二十六

 

 私は努めて泉水さんの想い人のことを考えないようにして、会談までの日々をやり過ごそうと決めた。もしも泉水さんがそのことを打ち明けてくれれば、もちろんそれを受け入れる心構えはできていたけれど、何も話さずにいるのなら――自分でも卑怯だとは思ったけれど――それから目を逸らしたいと思っていた。そんな醜い自分の心にも目を逸らしながら。
「――美月ちゃん?」
 泉水さんがひょっこりと私の顔を覗き込んで、私を呼ぶ。
 私は驚いて、咄嗟に今自分が考えていたことを覆い隠すように笑顔を作った。
「どうかしました?」
 泉水さんは私の様子を不審そうに眺めながら、
「それは私が聞きたいことなんだけどね」
 と言った。
「ぼーっとしてただろう? 私が今言ったこと、五十文字以内で復唱してごらん」
 泉水さんは意地悪そうにそう言うと、自分で自分の言ったことに笑いながら私を優しく見つめた。
「えっと……夏は嫌い?」
 私が困って当てずっぽうでそう言うと、泉水さんは驚いて目を丸くした。
「……どうして」
「え?」
「どうして分かったの? 絶対に私の言葉は耳に入ってなかったはずなのに」
 そう言うと泉水さんは、怪訝そうに私を見つめた。もしかして心が読めるのか、というように疑っている様子だ。私はその視線を受け止めながら、ちょっと笑って言った。今度は作りものじゃない笑顔で。
「泉水さんと一緒にいれば、大抵言いそうなことは分かりますよ」
 当てずっぽうで言ったことも忘れて、私は小さく胸を張って言った。
 泉水さんはそんな私の様子を見て柔らかく微笑むと、さすが、と褒め称えるように言った。
 今日の泉水さんは、いつもと雰囲気が違う。一見すれば、いつもどおりの柔らかい雰囲気を纏っていて、楽しい話題を提供してくれているようだったけれど、その奥底には何かを、言葉にして私に伝えないといけない何かを秘めているようだった。私は今日、泉水さんを一目見てそれを直感で感じ取って、その話題に話が進まないように、小さな努力を重ねていた。泉水さんにとっても、私にとっても悲しい努力だった。
 泉水さんは私を優しく見つめてから空を仰ぎ見て、まるでそこから力をもらうように大きく深呼吸した。そして厳しい表情を浮かべると――私の悲しい努力も功を奏さず――意を決したように私を見つめた。
 私は泉水さんの様子を見て取って、無意識にぎゅっと強く自分を守るように体を抱いた。
「美月ちゃん」
 泉水さんは私の名前を呼ぶと、悲しげな表情を浮かべる。そして数歩、歩み出して私に近づくと、壊れ物を扱うかのようにそっと私の髪を触った。
 どうやら、髪を触るのは泉水さんの癖らしい。私は泉水さんに触れられている髪の感触を覚えようと、目をゆっくりと瞑った。ああ、髪にも神経が通っていればよかったのに、と人並な感想を抱きながら。
「美月ちゃん。前に私が話したこと、覚えてる? 私が今、何をすべきか分からないって言ったこと」
 泉水さんは優しく、そして寂しげに、私の心に話しかけるようにそう言った。
 私はこのまま泉水さんの言葉が聞こえなかったふりをしたいという自分の気持ちを振り切って、小さく頷いた。
「私はあれから考えたんだ。こんな気持ちでは、きっと誰も幸せにできないだろうと」
 泉水さんはそこまで言うと、私の髪から手を離した。
 私は泉水さんの感触が消えたのを知って、ゆっくりと目を開くと、泉水さんを見つめた。泉水さんは私から数歩離れたところにまで後ずさって、私と距離を取っている。それが泉水さんと私の心の距離を表しているようで、私はそこから目を逸らしたい衝動に駆られた。
「私は今まで、自分のすべきことからすべて逃げて、そして君と向き合うふりをして、そうしてこなかった」
 そう言うと、泉水さんは今まで私の髪に触れていた手を見つめると、ぎゅっと力強く拳を握った。
「こんなにも自分がどうしようもない人間だとは思わなかった」
 振り絞るような悲痛な声に、私もぎゅっと拳を握って、そして聞き取れるかどうか分からないような微かな声で言葉を発した。
「好きな人が、いるんですか?」
 泉水さんはその言葉に驚いたように、目を見開いた。そしてぎゅっと強く目を瞑ってから、意を決したように目を開いて私を強く見つめると、口を開いた。
「あっ。泉水様!」
 けれど泉水さんの言葉は、不意に駆けてきた博永さんによって掻き消された。博永さんの後ろには、雪留君が一生懸命走って付いてきている。
 泉水さんと私は、同時に身体を硬くさせると、走り寄ってくる博永さんと雪留君をまじまじと見つめた。泉水さんは苦悩の表情を浮かべている。
「譲が泉水様を呼んでいて、急な要件だそうです。……もしかしてお邪魔でしたか」
 博永さんは急いで要件を伝えると、泉水さんと私の顔を見比べて慌てて付け加えた。
 泉水さんはさっと苦悩の表情を消すと、柔らかい視線を博永さんへ向けて首を振った。
「いいや」
 泉水さんの言葉を聞いて博永さんはほっとしたように、もう一度泉水さんと私を見比べた。私も心の中で小さく、博永さんの登場と泉水さんの言葉にほっとして、溜めていた息を吐いた。
 けれど、安心したような博永さんとは違って、雪留君は泉水さんと私の異様な雰囲気を感じ取って、訝しげに眉をひそめた。
「それで、急な要件って?」
「それはお屋敷への道々、ご説明致します。ですから姫君は、雪留が斎野宮までお送り致します」
 博永さんが最初は泉水さんへ、そして後の文は私に向かってそう言うと、雪留君が私の傍まで歩いてきて私を心配そうに見つめた。
「じゃあ、博永。泉水様のことは頼んだよ。姫、参りましょう」
 雪留君は博永さんにそう言うと、泉水さんに軽く一礼して、私を促すように手を取ってすたすたと歩き出した。私はそれに付いて行くしかなくて、慌てながら歩き出した。
「雪留、頼んだよ」
 後ろから優しい泉水さんの声が追いかけてくる。私はその声にぎゅっと手を握って胸に当てた。振り返る余裕は残っていなかった。

 

 

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