◆二十五◆

 

 目を見開いて、視界に飛び込んできたのは見慣れた自分の部屋の天井だった。
 カーテン越しに淡い光が感じられる。まだ日が昇って間もない時間だろう。ふっと息を吐き出してからサイドテーブルに置いてある目覚まし時計を手に取って、本格的な溜め息を零した。
 まだ五時を少し回ったばかりだ。起きて支度を始めるにはまだ早すぎる時間だ。けれど既に目は冴え始めて、もう寝付けそうにはなかった。
 むくりとベッドから起き上がって項垂れる。よく覚えていないけれど、嫌な夢を見たような気がした。残像のように残る栗色と茜色の情景に、なぜだか胸騒ぎがした。
 そっと顔をしかめてから、その顔にかかる髪を鬱陶しく払いのけてベッドから抜け出した。たまには俺が朝食を作るのも悪くないと思いなおして、手早く制服に着替えるとまだふわふわとしている頭をすっきりさせるために、顔を洗いに洗面所へ向かった。

 

 

 反響しながらゆっくりと鳴るチャイムに、俺は驚いて飛び起きた。俺が勢いよく顔を上げたことに驚いたのか、隣の席の女の子がびくりと身体を強張らせたのが目に入って、俺は慌てて「ごめん」と一言謝る。それから時計に目を走らせて、文字盤を読んだ瞬間に脱力した。
 項垂れながら記憶を辿る。机の上に出してある数学の教科書とノートを見て、さらに力が抜けてしまった。数学は一時間目。けれど時計の針は今、十二時二十五分――四時間目終了のチャイムが鳴ったばかりだ。
「波多野、よく眠れた?」
 こんなときでも爽やかに微笑みながら、高坂は弁当片手に俺に近付いてくる。俺は少しだけ目を上げて高坂を見てから、溜め息を吐いた。
「……うん、って言っていいものかどうか……」
 そう言いながら、まだ一時間目で止まっている机の上の教科書とノートを引き出しに入れて、代わりに鞄から弁当を取り出す。睡眠で四時間近くを過ごしてしまったので、当然のことながらお腹はまったく空いていなかった。
「何? 昨日は眠れなかったの? 珍しいよね、波多野が授業中に熟睡してるなんて」
 高坂は当然のように俺の前の机から椅子を引き出すとそこに座って、俺の机に弁当を広げ始める。いつも購買やコンビニで昼を済ませている高坂が弁当を持ってきているのは珍しかった。
「なんかよく覚えてないんだけど朝、嫌な夢見て、それから寝付けなくて――」
 挙句の果てに、明らかに睡眠不足だったのに手の込んだ朝食を作ってしまった。父さんと母さんには喜ばれたけれど。
 高坂は「ふぅん」と相槌を打ちながら、ご飯を箸で掬う。俺は気持ちを切り替えようと深呼吸してから、弁当を広げた。
「おぉ! 波多野の弁当は今日も美味そうだなぁ」
 高坂は俺の弁当箱を覗いて、きらきらとした瞳を浮かべる。その表情の子どもっぽさに少し笑ってから、弁当箱を高坂に差し出した。
「食べたいのあったら取って良いよ。俺、あんまりお腹空いてなくて――」
 そこでふと嫌な気配がして、俺は咄嗟に言葉を切ると目を見開いて固まった。
 微かに空気に滲む、淀んだ気配。すっと自然に、それが空気に馴染んでいく様が酷く不快で寒気がした。
 遠くで高坂が、俺の名前を呼んだ気がした。けれどそれに気を留めている余裕はなく、俺は固まった身体を解いて気配の出処を探ろうと首を巡らせる。目を細めて気配を読もうとするけれど、掴みどころがないそれはいとも簡単にするりと抜けていく。
 焦る気持ちを落ち着かせながら教室を見渡していると、脳裏に栗色と茜色の残像が唐突に浮かんだ。
「――たの? 波多野?」
 力強く腕を引っ張られて、はっと我に返る。自分の腕を掴む手に焦点を合わせて、それを辿っていくと困惑の表情を浮かべた高坂と目が合った。
「どうしたんだよ、いきなり。大丈夫? まだ本調子じゃなかったりする?」
「え――あ、ごめん。ぼーっとしてた」
「何だよー。もう、心配させんなよな」
 安堵したように高坂が息を吐き出す。俺は笑って謝りながら、高坂に気付かれないようにすっと目を細めて周囲に気を張り巡らせる。もう嫌な気配は微塵も感じられなかった。
 高坂に視線を戻すと、高坂は俺の弁当箱から卵焼きを取っているところだった。高坂は卵焼きを口に入れて咀嚼して、少し首を傾げた。
「ところで、今日の波多野の弁当はいつもとちょっと違うんだな」
「いつもと違うって分かるほど、俺の弁当に詳しいんだ……高坂は」
