◆八◆

 

 しんとした部屋の中、音を立てるものは何もない。今、俺が宙に放ったばかりの言葉が反響しているように思えた。
 神野は目を上げるとすっと細めて俺を見つめて、湯呑みを置いた。
「そういうことだ。私は関知しない」
「それは神野の仕事じゃないから?」
「そうだ」
「でも――」
「『でも』ではない。私の仕事において『でも』や『しかし』という言葉は存在しえない。私は関知しない。いや――関知できないのだ。神野家の仕事はあくまで物の怪絡みの問題≠解決すること、それのみだ。今回は問題≠ナはない。問題≠ナない以上、私は手を下すことができない。それは神野家と物の怪との間の取り決めでもあり、長い間神野がこの世界で存続してきた理由なのだから」
 神野は俺の反論を途中で遮ると、強い調子で言う。それからゆっくり一呼吸空けて、神野は疲れた様子で息を吐いてから言った。
「私は桐生千影と、桐生千影と契約を結んだ物の怪には、一切手出しできない」
 俺は神野を真っ直ぐ見てから、唇を噛んだ。
 神野が手出しできないとなれば、俺は無力だ。何もできない。
 神野が関知できない――それはつまり、桐生と物の怪の間で起きているのは問題≠ナはなく合意≠セということを示している。桐生は自身に入り込んでいる物の怪の存在を知っている。そしてそれを受け入れている。
「ちょっと待って。じゃあ、桐生は知ってるの? 自分が物の怪に侵されてることを?」
 隣から柊の困惑した声が聞こえる。神野に視線を送ると、神野は険しい顔つきで重々しく頷いた。
「確実に知っていると見て良いだろう。あの子は物の怪と契約を結んだはずだ」
「契約を結ぶって――具体的に何の契約なの? 内容は分かってるの?」
「大抵は恨み辛みを物の怪を使って晴らすことだ。あの子の場合もそうだとは言い切れないが、その可能性が極めて高い」
「物の怪相手に契約を結ぶなんてタダじゃないだろ。一体桐生は――何を代償にしたんだ?」
 ゆっくりと俺が訊ねると、柊が「まさか」と小さく呟いた。俺はそれに構わずに神野だけを見つめる。神野は無表情のまま再び頷いた。
「命だろう」
 予想どおりの神野の言葉に目を強く瞑る。
 桐生は一体なんてことをしているんだ。人間が物の怪相手に契約を結ぼうとすれば、命を引き換えにしなくてはならないだろうことは、少し考えれば想像がつくのに。
 そうしなくてはならない程の望みなのか? そうしなくてはならない程の苦しみなのか?
 それは桐生にしか分からない。けれど何か他に手立てがあったはずなのに。
「響。お前のように特別な存在ならば、血を100ml程度差し出せば十分だろう。それでお前なら契約を結べる。お前の血は微量でも十分な代価だからな。だが私が見たところ桐生千影の血にそんな価値はない」
「だから桐生は命を懸けたっていうのか? 物の怪との契約のために」
 投げやりに言うと、神野が顔をしかめた。その瞳が厳しく光った。
「それ程の望みなのだろう。物の怪と契約してでも、自分の命を捨ててでも、叶えたい望みだったのだろう。あの子の気持ちをお前は知らないだろう。お前が簡単に非難できるものではない」
 だけど、と言いかけてやめる。確かに神野が言っていることが正しい。俺には桐生の事情は分からない。言葉を慎んでいると、隣で柊が身じろぎした。
「だけど厄介だよ。神野、あんたは桐生を調べたんでしょ? それであいつが物の怪と契約を結んでるってことまでつきとめたんだよね?」
「そうだ」
「じゃあ何の物の怪と契約を結んだかも、もちろん分かってるんでしょ? 何て言う物の怪なのか教えて」
 強い声に思わず柊へ目を遣ると、柊は真っ直ぐ背筋を伸ばして顔を上げて、堂々としていた。
「それを知ってどうするつもりだ」
 厳しく強張った神野の声に、柊は怯むことなくしっかりとした声で答えた。
「桐生を助けてあげようかなって思って。神野だって手を出せなくても情報提供ぐらいいいでしょ?」
「一体何を――」
「勘違いしないでよね。僕は先輩のために助けてあげるって言ってんの」
 神野の困惑した声を遮って、柊はゆっくりと言い切る。驚いて柊をまじまじと見つめると、柊はちらりと俺を見上げた。
「先輩。心配なんでしょう? 桐生千影を救ってあげたいって思ったんでしょう? ――僕にしてくれたみたいに」
「柊」
「だから手伝います。僕は神野の手伝いじゃなくて、先輩のお手伝いだから……言ったでしょう? 先輩の納得がいくまで付き合います」
 強い瞳で見上げてくる柊に、胸の奥が熱くなった。俺はここまで柊に慕われるようなことは何一つしていないのに。
「柊、でも俺は君を――」
「巻き込めないとか言わないでくださいね。僕の命は先輩に救ってもらった。だから先輩のために使いたいんです」
 静かな柊の言葉に、反論の言葉がすべて飛んでいった。きっと何を言っても彼の気持ちは変わらないのだろう。それが伝わってくるほど、強い意志を宿した言葉だった。
 柊は小さく微笑んでから神野に向き直る。そして言った。
「神野、教えて。桐生は一体何と契約を結んだの?」
 神野は柳眉を寄せて暫くの間、柊を確かめるように見つめる。けれどやがてふっと目を伏せて、重々しく口を開いた。
「猫又だ。契約満了まで時間はあまり残されていないだろう」

 

 

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