二十一

 

「俺、ほんとにあのとき心臓が止まるかと思いました」
 賑やかな人込みの中、輝石君がまるで内緒話をするように私の顔に近づいてそう言った。
「まさか闇音さまにあんな風に見られるなんてびっくりして、度肝を抜かれて――」
「どうでもいいことかもしれないが、輝石。近づき過ぎだ」
 蒼士さんは無表情で輝石君の肩に手を置くと、さらに顔を近づけ始めていた輝石君を一瞬のうちに私の目の前から追いやる。その鮮やかな一連の動きに私は目を見張って蒼士さんを見つめた。
「すごい、蒼士さん。前にも思ったことがあったけど、蒼士さんって力が強いよね」
 私が思わずそう零すと、脱力したように蒼士さんが眉尻を下げた。
「一応これでも青龍ですから。美月様を守るために私はいますので」
 蒼士さんはさらりとそう言ってのけると、私の肩に手を置いて輝石君から遠ざけた。
 私は当然のことのように放たれた言葉に自分でも知らないうちに赤面してしまった。どうもこの天界の住人はみんな揃って恥ずかしいことでも、まるで息をするのと同じように言ってのけてしまうらしい。聖黒さんや泉水さん、そして蒼士さんはその筆頭に思える。
「美月さま……俺、いっつもこんな役回りな気がするんですけど」
 油断できないと真剣に考え込んでいると、少し離れたところから輝石君の沈んだ声が聞こえた。私はその声をたどって輝石君を見つけて苦笑を浮かべた。
「そんなことないよ。輝石君はいつも素敵だよ」
「美月さま……。俺を認めてくれるのは美月さまだけです!」
 輝石君はぱっと顔を輝かせて走り寄ろうとして、再度蒼士さんに阻まれる。
「そうやって輝石はすぐに美月様に近づこうとする。俺の目の前ではそういう愚行は許さないから」
「ぐ、愚行って!」
「その通りです、蒼士。どうやら輝石には四神の――白虎の自覚が足りないようです。」
 打ちのめされたように目を見開いた輝石君に追い打ちをかける如く、聖黒さんがすっと上体を倒して蒼士さんと私の顔を覗き込みながら頷く。すると後ろから朱兎さんの抗議の声が漏れ聞こえた。
「そうかな? 輝石は十分白虎の務めを果たしてると僕は思うけど。まだ一年しか経ってないのに――」
「いいえ、足りません。慣れ慣れしく美月様に触れようとするのがいい例です。考えてごらんなさい。同じことを私がしたらどうなると思います?」
「え? 聖黒が輝石みたいに美月様に近づいたらってこと?」
 朱兎さんは素っ頓狂な声を上げてからしばらく黙りこむと、すぐに目を見開きながら首を振った。
「駄目。絶対駄目。輝石、もっと自覚を持たなきゃ!」
「聖黒と俺を一緒にするなよ! それは確かに、聖黒が俺と同じように美月さまに顔近づけたり手握ったりしたらそれは駄目だよ。でも俺はいいんだ! 一番美月さまと年が近いから」
 朱兎さんの言葉にむっとしながら輝石君が返す。するとそれを聞き咎めた蒼士さんが珍しく冷笑を浮かべて輝石君を見下ろした。
「そんな意味の分からない言い訳が通用するとでも?」
「そうですよ。つまり輝石、あなたは私が一番年を取っているから美月様の手を握ってはならないと言いたいつもりですか?」
 聖黒さんも温和に微笑みながらも、まったく笑っていない冷やかな声で輝石君に詰め寄る。
「ちょ、ちょっと待ってください。輝石君のはそういう意味じゃ――」
「いいんです、美月さま」
 思わず私が間に入ると、輝石君が静かに首を振ってそう言った。
「聖黒の年が何歳だとかそういうことじゃなくて、聖黒が俺と同じこと美月さまにしたらだな、つまり、ちょっと危ない感じだろ。健全から離れていきそう」
