◆九◆

 

 いつもより早くに学校に着いて、教室を見渡す。まだ誰も来ていない。それを確かめてから、俺は小さく息を吐き出して自分の席に着いた。
 神野から最後に言われた言葉を思い出す。
 桐生千影が一体どうして契約を結ぶに至ったのか、それを知ること。また、どういう内容で契約を結んだのかを知ること。そこからなんとか手立てを考えるように――というアドバイスだ。
 神野は桐生と物の怪――猫又との間の契約事項に関して、一切手を出せない。それは桐生と猫又が双方の合意の上で契約を結んだからだ。だから、桐生を助けたいのなら神野とは離れて、俺一人で動かなくてはならない――いや。厳密にいうと柊も手伝ってくれると言ってくれているので、二人だ。
 左袖の中に隠したものにそっと触れる。神野から再び渡された、馴染みあるもの――そしてなるべくなら使いたくないものだ。
 とにかく、今は桐生に何と切り出すかを考えなくてはならない。昨日の今日だ。既に警戒されていることは必至だし、それを上手く解いて話を進めなくてはいけない。
 こういうときに、あまり他人と関わってこなかったこれまでの人生が悔やまれる。どう言葉にして桐生に話せばいいのかまったくもって見当がつかない。かといって、この作業を柊に任せてしまうのは気が引ける。きっと柊は乱雑な言葉を紡ぐだろうから。
 どうしたものかと頭を悩ませていると、音もなく教室のドアがスライドした。反射的にそちらへ目を遣ると、澄ました顔の桐生が教室に入ってくるところだった。
 咄嗟に時計に目を走らせてから周りを確認する。時刻はまだ七時半を過ぎたところ、教室の中には桐生と俺以外、誰もいない。絶好のチャンスだ。
 優雅に歩いてくる桐生を見つめながら、席を立って歩き出す。けれど桐生は俺などいないかのように、俺の方へは目を向けもせず自分の席にすとんと座った。
 桐生から完全に存在を抹消されている。けれどそれを気にしてはいられない。
 真っ直ぐ桐生の元まで歩いて、彼女の席の真ん前で足を止めた。それにもかかわらず、彼女は顔を上げることもしなかった。最初から期待していなかったとはいえ、ここまで徹底的に無視されるとは。
「桐生。おはよう」
 鞄から教科書やルーズリーフを取り出している桐生に声を掛ける。けれど彼女は鞄から引き出しに物を移すことが今後の明暗を分けるとでも言いたげに視線を上げない。
「桐生」
 もう一度呼び掛けて、今度は目線を合わせるために彼女の席の前の椅子に腰かける。この席に座るクラスメイトがまだ登校しないことを心の片隅で願う。
「おはよう」
 もう一度、挨拶をしてみる。そっと瞳を覗き込むようにしても、桐生は目を上げなかった。
 ここまでされても、席を立って彼女の傍から離れるという選択肢を選ばない自分に心から拍手喝采を送ってやりたい。
 こんな風に自分の方から他人に話しかけたり繋がりを得ようとしたりするなんて、まるで自分ではないみたいだ。
「桐生。昨日はつけたりして――その、気分悪くさせてごめん。でもどうしても確かめたいことがあったんだ」
 やはりまずは昨日の謝罪だろう。そう思って言葉を紡ぐけれど、桐生は文庫本を取り出してページに書かれた小さな文字を目で追い始めた。ここまで綺麗に自分の存在を消し去られると、いっそ清々しい。
「俺は桐生と話がしたい」
 文字を追う桐生に真剣な眼差しを注いでも効果はなかった。桐生は目を本に伏せたまま、さらりと長い髪を手で払った。
「桐生――その本、そんなに面白いわけ?」
 ここまで真剣な言葉を無視させるほどの内容を持った本が、気にならないわけがない。少し眉間に皺が寄っているのに気がついて、俺は慌てて穏やかな表情を取り繕った。
「何ていう本?」
 顔を覗き込んで訊ねてみる。けれど返ってきた答えは、静かにページを捲る音だけだった。
 廊下が騒がしくなってくる。そろそろ生徒が登校し始める頃だろう。無意識に廊下に目を向けていると、桐生が本を閉じる音がした。それに視線を戻すと、桐生は空を見上げていた。
「本は飽きたのか?」
「どうしても確かめたかったことって、何なのかしら。私の家でも確かめたかったの?」
 桐生はそう言うと、ゆっくりと俺へ目を向けた。無表情に整った顔は、美しいという感情よりも恐ろしいという思いを心に湧き上がらせた。
「桐生の家がどこにあるのかには興味がない。悪いけど」
「だったら何かしら。私には波多野君に跡をつけられるような覚えがないわ」
「確かに覚えはないだろうな。でも、俺の方にはある」
「それが何かを訊いているの」
 桐生の無表情な顔の中に、微かな苛立ちが見て取れる。睨みつけるように俺に直と据えられた双眸が、俺の思考を絡め取るように巻きついてくるようだった。
「ついこの前の図書委員の仕事の日、覚えてるだろ」
 桐生の瞳からは逃れずに、真っ直ぐ見返しながら言葉を継ぐ。思考を絡め取られないように、抗いながら。
「魔に逢う時、大きな禍の時について君は俺に話した。それで俺に訊いたよな。この世に妖怪や物の怪がいるのかどうかって」
 桐生は一瞬だけ目を細めて、それから感情を丁寧に奥底に隠したようだった。ふいと目を伏せた彼女は、小さく口を開いた。
「そんなこと、訊いたかしら」
 ゆっくりとかわすように紡がれた言葉に、今度は俺が目を細めた。
「俺はそこまで記憶力が悪いわけじゃない。君のように耳はよくないけど、頭の方は正常に働いてる」
「その言い方、まるで私の頭が正常に働いていないと言いたいみたいだわ」
「そうは言ってない。ただ俺の正常≠ニ君の正常≠ヘかけ離れてるみたいだけど」
「どういう意味かしら」
 今度こそ桐生は怒りの感情を表情に出した。桐生の周りで揺れる空気の中に、人間のものではない何か≠ェ混ざる。
 これだ――と心の中で呟いてから、俺は手を伸ばした。空気の揺らめきに手を伸ばして、制服の袖に隠していた小刀を滑らせて、左手で握った。素早く鞘から顔を出した刃が、桐生の怒りで歪んだ顔を映す。
 次の瞬間、桐生の顔が怒りから苦しみに変わった。大きな音を立てて小刀とは反対方向に身体を仰け反らせた桐生は、目を見張って俺が持つ小刀に目を向けた。
 俺はゆっくりと小刀を鞘にしまいながら、桐生を見つめた。
「このことについて、話がある」

 

 

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