三十一

 

 目の前に広がるのは、白い世界だ。私は掛け布団をすっぽりと頭から被って、その布団越しに朝日を感じている。
 起き出す気には到底なれなかった。布団の中で膝を抱えて小さく丸まって、そして思い出すのだった。
 あの日、泉水さんと小梅さんの気持ちを知ったことを。闇音の冷たい視線の中に彼の寂しさと優しさを一瞬だけ垣間見たことを。そして、蒼士さんの気持ちを。
 そっと襖が開く音がして、私は咄嗟に身を縮こませた。
 襖を開けたその人は、衣擦れの音を立てて私が籠城する布団の隣にそっと座った。
「美月? 起きてる?」
 柔らかな母の声。私は布団の中で小さく頷いて、もう目が覚めていることを示した。
「令さんがね、お粥を作ってくれたの。普通のご飯が喉を通らないならって。……食べられそう?」
 母は心配そうに布団の中の私に向かってそう言うと、持っていたお盆を置いて、お粥の鍋をそっと開けたようだった。ふわりと布団越しに温かなお粥の香りが届いた。
「あなた、ここ最近はご飯も碌に食べてないじゃない。少しでもいいから、何か食べなさい」
 母はそう言うと、じっと辛抱強く私の反応を待った。母が私の答えを求めていると分かって、私は声を出した。
「そこに置いておいて。後で食べます」
 たった数日、ご飯を食べていなかっただけだけれど、私は蚊の鳴くような小さな声しか出せなかった。母はその小さな声を聞き取ると、何も言わずに布団越しに私の体に触れて、優しく撫でた。それから小さく、必ず食べてね、と言い残すと、鍋のふたを閉めてからそっと部屋を出ていった。
 母が出ていくのを感じると、私はまたあの日に意識を飛ばして、その思いに囚われた。
 私が泉水さんを諦めれば、すべて上手くいくのに。あの日、私は泉水さんと小梅さんの間に入る隙間すらないことを、この目で、この心で目の当たりにしたのに。あの湖の前で、泉水さんの瞳はただ小梅さんだけに注がれていたのに。
 泉水さんの目が伝えていた。小梅さんだけを愛していると。その手が訴えていた。小梅さんを抱きしめたいと。その足が、その心が、小梅さんだけへ向かっていると。
 思い出して胸が痛む。その痛みを抑えようと、きつく両の手を胸に押し当てた。
 闇音は知っていたのだ。私が二人の関係を知れば、どうにも身動きが取れなくなるということを。すべてが闇音の思いどおりに進んだようで、私は心なしか悔しく思った。――闇音に手玉に取られている。
 そして不意に、あの日見つけた闇音の心の奥に思いを馳せる。一瞬だけちらついた闇音の優しさ。あれが優しさと呼べるものなのかは、本当にははっきりと分からなかったけれど、闇音が見せる冷たさには何らかの理由がありそうだった。闇音の暗い瞳、感情を宿さない冷たい瞳。その影が頭をぐるぐると回り続けた。
 そして、やがて思考は蒼士さんのことに行き着く。
 あの日、柔らかい木漏れ日の中で、蒼士さんの背中はあまりにも辛く見えた。彼が言葉を紡ぐたびに、周囲の空気が悲しみの色に染まるようだった。そして、そうさせたのは私自身だった。
 朝起きてから夜眠るまで、それだけでは足りず夢の中でさえも、私はこの事実に囚われていた。これではだめだと、しっかりしなくちゃいけないと分かっていても、心と身体はついていかない。そんな自分を情けなく思いながら、私はその心に任せて暖かな布団の中に留まり続けていた。

 