 輝石君は真面目に言い始めたけれど、最後の方になると一転して苦悶に満ちて項垂れながら続けた。その様子を片時も逃さず見つめていた聖黒さんは、輝石君が言い終わるとそっと顔を背けて片袖で顔を覆った。
 その思いもかけない聖黒さんの行動に驚いて、蒼士さんと私は一斉に聖黒さんを振り向いた。
「聖黒さん? 大丈夫ですか?」
 私がおろおろとしながら声を掛けると、聖黒さんは小刻みに肩を震わせている。もしかして泣いているのかもしれない、と思った私は手巾を取り出そうとして、そして手を止めた。
 どこからかくぐもった笑い声が聞こえる。どこだろうときょろきょろとあたりを見渡して、そして最終的に袖で顔を隠す聖黒さんに行き着いた。
「……あの。聖黒さん? もしかして笑ってますか?」
 恐る恐るそう声を掛けると、聖黒さんは珍しく――というか多分初めて――控えめにだけれど声を上げて笑っていた。
「すみません。笑うつもりはなかったんですが――けれど、今回は私がやりすぎました。あまりに輝石が可愛いもので」
「聖黒ー!」
 笑いを抑えようと奮闘する聖黒さんを見つめて、輝石君が目を吊り上げる。からかわれたことと、可愛いと言われたことにどうやら腹を立てているらしい。
「輝石、すみません。あまりにいつも上手く切り抜けてみせるので、今回はどうするのかと思えば――まさか正攻法でくるとは思いませんでした」
 聖黒さんはくすくすと笑いながら呟くと、それでも輝石君を穏やかな瞳で見つめて言った。
「ですが、いくら美月様と仲がよくてもあまりべったりとしてはいけませんよ。これは以前にも忠告――」
「あーあー! 分かってる。それは分かってるよ!」
 輝石君は先程まで腹を立てていたのはすっかり忘れたのか、慌てて聖黒さんの言葉を遮る。そして蒼士さんを見上げると、少しばつが悪そうにはにかんだ。
「蒼士。その、ごめんな」
 輝石君の突然の謝罪に、蒼士さんは虚を衝かれたように目を丸くした。その頭上には疑問符が目に見えるほどだ。
「その、いろいろと。でも俺、ちゃんと白虎の務めは果たすよ。それが姉ちゃんのためにもなるって信じてるから」
 輝石君はぐっと拳を握って眉間に皺を寄せながら真剣な瞳で蒼士さんを見つめる。蒼士さんはそんな輝石君に、ふっと表情を和らげると瞳を細めた。
「知ってるよ。輝石が今まで努力してきたことも、白亜のために頑張ろうとしてることも。さっきのはちょっとからかっただけだ。俺こそごめん」
 蒼士さんは言い終わると輝石君の頭を優しく撫でた。輝石君は小さく、子ども扱いするな、と呟いたけれど照れながらも笑顔を浮かべている。
 先程までのぴんと張り詰めた空気はどこへやら、ほんわかとした温かい空気が流れ始めた頃、朱兎さんが空気と同じ柔らかな声音で話に割り込んだ。
「ところで輝石。僕たちの頼みの綱は輝石なんだけど、ちゃんとここがどこか分かってるよね?」
 朱兎さんの声につられて辺りを見渡すと、先程まで賑やかだった街の大通りとは全く違う印象の、細い人気のない道を今五人は歩いていることにやっと気づく。話しながら当て所なく歩いていたために、どういう道順でここまでやって来たのかさえ定かではなかった。
 私は忙しなく辺りを見渡してから輝石君へ視線を戻す。私の隣では蒼士さんと聖黒さんも固唾を呑んで輝石君を見つめている。そして当の輝石君は真っ青というよりは紙のように白い顔を浮かべて狼狽していた。
「み、道に迷った……」

