◆二十六◆

 

 分厚い木の門に辿りついた俺は、どんどんと無遠慮にそれを叩いた。
「神野! 柊が――」
 俺が門を叩きながら言い切る前に、門は独りでに勢いよく開いて、遠く離れた玄関ががらりと開くのが見えた。玄関から血相を変えた神野が走り出してくる。俺は柊を抱え直しながら神野の元に走り寄った。
「いきなり柊が震えだして、口も利けなくなったんだ」
 必死に神野を見つめて告げると、神野は眉根を寄せて柊を見つめていた。
「俺、どうしたらいい? どうしたらいいのか分からなくて――」
「響」
 神野は俺の言葉を強い調子で遮ると、力強く俺の腕を掴んだ。
「しっかりしなさい。お前がそんな状態で、一体どのようにして湖塚柊を救おうというのだ」
 俺の顔を覗き込むようにしながら、神野は強い光を宿した瞳で俺の目を見据える。その落ち着いた静かな声に、やっとパニックになりかけていた自分に気がついた。
 俺はもう一度、柊を抱え直してから、深く呼吸を繰り返す。今は混乱している場合ではない。そう自分に言い聞かせて、落ち着きを取り戻そうと呼吸する。
「今はまだ慌てることはない。本格的に野狐になるまでには、まだ少し猶予がある」
 神野の声を聞いて、俺は頷いて顔を上げる。今度は俺も揺るがない瞳で、神野を見つめ返す。
「俺は今、何をすればいい?」
「この子を部屋に運びなさい――その間に私は準備をしておくから。分かったな?」
 神野の言葉に再度頷いてから、俺はまた駆けだそうとする。けれどそれを引き止めるように、神野が「それと」と続けた。
「私が準備をしている間に何かあった時、私が間に合いそうになかったら――」
 神野はいつになく言い淀むような声で告げる。しかし、その表情は冷淡とも思えるほど無表情で、声と顔つきに酷くギャップがあった。
 怪訝に思いながら神野を見上げると、神野はどこに隠し持っていたのか、着物の袖から刀を取り出して俺に差し出した。それを見て取った俺は、一瞬で固まる。
 この刀を見たことがある。初めて神野と話をした日に――物の怪に襲われていた俺を助けてくれた神野に縋りついて屋敷までついてきたあの日に、神野はこの日本刀を今と同じように俺に差し出したのだ。
 神野の気が込められているというこの刀を所持していれば、低級から中級程度の物の怪なら寄せ付けないようにしてくれるという、この刀を。
 じっと刀を見つめてから、神野を見上げた。刀を差し出した、その意味を確かめるために。
 神野は歩いて俺に近付いてくると、柊を抱えていない方の俺の手にほとんど無理やり刀を握らせた。神野の清廉な気が込められた刀が近付づいたからだろうか。柊が苦しそうな呻き声を上げた。神野は柊に目を走らせてから、もう一度俺を見据えた。
「何かあった時や私が間に合わなかった時には、これを使いなさい。この日のために、十分に気を高めてある。お前でも、できるように」
 神野は敢えて言葉にはしない。直接言葉にして告げたりしない。それはきっと、俺のためであって、神野のためでもあるのだろう。
 これを使って柊を殺せと、柊を抹消させろと、そう瞳で告げる神野に視界が曇った。
 神野が言いたいことがすぐに分かった癖に、わざわざ辛いことを言わせてしまった自分が情けなかった。もしかしたら柊を救えないかもしれない自分が情けなかった。俺にそうさせなければならない神野に申し訳なかった。
「――分かった」
 涙を引っ込めて、俺は落ち着いた声を出して頷いた。ぎゅっと刀を握り締めると、刀がそれに答えるようにかちゃりと鳴った。
 片手で重い刀を握り締めて、もう片方の腕で柊を抱え直して、踵を返す。唸る柊の声を聞いて眉根を寄せた。その痛みを、そのまま刀を握ることで堪える。神野の視線を感じたけれど、振り返らずに走った。

 

