二十八

 

「輝石君?」
 遠慮がちに周囲を見渡して、そっと声を掛けてみる。それから諦めるように息を吐くと、大きな声でもう一度名前を呼んだ。
「輝石君!」
 不安な心がそのまま反映したような私のその声に答えるのは、風に揺れる葉擦れの音だけだった。
 どうやら輝石君と完璧にはぐれてしまったらしい。
 あの後、森に入った輝石君と私は、輝石君だけが知る湖への最短ルートを小走りで進んでいた。蒼士さんたちはそれに付いて来れず、周りには誰もいなくなった。
 輝石君は終始私を気遣ってくれていたけれど、私の気が緩んだ一瞬のうちに、輝石君は、
「はぐれないように気をつけてくださいね」
 と言い残して私の傍から消えていた。
 そんなことが普通、あり得るだろうか。自分の気の緩みにも、方向音痴の加減にも、嫌気が差しそうだった。さらに、こういう場合は動かずにじっとしているのが一番だと気づいたのは、優に十分以上うろうろと森の中をさ迷ってからだった。
 この状況を招いたのは自分だという現実を突きつけられて、私は力なく溜め息をついた。そして、疲れた手足を休ませるべく手近な切株に座って空を見上げた。森の中といっても、昼間ということもあって太陽の光が木々の葉の間から一本の光の線となって差し込んでいる。それに安堵してもう一度息を吐くと、周りで誰かの気配がしないかと気を張り詰めさせた。
 私がこうしていなくなってしまったことで、どれほど輝石君を心配させているだろう。その上、このことが蒼士さんと聖黒さん、朱兎さんに知れたら、輝石君がどれほどの叱責を受けるのかは火を見るよりも明らかだ。このままこの場を動かずにいた方がいいということは分かっていても、輝石君を思うと私の手足は動きだそうともがいていた。
 私は目を瞑って溜め息を吐くと、もう一度周囲を見渡した。誰の気配もしない。どうしようか、と再び考えだした時、不意に後ろの方で水の音がした。
 微かに、水の音がする。ぴちゃん、と小さく、けれど確かに水の音が耳に入ってくる。それから聞こえるのは、水が風によってさざめく音。それは感覚的なものだったけれど、確かに音がするように感じられた。
 私は咄嗟に立ち上がると、水の音がする方へ歩き出していた。もしかすると、目的地の湖が近いのかもしれない。そう思うと、私の足は速さを増して、ついにはできうる限り走り出していた。
 ほとんど無意識に木々や枝を払いのけて、ずんずんと前へ進む。そして不意に駆け抜けた風に乗って、水の香りが私の元へ届いた。湖は近い、という確信を抱いて、その香りに元気づけられるように、さらに道なき道を前へ進み続ける。がさがさと木の葉を押し退けるようにして前を確認すると、目の前に開けた場所が広がっているのが見えた。
 湖だ。
 日の光を浴びて、水面が静かにきらきらと輝いている。時折吹き抜ける風に、大きな波紋を作りながら、湖はそこにゆったりとあった。
 木々の中から、目の前に見える湖をほっとしながら見つめてから、足を踏み出そうとしたその時、不意に人の気配がした。もしかして四神家の誰かがもう着いているんだろうか、とぼんやりと思って気配のする方へ顔を向けると、そこにいたのは蒼士さんでも、輝石君でも、聖黒さんでも、朱兎さんでもなかった。
 その人は、きらきらと光る水面をじっと見つめていた。湖の青が反射して、彼の美しい銀髪を青く染めている。
「泉水さん」
 私は安心して小さく呟くと、泉水さんの元へ向かおうと再度足を踏み出した。
 すると泉水さんは、土を踏む軽い足音を聞きつけて、くるりと身体を反転させると、湖に近づいてくる人を見つめた。けれど――その視線の先にいるのは私ではなかった。
 泉水さんは私がいる場所とは違う方向を向いて、やってくるその人を見つめている。私がいる場所からはその人は見えない。泉水さんの悲しげな、けれど美しい横顔が見えるだけだった。
 さくさくと土を踏む音が聞こえて、不意にその音が途切れる。そして、やってきたその人は小さくあっと声を上げた後、その場に立ち止まったようだった。
「……やあ」
 躊躇うように泉水さんは声を掛けた。泉水さんが向ける視線には、悲しみと愛しさが()い交ぜになった感情が乗せられている。
 それを見て、私は咄嗟に泉水さんに気づかれないように、音を立てずにもう一度森の中へ身を潜ませた。そしてやってきたその人を見て、私は呆然と彼女の顔を見つめた。
「……いらしていたとは、知りませんでしたわ」
 泉水さんの視線が向かうその先に立つその人は、驚いたように小さな声を出した。
 それは鈴の音のように美しく優しい、小梅さんの声だった。

 

 

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