◆二十四◆

 

 一言、そう呟いた桐生は笑みを崩さずに一歩踏み出した。美しく(かたど)られているはずの微笑は、しかし氷の如く冷たく固まっている。生気すら感じられないその笑みにぞっと全身が粟立った。
 こつ、と靴の音を辺りに響かせながら、桐生は一歩ずつ前へ進む。ゆったりとした足取りで俺を追い越した桐生の瞳には、俺は映っていなかった。
 さらりと隣で揺れた栗色の髪を追って振り返る。その先には、桐生を見つめて固まっている一人の女性がいた。着古したような白いブラウスと、細かい花柄のひざ丈までのスカートを身につけているその女性は、どこか古めかしさを感じさせる。
 年は四十を過ぎた頃だろう。美しいとは言えない少したるんだ顔の皮膚が、今は恐怖に突っ張っているのが俺の位置からでもよく分かる。その女性は桐生が一歩近づく度に一歩後ろへ退いて、恐々とした瞳で桐生を一心に見つめている。
 桐生の纏う気配が、彼女の周りの空気が、彼女の変化を如実に伝えてくる。吐き気のするような異様な気配に、濁ったような辺りの空気。これは桐生千影ではない。彼女の中に巣食う、猫又だ。
 そのまま退きたい気持ちを押し殺す。地面に貼り付きたいと願っている足をアスファルトから引き剥がして、桐生を追った。その間は決して遠くはない。二歩歩けば詰められるだけの距離なのに、なぜだかこの間が遠く感じられた。
「桐生」
 消え入りそうな声を絞り出して名前を呼ぶと、進んでいた桐生の足が唐突に止まった。そして次の瞬間には桐生は頭を抱えてしゃがみ込んでいた。
「桐生?」
 腰を曲げて桐生の肩に手を置こうとする。けれどその手はまたもや弾かれた。
「触るな!」
 憎々しげに放たれた声音に、思わず目を見張って退いていた。それ以上後退しないようにと俺は力を入れて踏ん張る。ぞくぞくと全身を這い回る悪寒に吐き気がした。
「お前だろう。この子に馬鹿馬鹿しいことを吹き込んだのは」
 地の底を這うような低いおどろおどろしい声が、桐生の身体から発せられた。そう、確かに桐生の唇から言葉が紡がれているのに、その声はいつもの彼女の声とはまったく違う。低くしゃがれたその声は、人間のものとは思えなかった。
「――猫又」
 小さな声でそう呟くと、瞳孔の開き切った桐生の瞳が俺を捉えた。
 にやりと口元が弛められたその顔は、桐生なのに桐生ではなかった。美しさの片鱗すらないおぞましさだけが、その表情に色を乗せている。
「邪魔だ。お前は関係ないだろう。引っ込んでいろ」
 虚ろな瞳は、どこを見ているのか分からない。それでも真っ直ぐ俺に顔を向けていた猫又は、今度はゆっくりと前を向く。その先には、先程の女性が未だに立っていた。それを見つけた俺は、考えるより先に叫んでいた。
「今すぐ逃げて!」
 がくがくと遠くから見ても分かるほど可哀想なほどに足を震わせているその女性に、それはどうあがいても無理なことに思えた。女性に向かって叫んだ俺を彼女は縋るように見つめて、声にならない言葉を何か紡いだようだった。
「逃げろ!」
 猫又に意識を乗っ取られているのだろう桐生を追い越して、女性の元に走る。けれど彼女は恐怖をありありと表情にしたまま動けないようだった。
「その女に触るな!」
 地を揺るがすような声に、駆け寄っていた足が唐突に止まった。
 猫又に俺の行動を支配できるだけの力はないはずだ。今まで、どんな物の怪にも身体を操られたことはないのだから。けれど今、足が動かないのはなぜなのか。背後から感じられる狂気に満ちた空気の揺れが、背中を斬り付ける如く痛い。
「その女は誰かに救われるほどの価値はない」
 猫又の嘲りを含んだ声に、目の前の女性は瞬きすらできないのだろう瞳に涙を溜めた。その涙は懺悔を求めるものでも、改悛しようとするものでもない。ただ己の身を案じて、己の身を憐れむだけの、涙だった。
 その涙を見た瞬間に、彼女が桐生の母親なのだと不意に悟った。桐生に似ているわけではない。むしろ、似ているところを探す方が難しい。けれどそれは確信に満ちた答えだった。
「この期に及んでも自分のことしか考えられないような見下げ果てた女だ。お前は知っているか? この女がこの子にした仕打ちを」
 猫又は俺に並ぶと、そっと俺の顎を人差し指で撫でた。その行為に吐き気がして俺はその指を払った。
「この女は男に捨てられた理由を娘になすり付け、娘を憎悪の対象としてしか見られない。その癖、金に困れば娘に金の無心をし、恩着せがましくも自分が母親だとしゃしゃり出ることは忘れない」
 目の前の女性は、とうとう足の力が抜けたのか地面にへたり込んだ。けれどその目は、猫又に注がれたまま動かない。
「こんな女の元に生まれただけでも不幸だというのに、この子の父親だという男はさっさと余所に女を作って出て行った。その理由をこの子に作ってな。この子の容貌が男にも女にも似ぬ美しいものだったから、男は女が浮気をして子を(こしら)えたのではないかと疑ったのだ。私はその真偽のほどは知らんが、この子が父にも母にも愛されずに育ったことだけは知っている」
「そんなことって――」
「この子は両親に捨てられ母方の叔母に引き取られたが、そこでもこの子の居場所はなかった。蔑まれて憎まれて厄介者として生きてきたこの子の気持ちを、お前は知らんだろう。母に捨てられたというのに、その母と名乗る女は金がなくなれば無心に来る。叔母に借りられなかった分はこの子から取り上げて、自分はどこぞで遊んで暮らしている」
 くすくすと声を抑えた笑いが猫又から漏れた。目の前にへたり込んだままの女性は、涙を流して震える手を胸の前で合わせた。
「お願い……お願い……助けて……」
「この女、命乞いをしているなあ。この女ほど死が相応しい人間もいないだろうに」
 猫又はそう言うと、大きな笑い声を上げた。その声にびくりと震えた女性は、顔を俯けて自分自身を抱き締めた。
「お前の言葉にこの子も一瞬だけ心を乱されたようだが――」
 猫又はもう一度、俺の顔に冷たい氷のような手を添える。そして囁いた。
「お前の出番はない。この子は両親が死ぬのを望んでいるのだから」

 

 

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