十五

 

 お風呂に入れられて、ほとんど無理やり寝間着に着替えさせられた私は今、柔らかな純白の布団の上で正座をして闇音を待っている。
 闇音の部屋でも自分の部屋でもない、広いその部屋の中にたった一人でいるというのは、意外と心細いものだ。この部屋に無理やり入れられてから、もう随分と時間が経ったように思う。もしかして今日はもう彼は来ないのではないだろうか、と少し考えてみる。
 けれど、こんな状況の中ですら私の頭の中に無情にも響き渡るのは、泉水さんが言った別れの言葉だった。
 考えないようにしようと思えば思うほど、そこから身動きが取れなくなる。決して抜けることが出来ない闇に捕らわれたように、私はあの場所から、泉水さんと別れたあの廊下から、一歩も動けずにいる気さえする。優しさと冷たさの紙一重にある言葉に苦しみが増していって、今では初夜というあの瞬間まで私の心を占めていたはずの恐怖心などすっかり消え失せていた。
 苦しさから抜け出そうと空に浮かぶ月を見つめていると、静かに戸が開いた。音もなく開かれた戸にびくりと体を震わせて、素早く視線をやる。視線の先にいたのは、寝間着を纏った闇音だった。
 無表情な闇音と視線がかち合う。
 先程までの心細さと苦しみが嘘のように消え、今ではあのまま一人でこの部屋に居続けたかったという気持ちが心を占拠していった。そんな私の心を見透かしたかのように闇音は片眉を吊り上げて私を見下ろすと、無言のまま歩み寄ってどさりと私の隣に座り込んだ。
 少しでも体を動かせば触れてしまいそうなほど近くに闇音が座っている。私は顔を俯けて、そっと後退する。それから恐る恐る顔を上げると、再び闇音と視線が交錯した。
 闇音の瞳は私に固定されているかのように一切揺らぐことがない。私はその視線をまともに受けて、微動だにすることができなくなった。
 これではまさに蛇に見込まれた蛙状態だ。
「そんなに怖いのか?」
 無表情から転じて嘲笑を浮かばせながら、闇音がそっと囁いた。
 その声の冷たさに私はもう一度体を震わせた。先程まで頭を駆け巡っていた想いも苦しみも、闇音の声ですべてが一瞬にして消え去った。
 闇音は視線を逸らさず軽やかに私の隣に手をつくと、そのまま身を乗り出して一気に距離を埋めた。それに反射的に小さな悲鳴を漏らすと、闇音は笑みを消して真剣な眼差しで私を見つめる。
「そんなに怖いのか」
 闇音は静かにそう繰り返すと、少し首を傾げて私の顔に自分の顔を近付ける。再び後退しようとした体は、闇音が素早く背中に回した腕によって阻まれてしまった。
 完全に逃げ場を失った私は助けを求めることもできず、身を硬くして闇音を見つめ返した。まだ少し濡れたままの闇音の髪が、月の光に照らされてきらきらと輝いていた。
 闇音が纏う恐ろしさとその完璧な美しさという相容れないはずの要素が私のすべてを支配する。息をすることすら忘れてしまいそうになる。
 込めていた力が体から抜けていくのを感じたとき、途端に視界が反転して自分の背中に柔らかな感触広がった。
 先程まで見ていた闇音の顔は、相変わらず目の前にある。けれどその背後に見える景色がまったく違っていた。
 私はそれに戸惑って必死で鈍くなった頭を回転させる。そして数秒かけてやっと、今見えている闇音の背後の景色が天井で、背中に当たる柔らかな感触が間違いなく今まで座っていた布団なのだと気がついて、一気に血の気が引いた。
 闇音は軽々と私を組み敷くと、物足りなさそうに首を傾げて眉をひそめた。私はとにかく何か言おうと必死で自分の口へ命令を送るけれど、目の前の闇音を見つめると喉がしまって声を絞り出すことすら出来なかった。
 とんっと軽い音が自分の耳元で聞こえる。音の出処へ視線を送ると、闇音が私の顔の横に手をついているのが見えた。抵抗すらできず真っ直ぐ闇音の顔を見つめ直すと、闇音がそれを待ち構えたように顔を近付け始めた。次いで闇音の手が私の首筋に当てられたのを感じて、私は顔を背けて強く目を瞑った。
 このとき、私の心を支配していたのはただの空虚な感情だった。何の思いも生まれてこないまま強く目を閉じる。目を閉じてから数秒経って、けれど一向に何の変化も訪れないことに初めて疑問を感じて、そろそろと目を開けた。そのまま横目で闇音を確認すると、闇音は先程の状態から一切変わらない距離を保ったまま、暗い瞳で私を見つめていた。
「嫌がる女を抱く趣味はない」
 闇音は小さくそう囁くと、私から体を離して、組み敷いていた私の体を簡単に開放した。
「それに、興味のない女を抱く趣味もない」
 闇音は低い声でさらにそう付け加えると、ばさりと掛け布団をめくった。
 闇音の一言に心からほっとして、その途端に涙が込みあがってくる。その涙を抑えようと小さく息を吐いていると、闇音が手を止めて私を見つめた。
「だが、俺は黒月の当主だ。いずれ子は必要になる」
 静かな、けれど否定を許さない強い瞳で射すくめるように闇音は言った。
「それまでに心の準備でもしておくことだ」
 闇音は私を見据えてそう言い終えると、素早く視線を逸らしてこちらに背を向けて布団に体を横たえた。

 

 

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