 それからどのぐらいの時間が経ったのだろう。気づけば私は久々に何の夢も見ずに穏やかに眠っていた。
 突然目が覚めたのは、自分の近くで人の気配がしたからだ。布団の中からその人が誰なのか、必死で探ろうとした。そして空気の動きでその人が誰なのかを察知する。
 布団の中に閉じこもるようになって、私の感覚は鋭くなったらしい。この穏やかな空気と雰囲気を纏う人は、間違いなく聖黒さんだ。
「美月様」
 ゆったりと穏やかな声がすぐそばで聞こえて、その人は布団をすっぽり被った私の頭にそっと手を置いた。
「起きていらっしゃいますか?」
 囁くように聖黒さんはそう言うと、私が頷くのを布団越しに置かれた手から感じ取ったようだった。
「まだお粥を召し上がっていませんね」
 少し咎めるように聖黒さんはそう言った。けれど私は声も出さず頷くこともしなかった。すると何の反応も示さない私に痺れを切らしたのか聖黒さんは、失礼します、と一言囁くと、私を白く覆っていた布団を豪快にがばっと剥ぎ取った。
 その瞬間、新鮮な空気がどっと私に押し寄せてきて、それが布団の中のこもった空気を一掃させた。そこで初めて、私は布団の中が息苦しかったことに気づいた。
 そして目の前に広がるのは、鮮やかな日が差す室内。今まで目にしていたのが白一色の世界だったせいか、私は布団に遮られていない日の光にちかちかして、何度も目を瞬かせた。
 それから急に布団を剥ぎ取られたことに今更気づいて、私は聖黒さんの手から布団を取り返そうともがいた。
「か、返してください」
 やっぱりか細い声をなんとか振り絞って私がそう言うと、聖黒さんは布団を取り上げたまま、私を厳しい眼差しで見下ろした。
「いい加減になさい」
 その声の厳しさにびくっと身体を強張らせて、私は布団を取り返そうと必死で動かしていた手を止めた。
「どれほど周りに心配を掛けているか、よもや気づいていないとは言わせませんよ」
 聖黒さんは厳しくそう言うと、今度は私を労わるような視線を向けた。
「こんなにも痩せて……」
 聖黒さんは持っていた掛け布団を遠くへ放り投げると、さっと傍に置かれていたお粥を持って、その鍋のふた開けた。そして、その中からいささか乱暴にお粥をすくって私の口元に運んだ。聖黒さんはそれを食べる以外の行為を一切許さないというように、厳しい目を向けている。
 私はその目に負けて、仕方なくおずおずとそれを口に入れた。するとその瞬間、口いっぱいに柔らかい感触が広がった。それはお粥の柔らかさで、父と母の優しさで、聖黒さんの労わりの気持ちだった。
 ゆっくりと柔らかなお粥をかみ砕いて喉へ通すと、私は顔をしかめた。いくらお粥が柔らかいと言っても、数日間食事をしなかった喉にそれを通すのは一苦労だった。
「これを残さず食べて頂きます。話はそれからです」
 聖黒さんは私がちゃんとお粥を食べたのを見届けると、さらに散蓮華にお粥をすくって私の口元へ運んだ。それに少しうろたえて、私は散蓮華と自分の口元の間に距離を取って、聖黒さんに向かって訴えるように言った。
「自分で食べれます」
 聖黒さんは私の言葉に少し不服そうな表情を浮かべたけれど、すぐにお粥と散蓮華を私に手渡した。私はそれに感謝しながら、ゆっくりとお粥を口へ運んだ。聖黒さんはそれを監視するように厳しい目を私に向け続けている。
 ゆっくりとお粥を食べ続ける。一口一口お粥を喉へ通すたびに、今まで自分一人で抱えていた想いも一緒に呑みこんでいくようだった。やがて鍋の中身が空になると、聖黒さんは安心したようにゆったりと微笑んで言った。
「美月様、会談は明日です。明日までに体の調子を整えて下さい」
 聖黒さんの穏やかな言葉に私は目を見開いて返した。
「明日?」
「ええ、明日です。美月様が布団に籠られている間に、もうそれほどの日が経っているのですよ」
 聖黒さんは私の瞳に驚きの色を見つけて、ゆっくりと言い聞かせるように言った。そして私の手から空になった鍋を受け取ると、じっと様子を窺うように私の顔を覗き込んだ。
「それで、聞いてもよろしいでしょうか」
 その言葉に私は純粋に疑問符を頭に浮かべて、首を傾げて聖黒さんを見つめ返した。
「あの日、森に探索に入って輝石とはぐれた後、一体何があったのですか」
 聖黒さんのまっすぐな瞳に乗せられたその質問に、私はたじろいだ。そしてその視線から逃れるように視線を落とすと、その話題から避けるように口を開いた。
「輝石君は大丈夫ですか?」
 聖黒さんは疑るような視線を私へ向けた後、すぐに私の質問に答える。
「ええ、大丈夫です。あの子は強い子ですから」
 聖黒さんはそこで一旦言葉を区切ると、さらに言葉を続けた。
