三十二

 

「あの、ほんとに大丈夫ですから……!」
 いつもより上質な――と言っても、普段でも十分上質なのだけれど――着物を着て、私は逃げ惑っている。私が逃げている相手は母だ。
「大丈夫じゃないわ。今日が大事な日だって分かっているでしょう? ちゃんとお化粧しなくちゃ」
 ここ数十分間、母と私はこのことで揉めに揉めていた。母はばっちり化粧をしなくてはいけないと言い、私はそんなものしても無駄だと言う。
「だってね、今日結婚相手を決めるのよ。綺麗にしなくちゃ!」
 母は拳を握りながら私に力説する。するとすかさず私が、
「でも今更じゃないですか。もうとっくに私の素顔を泉水さんにも闇音にも見られてます」
 と反論する。
 堂々巡りの討論は、部屋の外で控えている四神家の四人にも筒抜けらしく、先程から四人が小さく笑う声が聞こえてきていた。
「もう私、綺麗に髪も結ってもらいましたし、これで十分です」
 私は母が次の言葉を考えている隙を狙って畳みかけることにして、私の言葉を聞いた母が口を出す前にさらに続ける。
「それに、私は自分の身の程を知ってます。綺麗にお化粧したところで、そんなに変わらないもの」
 私が静かにそう言うと、母は言葉を失ったように呆然と私を見つめた。それからゆっくり首を振ると厳しい表情で言った。
「身の程ってどういう意味? あのね、この際だから言っておくけど、あなたが普通の容姿なわけはないわ。だって考えてごらんなさい。あなたは令さんと私の娘なのよ」
 母はこれ以上の理由はないとでも言うように、私にきっぱりと言い放った。
「あなたは令さんと私の娘なの」
 母はもう一度そう繰り返すと、じっと私を見つめた。今度は私が言葉を失って呆然と母を見つめた。
「……だから?」
 私の口から思わずこぼれた言葉は、母を予想外に傷つけたらしい。母は信じられないという表情を浮かべて、私を穴が開くほど見つめている。
「だから、あなたは綺麗だってこと」
 母は、正気なの? という視線を私へ送って、当然のことのように言いきった。
 私はそんな母を見つめてから、小さく溜め息を漏らす。それはどう見ても親の贔屓目にしか思えない。
 母は私が返す言葉を失っているのを、納得したと理解して、満足そうに頷くと、時計に目をやって目を見開いた。
「大変! もうこんな時間なの? あなたがあんまり逃げ回るから、今日はお化粧なしになっちゃったわ」
 母は恨めしそうに私を見つめると、すぐに表情を変えて顔を輝かせた。
「だから、婚礼の日は綺麗にしなくちゃね。さすがに婚礼の日はお化粧しないわけにいかないもの」
 一人満足げに母はそう言うと、私の傍へ歩み寄った。
「あなたが戻ってきてくれてから、もう二ヶ月経ったのね……」
 母はそう言うと、そっと私の頬に触れた。母が私に送る視線には、喜びと優しさと、そして少しの寂しさが含まれている。そして私と目が合うと、さっと寂しさを消してにっこりと微笑んだ。
「さすが令さんと私の娘だわ。何もしていなくても綺麗」
 今度は自慢げにそう言うと、母は私の手を引いてそっと襖を開けた。
 そして廊下に身動き一つせずじっと座り続けていた四神家の四人に頷いて見せてから、私の方へ向き直ると、挨拶がすんだらいらっしゃいね、と言って、母は廊下の奥へ姿を消した。
「美月様、お綺麗です」
 聖黒さんがにっこりとそう言ってくれる。私はその言葉がお世辞だと分かったけれど、照れて顔を俯けた。
「もう二ヶ月経ったんですね……」
 朱兎さんが先程の母と同じ言葉をぽつりとこぼした。それに相槌を打ちながら、輝石君が私を見つめた。
「姫さまと出会って二ヶ月か。長かったような、短かったような……」
 輝石君はしみじみとそう言うと、ゆっくりと蒼士さんへ目を向けた。私もそれにつられておずおずと蒼士さんを見上げる。蒼士さんは輝石君と私の視線に気づいて苦笑を浮かべると、言った。
「私個人の意見では、この二ヶ月は長かったです」
 蒼士さんはそう言うと、そっと天井を仰ぎ見てから私へ視線を移すと、いつものようににっこりと微笑んだ。
 私はその視線を受けて、自分もいつもどおりに振る舞わなくてはいけないのだと気づいて、にっこりと微笑み返した。私の微笑みは少し引き攣っていたように感じられたけれど、蒼士さんはそれを見ても何も言わずに、ただ優しい視線を送ってくれた。
「えーっと。和んでいる所、大変申し訳ないのですが……」
 突然後ろで聞こえた声にぎくりとして急いで振り返ると、そこには申し訳なさそうに声を掛けてきた真咲さん率いる闇音の臣下三大と、譲さん率いる泉水さんの臣下三大が先を争うように立っていた。
「ああ、感慨にふけってたらすっかり忘れてた」
 本当に忘れていたのだろう朱兎さんが、悪気のない明るい声で六人に向かって言った。
「すみません、お話し中に。あの……」
「姫、痩せたね」
 言葉を続けようとした真咲さんを遮って、雪留君が声を上げた。その表情はとても心配そうに歪められている。四神家の四人は雪留君の言葉を聞いて、困った様子で顔を見合わせた。私はその様子を見て、雪留君と四神家の四人の優しさに感謝しながら口を開いた。
