二十七

 

 すたすたと早足で、私の手を取って雪留君が歩く。私はそれに付いていくのに、必死に歩き続けていた。いくら見た目が女の子のように可愛らしいと言っても、雪留君は歴とした男の子なのだと、雪留君には悪いけれど、この時に初めてしみじみと実感した。
「あ、の……雪留君」
 私は息を切らしながら雪留君に話しかけた。長い距離を早足で歩いていたために、少し運動不足になりはじめた身体が悲鳴を上げている。
「ちょっと、ゆっくり、歩いて、欲しいんだけど」
 なんとかそう言い終えると、雪留君は突然ぴたっと止まった。あまりにも急に立ち止まるので、雪留君の背中にぶつかりそうになりながら、私も慌てて止まった。
「ど、どうしたの?」
 相変わらず整わない呼吸でそう言うと、雪留君はくるりと振り返って、じっと私を見つめた。
「泉水様と、何かあったんですか?」
 雪留君は、まるで私の瞳から答えを得るかのように、その視線を逸らさない。私は無意識にその視線から避けるように、さっと横を向いた。それでも雪留君はそれを許さずに、すぐに私の顔を覗き込んだ。
「何があったんですか?」
 雪留君は決して見逃さないだろう。そう感じて、私は息をゆっくり吐くと雪留君の視線を受け止めた。
「ちょっとね」
 私はなんとかそう絞り出すけれど、雪留君はそれでは満足しないとでも言うように、なおも私から目を離さなかった。
「ちょっとって、何ですか?」
 雪留君の止まることのないその疑問に、私は少し苦笑を浮かべて答えた。
「安心して。……私が前に言ったこと、忘れてないでしょ? 泉水さんには不幸になってもらいたくないって言ったこと。私は……」
 私はそこで言葉を切ると、小さく深呼吸して真剣な表情で続けた。
「私は、泉水さんに幸せになってもらいたいって思ってるから」
 口から出た言葉は、嘘じゃない。泉水さんが好き、だから幸せになってもらいたい。泉水さんには好きな人がいるということから目を逸らしたいと思うのと同じぐらい、泉水さんに幸せになってもらいたいとも思っている。
 私のその心からの言葉を、雪留君は受け止めて理解してくれたらしい。私を寂しげに見つめると、繋いでいた私の手をぎゅっと優しく握って、それ以上は何も聞かないでいてくれた。

 

 

「姫さま、今日はどうします?」
 輝石君が暇を持て余して、縁側に座りながら足をぶらぶらさせている。
「どうって?」
 私もその隣に座りながら、同じように足をぶらぶらさせて聞き返した。
「このまま縁側に座り続けるのは辛いです」
 輝石君はそう言うと、軽やかに縁側から飛び降りて、綺麗に手入れがされた庭に向かって走り出した。
「そうですね……。今日はどなたもいらっしゃらないので、散歩にでも行きましょうか?」
 聖黒さんが走り回る輝石君に優しい視線を送りながら、言った。
「最近は賑やかでしたからね。泉水様に白月と黒月の臣下三大が毎日のようにいらしていましたし」
 朱兎さんが輝石君を見つめながらそう言うと、蒼士さんも頷いて、
「特に輝石にとっては、雪留がいたからな。雪留も準備に忙しくなって顔を出せないとなると、輝石は張り合いがないんだろう」
 と穏やかな笑顔を浮かべて言った。
 会談まで一週間を切って、泉水さんも両家の臣下三大もその準備に追われていて、ここ数日は顔を合わせていない。泉水さんと最後に会ったのは、泉水さんが何か大切なことを言おうとしていたあの日で、闇音に至っては斎野宮の居間で会ったのが最後だった。
 私は元気よく走り回る輝石君を見つめて、少し笑って呼びかけた。
「輝石君! 今日はどこに行きたい?」
 私の呼びかけに、輝石君は走っていた身体をぴたっと止めて、輝く笑顔で振り向くと、こう言った。
「小野原に」

 

