくりとも動いていなかった。それを見た私が咄嗟に輝石君を軽く肘で小突くと、彼は我に返った様子で二、三度急いで頷いた。
「では街へ出掛けてもよろしいでしょうか?」
 聖黒さんは、闇音と同じ優しい視線を輝石君へ送ってからそう言った。闇音は私へちらりと視線を走らせると、重々しく頷いた。
「あまり遅くならないうちに帰ってこい――夕食には間に合うように」
 闇音はそう告げると、踵を返して今来た廊下を戻って行く。真咲さんと彰さん、芳香さんはそれぞれ私たちに一礼して、その後を追った。
 私の隣に立つ輝石君は、未だ惚けた様子で闇音の後姿を直と見据えている。私はその輝石君の横顔を見つめて、複雑な気持ちを抱えていた。
 闇音の穏やかな表情は、あの一瞬の間にまるで幻のように消え去ってしまっていたからだ。

 

 

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