二十九

 

 風の音だけがその場の静寂を打ち破っている。それ以外は、何の音もしなかった。
 暫しの間、小梅さんはその場に立ちすくんだ後、さっと踵を返した。小梅さんが軽く土を踏む音が周囲に響く。
 私は咄嗟に泉水さんへ視線を走らせると、泉水さんの顔に先程よりも増した、悲しみの色を見つけた。
「――小梅」
 泉水さんは小さく小梅さんに声を掛けると、小梅さんの遠ざかって行こうとする背中を見つめた。
 小梅さんは泉水さんの小さな、けれど周りに反響するようなその言葉に身体をびくっとさせて、ただ立ち止まった。
「悪かった」
 泉水さんは眉間にぐっと皺を刻んで、小梅さんの背中を見つめ続けている。
「悪かった……」
 そう繰り返す泉水さんに、小梅さんが振り返らずに声を掛けた。
「何がですか? 私は泉水様に謝って頂くようなことは、何もされていません」
 小梅さんの声はいつもの柔らかさからは想像できない程の硬いものだった。決意を崩さないように、自分を守っているような硬い声。
 このままこの場にいれば立ち聞きしてしまう、と頭の中で警鐘が鳴ったけれど、私の足はその意思に反して動かなかった。まるで足が地に生えてしまったかのように、その機能を停止させているかのように。
「私はお前に甘えていた。お前の優しさに付け入って、お前を苦しめるだけだった。謝っても許してもらえることではないと分かっている。けれど、謝らずにはいられないんだ」
 泉水さんは、今まで見せたことのないような苦しげな表情を、小梅さんの背中に向けている。
「悪かった、小梅」
 泉水さんの言葉を聞いて、小梅さんはぎゅっと手を握ると背中を震わせた。
「申し訳なかったのは、私の方です」
 小梅さんはそう言うと、深く項垂れて、それからさっと泉水さんの方へ振り向いた。
「私が悪かったのです。私が自分の身もわきまえず――」
 小梅さんは泉水さんと同じように、苦悩に染まった顔を泉水さんへ向けている。私は二人のその顔を見て、先程から激しく頭の中を駆け巡っていた一つの言葉が事実なのだと理解した。
「あなたは白月の当主。私は北家の第三子にすぎません。それにあなたは、私の主家の姫君である美月様の夫となられる方です。そんなあなたに、こんな想いを抱いた私がすべて悪かったのです」
 泉水さんの想い人は、小梅さんだ。そして、小梅さんも泉水さんを想っている。こんなにも、深く胸に響くほど。
「どうして、お前だけが悪いんだ? どうして、私は悪くないんだ? もとはと言えば、私がすべて悪かったのに、どうしてお前は私を責めない」
 泉水さんは小梅さんを一心に見つめて言葉を紡ぐ。
「私はお前の心に甘えて、何もせずに、何も切り出さずに、決定を先送りしてきた。お前にどれだけの苦しみを与えているかを知りながらも、私は何もしなかった。お前から別れの手紙が来るまで、私は何も言わなかった。私はただの卑怯な人間だよ。お前にとっても、美月ちゃんにとっても……。どうして私を責めないんだ、小梅。責めてくれたなら、私は……」
 泉水さんはそこまで言うと、それ以上言葉を続けられなくなったのだろう。ぐっと拳を握って俯いた。小梅さんはそんな泉水さんを見つめると、そっと首を振った。
「あなたが別れを切り出せないと知っていながら、私も何も言わずにいました。あなたの優しさに私も甘えていたのです」
 小梅さんはそう言うと、ゆっくりと目を瞑って続けた。
「私も卑怯者です。あなたが何も言わずにいて下さるのを利用して、少しでも長くあなたといたいと願いました」
 その言葉を聞いた泉水さんは、急いで顔を上げて強く首を振った。
「違う。小梅は何も悪くない」
「いいえ、違いません。私は卑怯なのです。――ずっと思っていました。あなたと美月様の仲を裂いてしまおうかと」
 小梅さんはその美しい顔を歪めて、けれど清らかに言葉を続ける。
「あなたをお慕いするようになってから、そう思わない日はありませんでした。家のことも、二百年前に交わされた約束も、私には関係ないと。あなたを失いたくなくて、何度も何度も考えました」
 小梅さんはさらに強く自分の手を握ると、泉水さんから視線を外さずに言った。泉水さんは小梅さんのその言葉を聞いて、言葉を失ったように小梅さんを見つめていた。
「けれど、美月様にお会いして、私はそんなことを考えていた自分が恥ずかしくなったのです。なんて醜いのだろう、なんという恥知らずだろう、と」
 小梅さんは泉水さんに語りかけるように続けた。
「泉水様もお気づきでしょう。美月様の優しい心を。人を惹きつける美しさを。そんな美月様を前にして、私はこれ以上どんな醜い心を晒せばよかったのでしょう」
 小梅さんがそう言い終えると、泉水さんと小梅さんの間に静かな沈黙が下りてきた。
 その沈黙は、ただ立ち尽くしているだけの私を襲った。耳が刺すように痛い。小梅さんの優しい言葉が辛い。
 私は優しくない。だって、泉水さんには好きな人がいるっていうことに気づきながら、それから目を背けようとした。
 私は人を惹きつける美しさなんて持ってない。それを持っているのは小梅さんだ。
 早くこの場所から離れないといけない。けれど、そう思う心に反して、足は未だに動いてくれない。
 視界や感覚や、そういうものは段々と失われていくのに、耳だけは機能を停止してくれない。二人のやり取りを聞いてはいけないと思うのに、どんどん二人の声が鮮明になって、聞きたくないと思う程に言葉が耳に飛び込んできて、頭の中で大きく反響する。
 耳を塞ごうにも手が動かない。私はその場に立ち尽くす以外、何もできなかった。
 それから私は湖の前に立つ二人の姿へ目を向けた。小梅さんは溢れ出さんばかりの涙を目に溜めて、直と泉水さんを見つめている。泉水さんもその視線を受け止めて小梅さんを見つめると、沈黙を破って静かに口を開いた。
「知っているよ。美月ちゃんの優しい心を。美しさを」
 泉水さんは優しくそう言うと、すぐに表情を変えて辛そうに目を瞑った。
「あの子を好きだよ。けれど、違うんだ。あの子が好きだけど、これは違う」
 苦しげに言葉を紡ぐ泉水さんを、小梅さんは呆然と見つめている。小梅さんの力を入れていた両手が、不意に力が抜けてだらんと体の横に落ちた。
「小梅を愛しているように、あの子を愛しているわけじゃない。小梅を想うように、あの子を想っているわけじゃない」
 泉水さんはそこでやっと目を開くと、愛しさだけを映した瞳を小梅さんに注いだ。
「私が生涯で愛するのは、小梅だけだ。お前以外の人を、私は愛せないだろう」

 

 

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