三十

 

 冷たさを纏った風が吹き抜ける。日は陰り、森の中には静かな闇が落ちてきていた。
 私はその中で動けないまま、呆然と木々の間から見える、泉水さんと小梅さんが去った後の静かな湖を見つめていた。
 私がいることで、泉水さんと小梅さんの邪魔をしてきた。私が二人の仲を裂いていた。その事実は森に溶け込む深い闇のようで、そこへ私を手招いているような気がした。
 はっきりと言われた、愛しているわけじゃないという言葉に、初めて聞く小梅さんの葛藤に、胸が押し潰されそうだった。
 そこではっと気づく。私はどれほど小梅さんを傷つけてきたのだろう、と。
 私が泉水さんの話をする時、いつも穏やかな笑顔を浮かべて聞いていてくれた。私が落ち込んでいる時は、優しく心配してくれた。そんな小梅さんの優しさに甘えて、その裏に秘められた葛藤に一切気づきもせず、気づこうともせず、彼女を傷つけていただけだった。
 友達だと思っていると言ってくれた小梅さんは、どれほど辛かっただろう。自分の愛する人と結婚するかもしれないその人に優しさを向けることは、どれほどの重荷となって彼女を襲っていただろう。
 冷たい風に乗って、後悔の波が私を襲った。
 小梅さんのことを考えていると、泉水さんへの想いが湧きあがった。泉水さんのことがこれほど好きだったなんて、と自分で少し驚きながらぼんやりと思う。泉水さんの想い人が小梅さんだと知ってなお、私はどこかに希望がないかと探している。
 そして、探し始めて改めて思い知らされる。希望なんてない。少なくとも、私に残された希望は。
「――盗み聞きとは悪趣味だな」
 ぼんやりとしていた私の耳に、冷たい声が下りてくる。咄嗟に振り返ろうとすると、その声の持ち主はそれを拒むように、私の隣にそびえ立つ木にだんっと強く手をついた。
「つい先程、泉水と小梅が別々にこの湖から帰って行くのを見かけた。そしてお前のその様子を見ると……」
 声だけでも分かる。相手を突き放すような冷酷さを纏った、美しい声の持ち主が誰なのか。
「あなたが言ってたのは、このことだったのね」
 私は力なくそう呟いた。あの日、冷たい瞳を私へ向けて断言したあの言葉の意味を、今ようやく私は理解していた。
「あなたは知ってたのね。泉水さんと小梅さんが……」
 それ以上はどうしても言えなくて私が言葉を切ると、彼――闇音が私の代わりに続けた。
「泉水と小梅がお互いを想い合っているということか?」
 他人からそう言い放たれて、ぎゅっと胸が締め付けられた。けれど私はそれを無視してゆっくりと頷いた。
「知っていた。もう何年も前から」
 闇音はゆっくりそう告げると、私の反応が見たいのだろうか、私の肩を持つと、くるりと簡単に自分の方へ私の体を向かせた。
「それで? お前はどうする」
 私の反応を見逃すまいと彼はじっと私に視線を据えて、片方だけ唇を引き上げて笑った。
 それを見て、私は闇音を呆然と見つめた。この人は、一体私を何だと思っているのだろう。私には心がないとでも思っているんだろうか。
「……まあ、聞かなくても答えは分かる」
 私が何も答えないのを不快に思ってか、闇音は笑みを消して私をじっと見つめた。私はその様子に震える口を無理やり開いて言葉を発した。
「なんなの」
 きっときつく闇音を睨んで続ける。
「一体、あなたは私を何だと思ってるの? 私の何を知って、そんな口を利くの?」
 涙が込み上げそうになっても、私はそれを自分に許さずに、きつく闇音を睨み続けた。この人の前で涙は見せたくない。
「私のことなんて、なんとも思ってない癖に。私にこれ以上構わないで!」
 語気を荒げて私がそう言い終えても、闇音はそれをなんとも思わないように表情を消して言った。
「それは無理な相談だ。前にも言っただろう。お前は家の繁栄のために必要だ。だから俺はお前を嫁にもらおうというのに」
「口を開けば、繁栄繁栄って、そんなに繁栄が重要なことなの!?」
 私が乱暴にそう言うと、闇音はかっと目を見開いた。それに驚いた私が思わず闇音を見つめていると、彼はそのまま鋭い視線で私を捉えた。それは今まで私に送っていた冷たい視線とは違う、もっと深い闇から出でる、足をすくわれたら決して抜け出せないような絶望的な悲しみを伴っていた。
「お前には関係ない」
 感情が揺れているとは思えない程、冷めた声で闇音は言った。その悲しみを自分自身で覆って閉じ込めるような、刺すような氷の冷たさだった。
「お前が泉水を選べなくなったことは分かった。今日はそれで十分だ」
 先程までの感情の揺らぎを見事に消し去って、いつもどおりの冷たい視線を私に送ると、闇音はそう言った。私は闇音に何もかもお見通しだと言われた気がして、抵抗するように口を開いた。
