◆十◆
「な、んなの」
桐生は途切れがちにそれだけを呟くと、じっと俺の手元を見つめている。俺は小刀を再び袖に隠して、姿勢を正す。
「この小刀を近づけられて苦しかっただろ」
「だから、それは何なのって訊いてるの」
桐生は目を吊り上げて見開く。肌が粟立つような不快な気配が再び空気に混ざった。
「ある人の気が込められた小刀だ。その人は物の怪や妖怪といった類いを退治する力を持っている」
桐生を見つめてゆっくりと話す。「退治」と言った瞬間、桐生の眉がぴくりと動いた。
「あの日、答えられなかった質問に答えるよ――この世に物の怪や妖怪は、いる」
静かで平穏だった教室が、寒さを伴う静けさに包まれた気がした。廊下を歩く足音や、校庭から聞こえていた生徒の声がぐんと遠ざかった。
「俺はソレが見える」
そう言うと、桐生の瞳が頼りなさげに揺れて俺から逸れた。先程までの強い意志が一瞬だけ砕けたようにすら思える。けれど桐生はすぐにそれを立て直したようだった。再び俺に戻ってきた瞳は、何十倍もの強さと侮蔑を伴っていた。
「馬鹿馬鹿しいわ。この世に物の怪なんていない」
「いる」
「妄想も大概にして。この世にいないものが見えるというのなら、あなたの視覚か脳に障害があるのよ」
「じゃあさっき小刀に反応したのはどうしてだ?」
「いきなり刃物を突きつけられて怯えない人間がいるかしら? 危機的状況だったのよ。とにかく私を変な妄想に巻き込まないで」
桐生は蔑みで満たされた瞳を細めて俺に一瞥をくれてから、椅子から立ち上がった。そのまま立ち去ろうとする彼女を目で追う。
これで話を切り上げられては困る。桐生が猫又と契約を結んでいることは、神野の情報から確かなのだ。妄想男呼ばわりされただけで話を終わらすことはできない。
立ち上がって桐生を追う。ぴんと伸びた背中にすぐに追いついた俺は、桐生の細い手首を後ろから掴んだ。すぐに桐生が俺の手を振りほどこうとするけれど、俺は手に力を込めて桐生を引き寄せた。
栗色の髪がさらりと宙に飛ぶ中、空いていた手で桐生の華奢な肩を掴む。驚きに見開かれた瞳を真っ直ぐ見下ろしながら、桐生の身体を壁に叩き付けた。そして一瞬間を取ってから、手首を掴んでいた手を外して拳を握る。それを真っ直ぐ桐生の顔めがけて振りかざした。
勢いよく振り下ろされた自分の拳が風を切る。その間も桐生の顔から目は逸らさない。桐生は目を開けて、冷静に俺の拳を追っていた。
しんと静まり返った教室に、何の音も響かない。
桐生の鼻先数ミリでぴたりと止まった拳を、桐生は目を伏せて見つめているだけだった。
俺は意図的に止めた拳を解きながら、桐生を壁に押し付けたままで口を開いた。
「今のは危機的状況だろ? どうして逃げようとしなかったんだ?」
俺の台詞にはっと我に返ったのか、桐生はゆっくりと目を上げて俺を見た。
「違う、わ」
「違わない。俺は君を壁に押さえ付けて殴ろうとした。君の片手は自由だったのに、どうして君はされるがままだったんだ?」
「違うわ」
「違わない。さっき君は――いや。君の中にいる物の怪は、小刀の神気に反応して身を仰け反らせた」
「違うわ!」
「違わない。君は契約を結んだはずだ。猫又という物の怪と」
桐生の顔を覗き込むようにして声を落とす。桐生の顔が歪んだ。
「一体どうして物の怪なんかと契約を結んだんだ? それ程の望みなのか? 君は契約の代償に自分の命を懸けてるだろ。そんなことをして君の家族は――」
「私の家族≠ナすって?」
桐生は俺の言葉を遮ると、いびつな嘲笑を浮かべた。
「あなたは何も知らない癖に」
重々しい言葉を吐き捨てるように告げる桐生の表情に、美しい冷笑が形作られる。それは全身が粟立つよりも激しい、凍えるような恐怖を伴って。
「私がこの命を野垂れ死にで失おうが、物の怪に捨ててしまおうが、興味のない人間たちだわ。でも、そうね。この契約が遂行されたときには彼らも少しは嘆くかもしれないわ。もっとも、嘆く時間が残されていればの話だけれど」
「それは一体どういう」
「私が死ぬときは、私の家族≠ェ死ぬときだもの」
桐生は先に俺が求める答えを出すと、嘲りの笑みを消し去って表情を無にした。
「契約が果たされたとき、私の命を報酬として猫又に与えることになっているの。契約内容は――」
桐生は身動きひとつ取らず、鈴の音のような声で紡ぐ。
「私の両親を見つけ出し、殺すこと」
呪詛を。
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