◆二十二◆

 

「返却期限は二週間後です」
 学生証と本を差し出して、最後の利用客が図書室から出て行くのを見送る。図書室のドアが閉まった音を聞いてから、俺はカウンターを出た。
「桐生にはこっちの戸締りとか諸々の確認お願いしてもいい? 俺は隣を見てくるから」
 桐生はゆっくりと億劫そうに目を上げて頷いた。それを見届けてから「私語厳禁」と書かれたプレートを見るともなしに見て隣の閲覧室へ入る。もう誰もいないことを改めて確認して、窓へ近づいた。
 図書室に入り込む赤い夕陽。明り取りの為に大きく造られた窓の鍵を点検して、それぞれが閉まっていることを確認する。そしてふと動きを止めて、夕陽を眇め見た。
 禍々しい赤。血を連想するようなその色に、思い出すのは桐生とのやり取りだった。
 踵を返して部屋を出ると、桐生が鞄を肩に掛けてじっと窓の外を眺めていた。その横顔は静かな感情に支配されている。けれどその感情が何なのか、俺には分からなかった。
「待たせてごめん」
 短くそれだけを告げて、俺も鞄を手に取った。一瞬だけ合った桐生の瞳は、何の感情も宿っていない。
 そのとき、唐突に図書室のドアが開く音がした。反射的にそちらへ目を遣ると図書委員の委員会で見る、担当教諭らしい女性教諭――相変わらず、名前は知らない――が入ってくるところだった。
「あっ。ちょうど戸締りね? よかった、間に合った。ごめん。私ちょっと必要な資料があるのよ。戸締りは私がしておくから、先に帰ってくれていいわ」
 先生はそう言って、両手を胸の前で合わせる。表情豊かに申し訳なさそうな感情を表した顔を、桐生は無表情で見つめて鍵を差し出した。
「では、よろしくお願いします」
 凛と張り詰めたような声を出した桐生は、さっと先生とすれ違って図書室を出て行く。愛想のなさすぎる桐生に先生は一瞬だけ虚をつかれたような表情を浮かべたけれど、すぐに苦笑した。
「隣もここも、戸締りと生徒の確認は終えました。図書室の戸締り、よろしくお願いします」
「ありがとう」
 桐生の言葉を補うように俺が付け足すと、先生は少し笑って頷いた。それから俺も先生を追い越して、桐生の背中を追う。廊下に出ると、既に桐生の姿はない。少し走って踊り場に出ると、桐生の長い髪が階段を下りながら揺れているところだった。
「桐生」
 俺も階段を下りながら声を掛ける。けれど桐生は振り向きすらしない。隣に並んでやっと、彼女は俺へ目を遣った。
「またなの」
 心底嫌そうに紡がれたのはその一言だけだった。
 桐生の隣で階段を下りながら、話したいことを頭の中でまとめる。その間、二人の間には会話なんてもちろんない。
 桐生は俺を引き離すことはもう諦めているのか。歩調を早める様子すらなく、ただゆったりと堂々とした足取りで階段を下り続けていた。階段を一段下りるごとに浮かび上がる言葉を、まとめようと躍起になる。溢れ出る言葉は取留めもないものばかりで、桐生を引き止めるにはどれも不十分なような気がしてしまう。
 それでも伝えなくては。これまでは桐生の心を開かせようと必死だった。けれど今は違う。まずは俺が桐生に自分の心を伝えなくてはならない。
 いつの間にか昇降口に下りていた桐生と俺は、やはり会話もなく淡々と靴を履き替えていた。放課後の校舎内に、その音だけが響く。遠く校庭からは運動部の声が聞こえてきた。
 歩き出した桐生を追って、その隣に並ぶ。彼女の顔を見ようと隣を見下ろすと、桐生は厳しく柳眉を寄せていた。
「桐生」
「……何?」
 一拍分、間を開けて桐生が呟いた。その場の空気に溶け込んでしまいそうなほど小さな声だった。
「俺は桐生に死んでもらいたくない」
 静かに言葉を紡ぐ。桐生はゆっくりと俺へ顔を向けた。
「今まで『桐生を見捨てない』って言ってたのは、ただの意地だったんだ。俺は物の怪が憎い。だから契約を結ぶなんて許せない。そんな思いで、ただそれだけで、物の怪と契約を結んだ桐生を見過ごせなかった」