「そんなの、分からないじゃない。私は、泉水さんの気持ちも無視して、小梅さんのことにも気づかないふりを続けて、泉水さんを選ぶかもしれないでしょう」
 私がそう言うと、闇音は立ち去ろうとしていた体をもう一度私の方へ向けて、探るように私の瞳を覗き込んだ。そして、私が必死にもがいているのを感じ取ってか、闇音は冷笑を浮かべた。
「俺が一体何のために、真咲が――臣下三大が――お前の元に毎日足しげく通うのを黙認してきたと思う」
 闇音はその冷笑を私にまっすぐに向けて続ける。
「真咲は毎日、お前の所から帰ってきては俺にお前の性格を伝えてきた。それはお前を探るのにちょうどよかったからな。あいつらを好きに動かせていた」
 闇音は何の感情も動かないかのように淡々と言葉を紡ぐ。
 そう言えば最初は、真咲さんたちが私の元へ足を運ぶことを彼はよく思っていなかった。それは誰の目から見ても明らかなほどに。今思えば、真咲さんたちが私の元へ通ってくれるのを闇音がなぜ叱責しなかったのか、疑問に思わない方がおかしなことだった。
 それはこんな単純な理由からだったのか、と思いながら、私は呆然とその言葉に聞き入る以外の行動はとれなかった。
「あいつが言うには、お前は優しくて人の痛みが分かる人間なんだろう? その上、好きな人間に対しては、そいつの幸せを願うような人間だ」
 闇音はそう言うと、ばかばかしいと言うように息を吐いた。
「お前にとって、泉水と小梅は大切な人間だろう。なら、お前は二人を思って、絶対に泉水を選べない」
 闇音はそう断言すると、私をつまらなさそうに見下ろした。
「俺としては、こう簡単に事が運ぶのは楽しくなかったがな。もっとお前が性根の曲がった人間なら、この二ヶ月間もさぞ楽しかっただろうに」
 闇音のその言葉を聞いて、私は愕然と彼を見上げた。
 物事はすべて闇音の計算どおりに動いたのだろう。彼は私の性格を知って、そしてわざと核心に触れることは何も話さなかったのだ。私がいつか何らかの形で泉水さんと小梅さんの関係を知り、自ら身を引いて闇音を選ぶようにさせるために。
 この人は、本当に私のことを繁栄のための単なる道具にしか見ていない。なんて人なんだろうという思いが込み上げてきて、寒気がした。
 私は咄嗟に闇音から視線を外すと、震えそうな手をきつく握りしめた。けれど闇音はそれを気にも留めず、私の頬に触れて私の顔を闇音の方へぐいっと向けると、無理やりに私の視線を自分の瞳へ戻させた。そして、顔を近づけて小さく囁いた。
「そんなだと、お前はいいように人に利用されるだけだ――今みたいにな」
 私がじっと闇音を見つめたまま動けずにいると、真横でどんっという木を叩く大きな音がした。驚いた私は、闇音から目を離して瞬時にそちらに目を向けた。そこには大きな手が木を打ち付けているのが見えて、その手に打ち付けられた木はいびつにへこんでいる。私はその手に見覚えがあって、ゆっくりとその人の顔を見上げた。
「美月様に、何かご用でしょうか」
 いつになく硬い、警告を含んだ声を出して、その人――蒼士さんは闇音を鋭く睨みつけている。
 闇音はゆっくりと木に打ち付けられた手から腕を伝って、蒼士さんへ視線を移動させると、蒼士さんをぎろりと睨み返した。
「青龍か」
「申し訳ありませんが、美月様はもう斎野宮へ帰らねばなりません。何かご用があるならそちらへ」
 蒼士さんは闇音から私を奪い返すようにして私の腕を強く引っ張ると、自分の後ろへ私を回した。闇音はその一連の流れるような動作を驚きの眼差しで見つめてから、ふっといつもの冷笑を浮かべた。
「――身分違い」
 闇音は低く冷たく、ゆっくりとそう言った。
「身分違いだと、言われたことはないのか?」
 闇音はその暗い色の瞳で、蒼士さんとその後ろに隠れるように立っている私を捕らえるように見つめる。
 蒼士さんはその言葉に身体を硬くさせると、すぐにぐっと拳を強く握った。私は一体何の話をしているのか付いていけなくなって、目の前で繰り広げられている会話を必死で処理しようとしていた。
「お前は美月にとって、ただの臣下にすぎない」
 闇音は蒼士さんにそう言うと、ちらりと私を見て、すぐに蒼士さんに視線を戻した。
「お前がいくら望んでも、美月はお前のものにはならない。その自分の立場をわきまえることだな。……もっとも、美月は何も気づいていなかったようだが」
 闇音は面白いことでもあったかのように、その顔に笑みを浮かべさた後、すぐにいつもの無気力な顔に戻って、周りの暗闇をすべて引き連れるようにざっと踵を返した。そして闇音はゆっくりと冷たい空気をその身体に貼り付かせて、森の闇へと消えていった。