「今日のためにダイエットしたの」
 少し冗談っぽくそう言うと、雪留君は首を傾げた。
「だいえっと?」
「理想的な体型になるために体重を絞ることだ」
 疑問符を浮かべる雪留君に、蒼士さんが私の言葉に付け足した。するとその言葉に眉根を寄せて雪留君が口を開いた。
「そんなことする必要なかったのに。姫は前のままで十分綺麗だったのに」
 雪留君のそのまっすぐな瞳と言葉に、私は思いがけず驚いて、ぽかんとした表情で雪留君を見つめた。
「あ、ありがとう」
 驚きの表情のまま私がそう告げると、雪留君はさらに眉根を寄せて疑うように私を見つめる。
「今、これをお世辞だと思いましたね? 心外だな。僕がお世辞なんかを言うような人間に見えますか?」
 雪留君が真剣にそう言うと、輝石君が笑いながら同意した。
「確かに。雪留はお世辞なんて言えないもんな」
 輝石君の笑いながらの言葉を聞いて、かちんときたらしい雪留君は顔面に思いっきり愛らしい笑顔を浮かべて言った。
「……それ、僕が言った意味と違うように捉えてると思うけど?」
 雪留君の反論を聞いた輝石君もにっこりと笑顔を浮かべて返す。
「そうか? 俺はちゃんと意味を捉えたと思うけど?」
 にっこりと不気味な笑顔を貼り付けて、二人はじりじりと距離を縮めていく。周りで溜め息が一斉に漏れて、輝石君と雪留君以外の全員がやれやれと首を振った。
「輝石、こんな日に喧嘩もないでしょう」
 聖黒さんが二人に負けない不気味な笑顔を浮かべて二人の間に割って入った。
「雪留、ここに来たのは輝石と喧嘩するためじゃない」
 譲さんが呆れた表情を浮かべながら、ずんずん進み続ける雪留君の腕を引っ張った。
 輝石君と雪留君はその言葉にはっと我に返ったように、歩を止めた。そしてお互いの顔を見ると、二人同時につんっとそっぽを向く。その様子に今度は一斉に笑みが漏れて、それに不服そうに二人が眉間に皺を寄せた。
「あの、私たちが来た理由、まだ姫様に言ってませんが」
 真咲さんが遠慮がちに声を掛けると、全員が真咲さんの方を向いた。一斉に注目を浴びた真咲さんは心なしか落ち着かない様子を見せて、話し始めた。
「私たちは会談の席には入れないので、会談前に姫様に会いに参りました」
 真咲さんはそう言うと、にっこりと笑って私の手を取った。
「どうか、姫様のお心に添う結果となりますように」
 私はその言葉に感謝して、にっこりと笑い返してから、わざわざ足を運んでくれた六人を見渡す。
「わざわざ来て下さってありがとうございます」
 そう言って私が深々とお辞儀すると、六人も慌ててお辞儀をしてくれた。
「私共も、姫君の希望どおりに会談が進むことを願っております」
 譲さんが落ち着いた声でそう言うと、貴重な微笑みを見せてくれた。
「それにしても、会談に私たちも入れてくれてもいいのにね。ケチなんだから」
 芳香さんが冗談っぽくそう言うと、博永さんが笑って、
「そうだね。少しケチだね」
 と言った。同意してもらえたことに気分をよくした芳香さんは、うんうんと頷いている。
 その様子に少し笑ってから、私は聖黒さんの方を振り向いた。
「ところで、どうして臣下三大さんは入れないんですか?」
 私が聖黒さんにそう尋ねると、聖黒さんは少し困った表情を浮かべて言った。
「それが決まり、と聞いています。それに立ち会えないのは臣下三大だけではありません。私たちも外で待機ですので」
「えっ。そうなんですか?」
 その聖黒さんの言葉に、不安が一瞬にして心を覆った私は、おろおろと四人を順番に見つめた。四人は眉尻を下げて、ゆっくりと頷いた。
「ですが、ご当主と奥方様はいらっしゃいますよ。白月家と黒月家も、当主の泉水様と闇音様、それからお二人のご両親がいらっしゃいます」
 不安な面持ちの私を見て、蒼士さんが落ち着かせるように優しくそう言ってくれる。その言葉にほっと胸をなでおろして、両親がいるなら大丈夫、と考えることにした。
「姫、気をしっかりと持って下さい」
 雪留君が心配そうにそう声を掛けると、それに頷いて彰さんが穏やかな視線を私へ向けて言う。
「ご自分の意思をちゃんと伝えて下さいね」
 その言葉に私も頷いて、ぎゅっと胸に手を当てる。しっかりと自分の意思を伝えよう、と心に誓って。
 そして、聖黒さんは思い出したように時計へ目をやると、引き締まった小さな声で告げた。
「白月家の御三方も黒月家の御三方もそろそろいらっしゃる時間でしょうか……。美月様、そろそろお部屋の方へ」
 その声に私はさっと身体を硬くして、ぎゅっと自分の手を握ると頷いた。そして四神家と両家の臣下三大を見渡してからお辞儀をすると、ゆっくりと一歩一歩、踏みしめるように歩き出した。
 これからの人生が決まる、その部屋へ向かって。

 

 

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