 語りかけるというよりは、独り言のようになってしまったそれを、桐生は遮ることなく聞いていた。その表情は相変わらずの無表情で、瞳は拒絶の色を映していたけれど。
「いや。見過ごせないって言うよりも、もしかしたら桐生に腹が立ってたのかもしれない。物の怪なんかと契約を結ぶなんて――って。だから意地でも桐生の契約を反故にさせようと躍起になってた」
 俺はそこで言葉を切ると、立ち止まった。桐生が立ち止まってくれる自信はなかったけれど、桐生に向けて頭を下げる。
「ごめん。桐生の気持ちも何も、考えてなかった。それが正しいんだって妄信して、ただ自分の考えを押し付けて、本当に馬鹿だった。ごめん」
 少しの間を取って、ゆっくりと頭を上げる。するとそこには桐生がいた。頭を下げる俺を、ただ冷たい瞳で見つめて。
「そう。それで、今度は見捨てる気になったのね」
 敵意に満ちた声。
 桐生は表情を変えずに俺を見下ろしていた。ただ瞳だけが、強い怒気と静かな痛みを帯びていて、ちぐはぐな印象を受ける。
 桐生が本当は何を望んでいるのか、昨日はその答えが分かったと思ったのに、彼女を目の前にすると分からなくなってしまう。けれど、自分の中の思いを信じて俺は首を振った。
「俺は桐生を死なせたくない」
「でも私は死ぬわ」
「死んでもらいたくないんだ」
 堂々巡りになりそうなその続きを俺は桐生に言わせずに、続けて言葉を継いだ。
「桐生が抱えている辛さを、重みを、俺は何一つ知らない。だけどそれを知りたいと思う。理解して、救えたらと思う。そんなこと無理かもしれないけど、でも――」
 そこで息を吸い込んで、赤い陽に照らされる桐生の顔を見つめて、言った。
「このまま桐生に死んでもらいたくない。桐生は、ご両親のことを死んで欲しいと思うほど憎んでいるのかもしれないけど、でも一番の目的は違うんじゃないのか? 一番の目的は、猫又と契約を結んだ真意は、桐生自身を殺すためなんじゃないのか」
 桐生は目を見張って、風になびく髪を払うこともせずにじっとしていた。ゆっくりと表情を戻していく桐生は、怒りも痛みも敵意もすべて消して、俺を見つめた。
 長い髪が目の前で揺れる。栗色の美しいそれは風になびいて、真っ赤な日の光を浴びていた。
 俺の前に立っている桐生は、淡々とした表情で俺に向かって告げた。
「お人好しね。あなた、私に言っていたわよね。自分は実の祖父母から見捨てられたって。それなのに、どうしてあなたは私を、赤の他人である私ですらを見捨てないの? あなたって馬鹿じゃないのかしら」
 桐生はそう言うと、踵を返した。その背中はいつもとは違って真っ直ぐ伸びていない。どこか苦しげに見えた背中に、俺は告げていた。
「馬鹿でも何でも、これが俺なんだ。俺は実の祖父母から見捨てられたよ。だから見捨てられた人間の気持ちが分かる。けど俺は、今の両親に、桜井に、柊に、高坂に――それに物の怪のこともすべてひっくるめて俺を受け入れてくれた最初の人に、それ以上の優しさをもらったんだ。だから思うんだ。一人で苦しんでいる人を放っておけないって。俺は桐生に優しさを向けられる。絶対に桐生を見捨てたりしない。だから、信じてくれ」
 いつか見た、夢を思い出す。あの夢の中で言えなかった言葉を、桐生に精一杯向ける。桐生は歩き出していた足を止めて、振り返った。
「あなたが私に優しさを向けてくれても、私はそれに応えられないわ。私はあなたとは違う。私は優しさなんて、誰にももらったことがないもの」
 今までの強さが抜け落ちた桐生は年相応の弱さを持つ、ただの女の子に見えた。そんな彼女に向かって、丁寧に告げる。
「だから、俺があげるよ。桐生に優しさを」

 

 

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