 

 闇音が立ち去った後、蒼士さんと私は二人取り残されたように、闇音が消えていった場所を見つめていた。今は、先程の冷たい闇が嘘のように、森には夕暮れの明るい柔らかな光が差しこんでいる。
 私は闇音が残した言葉を考えていた。
 身分違い。蒼士さんは臣下にすぎない。そして、私は蒼士さんのものにはならない――。
「蒼士さん」
 私が小さく蒼士さんの背中に声を掛けると、蒼士さんはびくっとしたまま動かなかった。
「蒼士さん、私……」
 私が考えていることが正しいなら、蒼士さんは私をずっと想っていてくれたのだろうか? もしもそうなら――。
「蒼士さん、ごめんなさ――」
「言うな」
 蒼士さんは私の言葉を遮って、背を向けたまま短くそう言った。
「言わないでくれ」
 その短い言葉には、心を引き裂かれそうな辛い響きがこもっていて、私はそれ以上何も言えずにぎゅっと口をつぐんだ。
 気づかなかった。蒼士さんが私を思っているのは、それは妹へ向ける兄のような気持ちだと、今までずっと信じて疑わなかった。
 私は泉水さんや小梅さんだけじゃなく、蒼士さんまで傷つけてきていたのだろうか。蒼士さんは、今まで一体どんな気持ちで私の傍にいてくれたのだろう。そう思うと、何も言えなくなった。
「美月、君に俺の気持ちを知ってもらうつもりなんてなかった」
 蒼士さんは背を向けたまま、言った。馴染みある、懐かしい口調で。けれどその声は、どこか震えているように感じられた。
「君が幸せなら、俺はそれ以上何も望まない。だから……」
 蒼士さんはそこで言葉を切ると、拳を握って俯いた。
「だから、幸せになって欲しい」
 蒼士さんの切なく胸を焦がすその言葉に、私は何も返せなかった。
 泉水さんを選べない。泉水さんに幸せになってもらいたいから。その気持ちは、蒼士さんが私に向けてくれているものと同じで、このことを今、蒼士さんに伝えるのはあまりにも酷な気がした。
 そして、さっきまでここにいた冷たい人を思い出す。
 私は蒼士さんが望むように幸せになれるだろうか。

 

 

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