「なんか私たちって、散歩の場所の選択肢が少ないよね。今更だけど」
 小野原へ到着して、みんながそれぞれ一息ついたところで、私が唇を尖らせて言った。
「そうですか? 小野原はよい所ですよ」
 小野原大好きな朱兎さんは、驚いたようにそう言った。私はその様子にさらに唇を尖らせて、不満げな表情を浮かべる。
「そういうことじゃなくて。確かに小野原は綺麗だし、気分転換には持って来いですけど、いつも小野原ばっかりじゃ飽きませんか?」
 小野原の綺麗さと清らかさを考えれば、これは贅沢な悩みなのかもしれなかったけれど、私はいつも小野原に出かけるんじゃなくて、もっと違う場所にも足を運んでみたかったのだ。
 街中に遊びに行ってみたい、とこの世界に来て間もなくの頃に提案した時は、にべもなく却下され、その辺をぶらぶら散歩してみたいと言った時も、危ないからとやんわりと却下されていた。
「うーん。姫さまの気持ちも分からないでもない……」
 輝石君がそう小さく呟いたので、私はそれに力をもらって大きく頷いた。
「そうです! 私たち、まだまだ探検したい盛りなんです!」
 私はそう言うと、勝手に輝石君を仲間に引き込んで主張する。そんなどうしようもなく子供っぽい私を見つめて、蒼士さんは小さな笑いを零している。
「それはそれは。大変な時期ですね」
 聖黒さんはやれやれという表情を浮かべてからそう言うと、重い腰を上げた。
「美月様がそこまで仰るのなら、探検に行きましょう」
 聖黒さんはにっこり笑ってそう言うと、私の手を取って立ち上がらせた。
 思いもかけず聖黒さんから許しの言葉を受け取った私は、呆然と聖黒さんを見つめた。
「いいんですか?」
 今言われた聖黒さんの言葉を少しずつ理解しだして、見る見る笑顔を形作っていきながらそう返す。
「はい。ただし、条件があります」
 にっこりと優しい笑顔を崩さずに、聖黒さんは言った。
「条件、ですか?」
 その言葉に不信感を抱きながら、私は聖黒さんを見つめる。
「はい、条件です。街へは行けません」
 聖黒さんは笑顔の裏に策士の顔を隠して、指を一本立てて私の目の前に見せながら言い始めた。
「なぜなら、それは令様と奥方様に禁止されているからです。なるべく危険が及ばないようにと」
 聖黒さんは幼い子供に言い聞かせるように、ゆっくりとそう続けた。私はその言葉を聞いて、もう一度唇を尖らせる。
「街中がそんなに危険だなんて思えませんけど」
「万が一のためです。何かあっては困りますから」
 聖黒さんは優しく私をそう説き伏せると、思い出したように付け加えた。
「街中に行かれたいのでしたら、ご結婚された後に足を運ばれては如何でしょう。泉水様でも、闇音様でも、それを許して下さるでしょう」
「そうなの?」
 私がその言葉に希望を見出して急いでそう訊ねると、聖黒さんは頷きながら優しい笑顔を向けてくれた。
「はい、きっと。令様と奥方様は少し過保護になっておいでで、そのために街中へ行かれるのを禁止されているだけでしょうから」
 そっか、と小さく呟いて、両親のことを考えた。
 過保護になるのも無理はないかもしれない。十六年間という年月は、二人にとってあまりにも長かっただろう。父が言っていたように、私は「十六年ぶりに手元に戻ってきた娘」なのだから。そう考えると、街へ行けないだとか、気軽に散歩もできないだとか、そういうことを理不尽に感じていた自分が恥ずかしくなった。
「この小野原はあまり人がいませんし、第一神聖な場所ですから、危険は及ばないのです」
 聖黒さんがさらにそう付け足すのを聞いて、私はいささか驚いて顔を上げた。
「神聖な場所?」
「そうです。ここは都の中で白月・黒月・斎野宮三家の中央に当たる場所です。ですから、三家の力が融合され最も力の純度が高い場所となっているのです。――以前に言っていませんでしたか?」
 聖黒さんが首を傾げて私の視線に合わせるので、私はそんな話初めて聞いた、と思いながら無言で首を振った。