 

 

 ぐったりとしながら自室に転がり込むように入って、そのまま思わず寝転んでしまうと聖黒さんが苦笑いを私へ送りながらも頷いた。
「確かに今日は酷く疲れましたしね。夕食まで時間はありますから、少しお休みになってください」
 聖黒さんはそう言ってぐったりと寝ころぶ私の隣に座ると、軽く頭を撫でてくれた。
「疲れた……」
 ばたりと先程の私よろしく聖黒さんの隣に倒れ込んだ輝石君は、うつぶせになってぴくりとも動かない。私はそんな輝石君を見つめてからちらりと聖黒さんを見上げてみると、聖黒さんが優しく目を細めて輝石君の頭に手を置いているところだった。
「せっかく初めて街へ出たのに、あまり楽しめませんでしたね」
 朱兎さんは目を閉じてだるそうに肩を回しながら溜め息を零す。
「だからごめんって。まさか俺も道に迷うとは思いもよらなくて」
 ぐるりと転がって仰向けになった輝石君は、大の字を身体で描きながら長く息を吐き出した。
「少しからかいが過ぎましたね。私の責任です」
 聖黒さんが輝石君と私の頭を撫でながら苦笑交じりに言った。
 あの後、輝石君が血の気の引いた顔を浮かべながらも四人を統率して、終始うろうろと大通りへ戻るべく歩き続けたのだ。いつもこういう時に頼りになる聖黒さんは笑い過ぎで道を見ていなかったらしく、蒼士さんも街に出たことがあるとはいえ真咲さんに付いて行くのが定番だったそうで、辛うじて大通りは分かっても小道までいくと構造が分からないと言ってお手上げ状態だったのだ。その結果、優に一時間以上さ迷い、変な道に出たり、行き止まりに差しかかったり、なぜか小川に突き当たったりしてしまった。そして最終的に輝石君に変わって朱兎さんが記憶を何とか手繰り寄せて、彼の先導で大通りへと戻ったのだった。
「俺、街っ子だったのにな……自分でも迷ってちょっと悲しい」
 輝石君はそう言うと、勢いよく体を起こした。
「朱兎、今度から今日みたいに雑談に加わらずに街の道順を覚えろ」
「嫌だよ。僕だって街見たいし」
 輝石君が名案だとでもいうように瞳をきらきらと輝かせながらそう言った直後、朱兎さんが無表情のままにべもなく言い放つ。
「また街に行ける日がくるといいですけど」
 私がぼんやりとそう呟いて目を伏せると、ちょうど部屋へ入ってきた蒼士さんと目が合った。
「蒼士、夕食まで後どのくらいだと?」
 すたすたと歩いて聖黒さんの前に座った蒼士さんは、私を見つめて微笑む。その時になって自分が寝転んだままだということに気づいて、私は慌てて起きあがった。
「後一時間程度だそうです」
「あと一時間もあるのかー」
 輝石君が蒼士さんの言葉に、まるで絶望に打ちひしがれたようにそう呟くと、朱兎さんが目を丸くして訊ねた。
「そう言えば輝石、どうしてここにいるの? いつもはもう西家に戻ってるのに」
 朱兎さんが純粋な疑問をぶつけると、輝石君は顔を背けてぶつぶつと呟いた。
「ほんとは街から直で屋敷に戻ろうと思ってたけど……一旦黒月邸まで戻らないと道が分からなくなったんだよ」
 輝石君は気のせいなのか少し頬を染めながらも、きっときつい目を朱兎さんに向けた。
「だからついでに夕御飯も食べてく! 俺はもう決めたんだ」
 輝石君は有無を言わさない強い調子で言い切る。朱兎さんは笑いながら、はいはいと言って頷いた。
「そう言えば、美月様。闇音様はお出掛けになられていて夕食はいらないそうです。ですが夜は昨日と同じように部屋へいらっしゃると」
 蒼士さんは思い出したようにそう言うと、私から視線を逸らした。
「それってつまり、夕食はお義父さんとお義母さんと三人でってこと?」
「そうなります」
「そして夜は、昨日みたいにあの部屋で闇音と二人ってこと?」
「そうです」
 私の否定を欲する疑問に、蒼士さんは間髪を入れずに肯定する。その間を空けない返答に私は思わず言葉を失った。
「お嫌ですか?」
 目を見開いて蒼士さんを見つめる私に、聖黒さんが小さな声で訊ねる。私は蒼士さんから視線を外して聖黒さんへそれを向けた。
 ここで私が嫌だと言ってもどうにかなるものでもない。そう思うと、自然と拒絶の言葉は生まれてこなかった。
「――いいえ」
 私がそう答えた瞬間、聖黒さんの表情が妙に強張った気がした。けれど次の瞬間にはいつもの柔らかな笑みに変わっていたのを見て、すぐに見間違いだろうと考え直した。

 

 

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