◆二十三◆

 

「波多野君って、本当に馬鹿なのね」
 桐生はそう呟くと、再び踵を返して歩き出した。その背中には、いつも在るような「追ってくるな」という言葉はない。
 俺はそれに甘えて、桐生を追いかけてその隣に並ぶ。そっと伺うように見た横顔は、夕陽に染まっていた。
「私は、私が死ぬために契約したわけじゃないわ。私は、両親を殺すために契約をしたの」
 桐生は確かめるようにそう言うと、俺を見上げる。その瞳は、今言った言葉が偽りではなく本心であることを告げていた。
「確かに、私は死んでもいいと思いながら生きてきた。ずっと邪魔者扱いをされて、自分の居場所なんてどこにもなくて。けれど猫又と契約したのは私が死ぬためじゃないわ。両親を殺してくれてその上私も殺してくれるのなら、一石二鳥だと思っただけよ」
「そんなの一石二鳥だなんて、言わない」
「そうかしら。私にとってはとても助かることなの」
 桐生は口元に自嘲の笑みを乗せる。見方によれば、それはぐっと他人を惹きつけて離さない魅惑の表情に見える。けれど桐生の抱えるものを垣間見た俺にとっては、寂しそうに見えるだけだった。
「今、私を可哀想だと思ったでしょう」
 桐生は悠然とした調子で、俺を見上げる。的確に心を掴まれてしまった俺は、何の反論もできない。きつく唇を引き結んで桐生を見下ろすと、彼女はふっと笑みを浮かべた。その笑みは自嘲でも他人に対する嘲りでもない、単なる笑みだった。
「他人の心の機微には敏感なのよ」
 謝罪の言葉を紡いで欲しいわけではない。
 その一言の代わりの台詞だった。桐生は言うと、俺の視線から逃れるように前を向く。
 俺は段々と惨めな気分になってきて、桐生から目を離した。
 掴もうと思っても、掴めない。掴めたと思っても、掴めていない。そんな曖昧であやふやな桐生千影にどう向かい合えばいいのか、今更ながらにして分からなくなってくる。
 きっとそんな俺の思いも伝わるのだろう。桐生がふっと笑った。
「私に死んで欲しくないって、言ったわよね」
「ああ」
「どうして?」
「それは――」
「他人を放っておけないなんていう、さっき言ったような偽善者みたいなことはもう言わないでね。私、そういう人間が一番嫌いなの。あなたの本心が聞きたいわ。それによって、私もあなたへの態度を変えてあげる」
 桐生の口調は決して厳しいものではない。むしろ優しいと言ってもいいくらいだ。それなのに何だろう、この威圧感は。相手に自分の求めていることを必ず言わせるという、そんな強引さが肌に突き刺さる。これは彼女が物の怪と契約しているからというわけではないと思う。単に、これが彼女の性質なのだ。
 俺の思いは、偽善者だろうがなんだろうが、さっき言ったことが事実だった。けれどそれを信じれもらえない今、何と答えればいいのだろう。何と答えたら、桐生は俺を見てくれるのだろう?
 息を吸い込んで、夕陽に赤く染まった空気を身体に取り入れる。その赤い空気が身体に回っていくのを感じながら、口を開いた。
「何て言って欲しい?」
 静かに紡いだ言葉はそれだった。桐生はぴくりと身体を動かして、俺を見た。
「桐生が言って欲しい言葉を、これから言うよ」
 桐生は俺の言葉にすっと瞳を細めた。その瞳に疑念は何もなく、ただ俺を見定めようとする意志だけがあった。その瞳を向けたまま、桐生は静かに口を開く。
「『桐生の為だなんて言っているけれど、自分の為なんだ。自分の利益の為に、桐生を救おうとしている』」
「桐生の為だなんて言ってるけど、自分の為なんだ。自分の利益の為に、桐生を救おうとしてる」
 何も言わずに、躊躇いもせずに復唱する。桐生はその美しい顔を歪めて、見下げ果てた瞳で俺を睨めつけた。
「人間なんて、所詮そんなものでしょう。自分の為にしか動かない人間でしょう。見下げ果てたモノでしょう」
 そう言う桐生の瞳の先に映っていたのは、俺ではなかった。桐生が見下げ果てている人間は、俺じゃない。彼女の視線の先にあるのは――きっと、彼女の両親だ。俺を見ているようで、俺を映しているようで、俺じゃない誰かを見て、俺じゃない誰かを映しているその瞳に、深い怨嗟が(とぐろ)を巻いている。
「なのに、それなのに、どうしてあなたは違うの?」
 その瞳に、柔らかな光と涙が宿った。その姿が痛々しくて、思わず手を伸ばしてその涙を拭おうとする。けれどその手は、桐生の冷たい手に弾かれた。
「触らないで!」
「桐生、俺は」
「聞きたくないわ。何も聞きたくない。あなたは私を軽蔑するでしょう。私はあなたとは違う。あなたのように誰かの言いなりになんてならない。あなたのように、他人を見捨てられないなんていうそんな馬鹿みたいに優しい心なんて持てない。私は――私は」
 桐生は涙を流して、俯いた。長い栗色の髪がその顔を覆い隠す。小さな肩が小刻みに震えている。
 このやり取りの行方がどこへ行くのかも分からないまま、俺は静かに桐生の言葉の続きを待った。
「自分ではない他人を死に追いやろうとしている、そんな人間なのに」
 熱気がこもった風の中に混じった低い、揺らぎのない声。けれどその中に、微かに後ろめたさが存在している。今までは決してその姿を表すことのなかった後悔の念が、桐生に生まれていた。
「まだ遅くない」
「もう遅いわ」
「忘れたのか? 俺が言った言葉。俺は桐生を諦めない。たとえ遅くても、絶対に桐生を救ってみせるから」
「私を救ってなんて、一言も言っていないわ」
「だったら悪いけど、勝手に救わせてもらう」
「たとえ救ってもらったとしても、私は私よ。これから先も変わらないわ。あなたのようにはなれない。私はきっと、一生両親を憎み続ける。両親が死ねばいいと、一生望み続ける」
「だとしても、猫又に――物の怪に殺して欲しいとは望まないだろ? もう、それを望んでいないんだろ」
 震える肩にそっと手を乗せる。今度は弾かれなかったその手に、少しだけ力を込めた。
 桐生は一筋だけ涙を零したその顔を上げて、俺を見つめる。けれどすぐにその視線は俺の後ろへ向かった。
 その瞬間、桐生が纏っていた気配が変わる。ざわりと不快感を煽る空気が肌を撫でていった。
 肩に置いていた手が、弾かれる――いや、弾かれたのではない。俺が、俺自身も知らない内に手を外していた。
 長い栗色の髪を、夕陽に反射させて桐生は俺の後ろを見つめて感情の籠っていない頬笑みを浮かべて、生気の感じられない声で言葉を紡いだ。
「一人目」

 

 

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