 勝手に玄関を上がって、左右を見る。どの部屋に柊を寝かせればいいのか神野に聞いていなかった俺は、取りあえず縁側に一番近い部屋へ直行した。縁側からなら庭へすぐに出られるから、出入りに向いているだろうと思ったのだ。
 しんと静まり返った廊下を小走りで進んで、目当ての部屋の襖を足で開ける。畳の上に柊をゆっくりと横たわらせてから、俺は刀を確かめるように握る。
 見下ろす柊は、未だに苦しそうに顔をしかめている。俺はひとつ深呼吸をしてから、布団を探しに行くために身を翻して――立ち止まった。
 制服のズボンを引っ張られているとすぐに気がついて振り返ると、俺のズボンの裾を掴みながら俺を見上げる柊がいた。
「柊、大丈夫――」
「ね、先輩……逃げて、ください」
 慌てて視線を合わせた俺に、柊は笑顔を浮かべている。けれどそれは、苦しみを必死に覆い隠した作り物の笑みだとすぐに分かった。
 柊の言葉に目を見張った俺に、柊は柔らかく目を細めた。それは作り物ではない、本物の優しさが込められた視線で、俺は何と答えればいいのか言葉が見つからなかった。
「何でそんなこと?」
 訊ねながら、持っていた日本刀を傍らに置こうとする俺の手を柊が止めた。
「それは、持っていてください。僕、いつどうなるか、分からないから」
 ふふ、と柊が笑う。それを見た俺は、さっと血の気が引くのが分かった。
「何かあった時は、俺に殺せって言いたいのか? 君自身が、俺に殺せって言うのか」
 神野が俺に言うのとは、まったく意味が違う。神野が言うのと、柊が言うのとでは、天と地ほどの差がある。
 柊は答える代わりに微笑んで、それからすぐにずるりと前のめりに倒れ込んだ。俺は慌てて柊を支えようと彼の身体に腕を伸ばしたけれど、刀が柊の身体に触れてしまいそうになってすぐに引っ込めた。柊は声になり損ねたような叫び声を上げて、項垂れている。
「布団探してくるから、ちょっと待ってろ。いいな?」
「そんなことより、先輩――もう帰って、ください」
 荒い息で、柊は項垂れながら告げる。俺はなるべく刀を遠ざけながら、柊の頭を見つめた。ふうっと長い息を吐き出した柊は、腕で自身の身体を支えながら俺を見上げた。
「野狐が僕の中で暴れるのにも、波があるみたいです。今はちょっと治まってるから、今の内に帰って」
 そう告げる柊を見てみると、確かに先程までは白くなりかけていた髪が今はすべてがいつもの茶色になっている。
「先輩。逃げて、お願い」
「逃げないよ――帰らない」
 懇願するように俺を見上げる柊を、俺は苦しく思いながら言う。
「約束しただろ。見捨てたりなんてしないって。傍にいるって」
「先輩、忘れたんですか? 『僕が望む限り』傍にいてくれるって、そういう約束だったんですよ」
 柊は呟くと、再び俯いた。
「僕はもう、望んでません。傍にいて欲しくない」
「じゃあ、変える。俺は君が望むと望まないとに関わらず、傍にいる」
 柊を片腕で抱え直して、倒れ込んだままの状態だった柊を仰向けに寝かせる。
 柊は顔をしかめて、刀を持っている俺の右腕から距離を取る。どうやら無意識のうちに刀から身体を遠ざけているようだった。そしてそれに気がついたらしい柊は、はっと目を見開いてから自嘲の笑いを漏らした。
「ほら、ね。僕は野狐なんです。善狐がいるっていっても、そんなの、僕のほとんどは野狐なのに……」
 柊はそう呟くと、俺へ視線を合わせた。
「本当のことを言うとね、先輩。僕には神野の存在も、結構、辛かった。あいつから醸し出される神気が、辛くて。でも先輩は、何事もないように、あいつと喋っていて。桜井澄花だって、神野と普通に接していて。ああ、僕だけなんだなって――僕だけが、(いや)しい血を引いているんだって」
 静かに話す柊は諦めのような、そんな心が痛む瞳を浮かべていた。
「先輩と僕は、同じだって思った。同じように辛い思いを抱えて、生きてきたって。でも、全然違ったんですね。先輩の血がどうとか、今までは言葉でしか理解できなくて、本当の意味では分からなかったけど、でも今ならよく分かる。さっき、野狐が僕を潰そうとしてきた時、僕は抵抗してたけど、僕を抱えて僕のために走ってくれてる先輩を無意識のうちに欲しいと思った。この血が、この肉が、欲しいって」
 柊は俺から目を逸らすと、ぼんやりと天井を見上げた。俺は何も言ってやれなかった。
「今は、野狐も治まってるから、先輩のこと食べ物だなんて思ってません。でも僕は妖狐なんです。きっと、野狐が僕を乗っ取ろうとしたら僕は抵抗しきれないって、思うんです。だから、逃げて。先輩」
 ぎゅっと俺の手を握った柊は、けれどまだ天井を見つめている。俺はそんな柊を見下ろして、ゆっくりと首を振った。
「ごめん――それでも俺は、柊を残して逃げれない」
 ぎゅっと手を握り返して、柊を見つめた。どうか、この思いが届いて欲しいと切実に願いながら。
「柊なら大丈夫だよ。柊を抱えて走っていた時だって、柊は俺を襲わなかった。今だって、柊は俺を心配してくれてる。そんな柊が、野狐に負けるわけない」
 柊がすかさず口を開いたけれど、俺は彼の声が言葉になる前に遮って続けた。
「それに、柊は一人じゃない。俺がいる。俺が野狐を絶対に食い止めてみせるから。柊を守って見せるから。それに、俺たちには神野がいる。野狐が嫌がっている神野がいるんだ。神野がいるなら、柊の中の野狐は消滅させられるよ。だから、信じろ」
 俺が言うと、柊は天井から俺へ目を走らせた。
「僕、先輩を、殺したくない」
「俺だって、柊を殺したくない」
 柊は一筋の美しい涙を流した。
 それが野狐の涙のはずがない。

 

 

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