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 泉水は月明かりの中、少しだけ開かれた書簡をぼんやりと見つめた。数日前に譲から届けられたその書簡を、今までどうしても開くことができなかった。
 書簡と一緒に届けられた一輪の都忘(みやこわす)れは、少ししぼみかけていた。
「泉水様」
 すっと音もなく襖が開かれ、落ち着いた声が聞こえてくる。
 泉水は億劫そうにそちらに目を移すと、そこには譲が無表情で座っていた。
「書簡をお読みになられたのですね」
 譲は少しだけその声に悲哀の色を滲ませて言った。
 それを聞いて泉水は、ぐっと眉間に皺を寄せて、少しだけ荒くした声で言った。
「これが、お前の望んだことだろう」
 譲はその声にも臆することなく、冷静に言う。
「これが、あなたのすべき事です」
 その言葉を聞いて、泉水はもう一度書簡に目を落とした。
「あなたは白月の当主です。そのことをお忘れではありませんか? あなたのすべき事は当主としての務めを果たすことです。そのためなら、私は――」
 譲のその言葉を遮って、泉水は目を見開いて言った。
「まさか、この書簡を彼女に無理やり書かせたんじゃないだろうな」
 泉水は、いつもの優しい姿からは想像できない、静かな怒りに支配された様子で譲をきつく見つめる。
「この書簡は、彼女が自ら書いたものです。そして、私からあなたに手渡して欲しいと」
 怒りに燃える泉水を気にも留めず、譲はいつものように冷静に返した。
 泉水はその答えを聞くと、小さく息をついて、それから自身を落ち着かせるように軽く深呼吸した。
「……まさかお前が、気づいていたとは知らなかった」
 泉水はそう言いながら、まだ美月が天界に戻って間もない頃の斎野宮邸での出来事を思い返していた。
「あなたが彼女を愛しているということを、ですか?」
 譲の単刀直入な言葉に、泉水は先程まで怒りに身を支配させていた人物とは思えない程、柔らかい笑みを漏らした。
「ああ、そうだよ。私は、臣下三大には気づかれていないと思っていた。譲、お前にもだよ」
 譲は泉水の言葉に悲しげに眉をひそめて、泉水を見つめた。
「私がどれだけの期間、あなたと一緒にいたと思うんです」
 譲の落ち着いた言葉に頷きながら、泉水は再度、書簡に目を落とした。
 どうしても開くことができなかった書簡。どうしても読むことができなかった書簡。そこに書かれているのは、たった一つ、別れの言葉だと分かっていたからだ。それを読めば、その事実を受け入れなければならなかったからだ。
『こんなどうしようもない私を、今まで長い間その優しい瞳と心で見つめてくださったことを、心から感謝しています』
 達筆で書かれたその言葉に、胸が締め付けられるのを感じる。そして、感謝しているのは自分の方だ、と心の中で彼女に返す。
 自分は卑怯者だ。彼女と美月との間で、長い間答えを出さずにのらりくらりとやり過ごしてきた。答えを出すのを後回しにして、美月にも彼女にもいい顔を見せていた、ただの卑怯者にすぎない。
 どれだけ彼女を苦しめただろう。どれほど美月を不安にさせているだろう。そう分かっていても、止められなかった。
 彼女を手放せなくて。彼女を愛していたから。
 美月に優しくしたくて。美月がまるで妹のように愛らしかったから。
 もう一度書簡を見つめると、最後の一文が目に入った。
『あなたの幸せを心から願って』
 この一文で締めくくられた書簡。けれど自分には、幸せになる資格などない。
 だってそうだろう、と泉水は心の中で彼女に呼びかけた。
 自分はこんなにもずるい。彼女に辛いことをすべて押しつけて、自分は結婚しようというのか。それで自分が幸せになれるとでもいうのだろうか。
 こんな自分と結婚すれば、美月まで不幸にしてしまう。自分は、彼女を傷つけただけでは飽き足らず、美月まで傷つけようというのだろうか。第一、こんな自分を美月は選んでくれるだろうか。
「幸せになる資格など、私にはないんだ」
 泉水は小さくそう零すと、行き場のない感情に、書簡を握りしめて俯いた。
 そんな泉水を目にして、譲は掛ける言葉が見つからず、困惑した表情で彼から目を逸らした。
 泉水の傍には、彼を慰めるように小さく一輪の都忘れが佇んでいる。
 都忘れ。花言葉は、尊い愛――そして、別れ。
 都忘れに手を伸ばして、泉水はそれにそっと口付けた。そして、その花を握りしめてぐしゃぐしゃになってしまった書簡と一緒に、大切にしまい込んだ。自分の胸の奥底に。

 

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