「だっていつも一緒にお昼食べてるじゃん。波多野のお母さんのレパートリーは覚えた!」
「そう……」
 自信満々に胸を張って告げる高坂に苦笑を浮かべて返すと、高坂が少しむっとしたように見えた。
「そこはツッコミ入れるところだろ。『何で俺の弁当に詳しいんだよ!』とか『何で一緒にお昼食べてるだけでレパートリー覚えるんだよ!』とか」
「ごめん。俺にそんな高度なことはできない」
「どこか高度!?」
「高度すぎてついていけない。悪いな」
「なんか微妙に小バカにされてる感が否めない!」
 本気で返してくる高坂に俺が噴き出すと、高坂は機嫌が悪そうにぶすりと俺の弁当箱の肉団子に箸を突き刺した。
「前に波多野のお母さんお手製の卵焼き、分けてもらったことあっただろ。今日の卵焼きはそれと味が違った」
「それはそうだろうな。今日のは俺が作ったし――」
「響せんぱーい!」
 俺の言葉は、ぱたぱたと嬉しそうに手を振りながら教室を横断してくる柊の声に掻き消されてしまった。柊の手を振っていない方の手には、相変わらず高校の昼休みには不似合いな重箱が抱えられている。
「何? 今日は何が入ってた?」
 柊を見つけた高坂は、好奇心で一杯の瞳を重箱に向ける。柊は重箱を俺の机の空いたスペースに置くと、ふふんと高慢な笑みを浮かべた。
「今日は手巻き寿司セット」
 柊は言いながら、重箱の蓋を開けていく。中には成程、ツナや照り焼き肉、卵焼き、胡瓜、ポテトサラダなどのたくさんの具と、焼き海苔、酢飯がそれぞれの段に詰められていた。
「本格的だな」
 俺が言うと、柊は満足そうに頷いた。
「昨日のがあれでしたからね。これぐらいして貰わなきゃ。先輩も食べますか?」
 柊は重箱をにこやかに覗き込んでから、俺に訊ねる。俺は嬉しそうな柊を見て微笑んで、首を振った。
「いや、あんまりお腹空いてないから」
「大丈夫ですか? 体調が悪いとか……」
「いや。波多野のは単に脳みそ使わずにずっと寝てたからだよ」
 俺の代わりに高坂が柊に答える。柊は高坂を見遣ってから、心配そうな顔つきで俺に視線を戻した。
「寝不足ですか?」
「まあ、そんなとこ」
 柊がてきぱきと焼き海苔に酢飯をよそって、具を選ぶ様子を見つめて俺は答えた。
 弁当箱に目を落として、小さく息を吐く。気は進まないけれど、少しくらいは何かを口にしていた方が良いだろう。そう思って箸を取ってご飯を掬った。
 俺がご飯に手をつけたのが横目に入ったのだろうか、柊の声がすぐに聞こえた。
「大丈夫ですか? あんまり無理しないで――」
 そこで不自然に柊の言葉が遮られてすぐに、ぼと、と床に物が落ちた音がした。
「えっ」
 高坂の呆然としたような声が耳を打つ。その声に眉をひそめて、おかずから目を離して隣を見ると、柊が俺に向かって倒れかかってくるところだった。
 俺は慌てて箸を放り投げるように机に置いて、倒れてくる柊を受け止めた。自分にもたれかかる柊の身体が小刻みに震えている。
「柊?」
 柊の足元には、柊が作ったばかりの手巻き寿司が一口もかじられることなく落ちている。がくがくとだんだんと震えが大きくなる。覆いかぶさるように覗き込むと、目を一杯に見開いたまま青白く固まっている柊の顔があった。
 ざわり、と背筋を撫でていく悪寒が、柊を取り巻く空気の中に確かにある。先程まで明るかった教室が、一段照明を暗くしたかのように陰った。
「波多野君、これ……」
 桜井の声が聞こえて顔を上げると、クラス中の人間が顔を俯けて凍えているように自分の両腕を抱いていた。前を向くと、高坂も同じように顔を青ざめさせて柊を見つめている。
 時が来たのだ。
 そう冷静に頭の中で答えを出す自分がいた。
「柊! 立てるか!?」
 柊は俺の問い掛けに口を開けるけれど、そこから声は出てこなかった。柊のいつもは茶色い毛先が、じわじわと白く変化してきている。
 それを見た俺は、柊を抱え上げた。
「波多野君!?」
 驚きの声を上げる桜井の横をするりと抜けて走り出した。
 時間がない。一刻も早く神野の元へ行かなくては、柊が死んで≠オまう。
 泣きたくなるような不安に駆られながら、柊を抱えて気の遠くなるような道のりを必死に走った。

 

 

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