「輝石をきつく叱りつけると美月様が心を痛められると承知しております。ですから安心して下さい。輝石のことは、ほどほどに叱りました」
 ほどほど、のところに嫌に力を込めながら聖黒さんは笑った。
 確かに、ほどほど、だったかもしれない。でも聖黒さんのことだ。きっと恐ろしい微笑みを顔に貼り付けて、輝石君を叱ったに違いない。その様子が鮮明に頭の中に描き出されて、私は苦笑した。後で輝石君に謝らないと、と思いながら。
「次は美月様の番ですよ。私の質問には答えて下さらないのですか?」
 苦笑を浮かべる私を優しい視線で見つめながら、聖黒さんが口を開く。その言葉に私は無意識に身体の動きを止めた。
 聖黒さんは私のその様子を見て、辛そうな表情を浮かべると、小さな声で私を(なだ)めるように続けた。
「無理に問い質すつもりはありませんが」
 聖黒さんから発せられたその言葉を聞いた私は、胸がきりきりと痛んだ。
 ああ、この台詞は。私が落ち込んでいる時に小梅さんから掛けられた言葉と同じだ。
 そう思い付いて、ぎゅっとその胸の痛みを抑え込む。私はぎゅっと目を瞑ってから、ゆっくりと開いて小梅さんの兄である聖黒さんを見つめた。こういうそっと溢れ出すような優しさを、聖黒さんも小梅さんも自然に持ち合わせているようだった。
 聖黒さんは知っているんだろうか。泉水さんが小梅さんと想っているのと同じように、小梅さんも泉水さんを想っていることを。あの日、闇音は何年も前から二人の関係を知っていたと言っていた。けれど、目の前にいる聖黒さんは二人のことを知っているようには見えなかった。
 泉水さんと小梅さんは、そっとお互いを想い合ってきたはずだ。それは決して誰にも気づかれないように、ほんの少しの好意も表に出さないように細心の注意を払うような悲しい努力と隣り合わせで。二人はあまりに儚い想いを抱き続けて、そして今はそれを諦めようとしている。
「ちょっとした出来事がありました。でも、大丈夫です」
 聖黒さんは私の「大丈夫」という言葉を聞くと、ゆっくりと微笑みを浮かべてくれた。それから聖黒さんは思いついたように真顔に戻って私の顔を見つめると、遠慮がちに口を開いた。
「――蒼士のことですが」
 突然蒼士さんの名前が出たことに、私は若干うろたえて視線を泳がせた。
「その、ちょっとした出来事、の中に蒼士のことも入っているのでしょうか」
 聖黒さんは別段変った様子も見せずに、ただ淡々と穏やかな口調で尋ねた。そして私が口ごもるのを見ると、小さな溜め息を漏らして私から視線を外した。
「……気づかなかったふりを」
 聖黒さんの短いその言葉に驚いて、漂わせていた視線を聖黒さんへ戻す。目に入ったのは、悲しい表情を浮かべた聖黒さんだった。
「気づかなかったふりをしてやって下さい。蒼士はあなたに自分の想いを伝えるつもりはありませんでした。ただあなたの傍にありたいと、そしてあなたの幸せを見届けたいと、ただそれだけを願っていたのです」
 聖黒さんはまるで自分のことのように悲痛な面持ちで続ける。
「あの日、あの森から美月様を連れ帰った蒼士は、いつもと様子が違いました。自分の行動をひどく悔やんでいるような――。それで私たちは気づいたのです。蒼士の意に反して、美月様に彼の想いが伝わってしまったのだと」
「……私たち?」
 聖黒さんの言葉を小さく繰り返す私を見つめて、聖黒さんは悲しい柔らかな視線で私を見つめた。
「輝石も朱兎も私も、蒼士の気持ちに気づいていました」
 またしても気づいていなかったのは自分だけだったのか、と私は自分を責めるようにそう思った。すると聖黒さんが敏感にその思いを捉えて、ゆっくりと首を振った。
「美月様、あなたは今までどおり蒼士に接してくれればよろしいのです。今までどおりに」
 聖黒さんはそう言うと、ほとんど聞き取れないような声でそっと呟いた。
 たとえ蒼士の気持ちをあなたが知ろうとも、蒼士の気持ちが叶うことはないのですから、と。
 その言葉の持つ悲哀に、びくりとして私は優しい聖黒さんを見つめた。すると聖黒さんは一瞬だけ辛そうな表情を浮かべた後、すぐにゆっくりと優しく目を細めて、その話題を断ち切るように言葉を続けた。
「美月様の答えは出たのですか?」
 その言葉が暗に明日の会談のことを指していることを感じ取って、私はゆっくりと頷いて答えた。
「――はい」
 私の口から出たその声は、弱々しいものではない静かな決意を伴っていた。

 

 

back  龍月トップへ  next

 

小説置場へ戻る  トップページへ戻る

 

Copyright © TugumiYUI All Rights Reserved.

inserted by FC2 system