「そうでしたか。では、今言いました」
 穏やかに聖黒さんはそう言った。適当だなぁ、と少し呆れながら聖黒さんを見上げると、聖黒さんは私の思いを感じ取ってか、にっこりと笑った。私は慌てて聖黒さんから目を離すけれど、聖黒さんはまったく気にしない様子で、小野原に初めて来た日に蒼士さんと輝石君と私が一緒に散歩した小さな森林の方を手で示した。
「あの森林は、まだちゃんと見て回っていませんでしたよね? 探検したい盛りの美月様には不足かもしれませんが、今日のところはあれで我慢して頂きましょう」
 聖黒さんは「探検したい盛り」の部分を微妙に強調しながらもいつもどおり優しくそう言うと、座ったままの三人を目で促した。
「よしっ! 姫さま、行きましょう!」
 輝石君は勢いよく立ち上がると、腕まくりをする素振りを見せてから私の手を取ると、どんどん歩き出した。
「それでは参りましょうか。今日は地面に気をつけて転ばれませんように」
 素早く私の隣に並んで、輝石君と私の手を引き剥がすと、蒼士さんがにっこりと笑って言った。
 私は、前回来た時に派手に転んだことを思い出して、顔を赤くした。
「……それは、言わないで。闇に葬り去りたい記憶なの……」
 私が恥ずかしさに両手で顔を覆う仕草をすると、蒼士さんと輝石君がぷっと吹き出した。
「笑わないでよー!」
 私が不満げにそう声を上げると、二人はさらに笑い声を上げた。急いで追い付いた聖黒さんと朱兎さんも、私たちのやり取りを見て小さく笑っている。
「姫君、転ぶなんてことはよくあることですよ。僕も小さな頃は、よく転んで傷だらけでした」
 朱兎さんが笑いながらも私を慰めるようにそう言う。けれど私はじっと朱兎さんを見つめて返した。
「でもそれは、小さな頃、の話ですよね」
 私の的確な指摘に朱兎さんは小さくうっと声を上げると、笑ってごまかした。
 そんな朱兎さんを横目に、今度は聖黒さんが私の耳元でそっと囁いた。
「美月様、気になさることはありません。輝石は今でもしょっちゅう転がってますよ。それに輝石は美月様より一つ年上です」
「男の子と比べられても……」
 私は聖黒さんをちょっと困って見つめると、聖黒さんが冗談を言っていると気づいてふっと笑った。私の様子に聖黒さんは満足したように頷くと、輝石君と私の間に割って入ってゆったりと歩き出した。
「ちょ、聖黒。わざわざ割り込まなくてもいいだろ。それにさっき何て言ったんだ?」
 直感で自分の話題を持ち出されたと気づいた輝石君が、怪訝そうに聖黒さんを見つめる。けれど聖黒さんは気にも留めずに、私に話しかけた。
「美月様、この森林の奥には湖があるんですよ。その美しさは格別です。そこへ参りましょうか?」
 無視かよ! と輝石君が小さく喚くのもさらに無視して、聖黒さんはにっこりと微笑んだ。
「じゃあそこへ行きましょう。ね?」
 聖黒さんに無視されてぶつくさ文句を言っている輝石君に向かってそう言うと、輝石君はぱっと顔を輝かせて頷いた。
「じゃあ、湖目指して頑張りましょう」
 朱兎さんがそう言うと、蒼士さんも穏やかに笑った。
「よし、姫さま! ここから二人で駈け出して、何としても湖まで一番乗りしましょう。というか、聖黒よりも早く到着しましょう! なんなら、聖黒を森の中で迷わせてしまいましょう!」
 ぐっと決意を拳に込めて、輝石君が周りには聞こえないように小声で囁いた。
 私はその言葉に笑って頷いたけれど、聖黒さんはほんのりと腹黒さをその笑顔に映して、輝石君を見つめた。
「聞こえたのか……?」
 輝石君が頬を引き攣らせてそう呟くと、私の手を取って一目散に森林へ向かって走り出した。蒼士さんが輝石君の名を呼ぶ声と、聖黒さんと朱兎さんの笑い声が、輝石君と私の後を追った。

 

 

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