◆二十七◆

 

 日が落ちて夕闇がやってくる。
 俺が神野の屋敷に駆け込んでから、六時間が経った。神野は一度もこの部屋に顔を見せていない。きっと準備を進めているのだろう。
 柊はあの後、何度かの波を迎えながらもすべて持ちこたえた。柊は落ち着く度に俺に向かって、刀をいつでも抜けるようにしていて欲しい、と告げた。俺はその度に首を横に振りたくなる自分を叱咤しながら頷いた。
 眠る柊から顔を逸らして息を吐き出す。開け放した障子にもたれかかって、庭を見つめた。
 こめかみを押さえて目を閉じると、どっと疲れが押し寄せてくる。瞼越しに月の光を感じる。微かに聞こえてくる柊の寝息を聞くともなく聞いていると、遠くから規則的な足音が聞こえてきた。
 反射的に目を開けて音のする方へ視線を遣ると、神野が腕を揉みしだきながらやってくるところだった。
「準備できたのか?」
 そっと声を掛けると、神野は俺へ視点を合わせてゆっくりと頷いた。
「何時、何があっても対処できる。そちらの方はどうだ?」
「今は寝てる。さっき、また野狐がきたみたいで――苦しんでたけど、持ちこたえたみたいだった」
「最初の発作≠謔閧熏唐ュなっているか?」
「……かなり」
 俺が呟くと、神野は疲れたように息を吐き出した。
「回数を追うごとに酷くなってる。最初は目を見開いて震えて、後は毛先が白くなるくらいだったのが、今は目を開けていても焦点が合ってないしものすごく苦しそうに呻いてる。それに、髪も全体的に白くなってる」
 神野は俺の前に腰を下ろして、もう一度嘆息する。近くで見ると、珍しく疲弊した顔つきだった。
「疲れてるのか?」
「当たり前だろう。何時間かかったと思っている」
 俺の問い掛けに、神野は面倒そうに答える。それから柊を振り返った。
「野狐になるかもしれないと分かっていながら生きてきた心地は、どんな苦しみだったのだろうな……」
 ぽつりと零した神野の言葉に俺は一瞬だけ固まって、それから目を伏せた。
 自分が人間ではないと知りながら、柊は生きてきた。尻尾の数が増えだして、柊はどう感じたのだろう。尻尾が九本になったときのことを考えたとき、柊はどんな思いを抱いたのだろう。どんなに大きな恐怖が彼を襲ったのだろう。
「私にはその気持ちは解からない。自分が人間ではない気持ちなど――そんなものを考えていたら、私は何もできなくなる。私の存在価値はなくなる」
 そっと目を上げると、厳しい横顔の神野がいた。その厳しい眼差しは、もう柊には向けられてはいない。ただ、夜空に輝く月に向けられていた。
「響。お前は長い間、苦しんできた。物の怪に絡まれて、自らの命を狙われて、自らの母を失って、自らの友を操られて……私はお前を守りたい一心でお前に守り≠施したが、それでも私はお前の気持ちを解かっているわけではない。私には一生、解からない」
「神野は、解かりたいのか?」
 思わず俺が訊ねると、神野はすっと口元を引き締めて目を閉じた。静かな空間を月の光が照らす。神野はゆっくりと目を開けると、月を映し出す池の水面に目を落とした。
「解かりたく、ないな」
 静かに告げるその声が、凛とした強さを纏っていた。俺はひとつ頷いて、柊を振り返った。
「解かってしまったら、お前が澄花にしたように、湖塚柊にしたように――そして私がお前にしたように、不用意に情を移してしまうことになるだろうから。これ以上は許されないだろう、私には」
「神野は俺に情を移したこと、間違いだと思うのか?」
「そうだな。間違いだった」
 神野は間髪入れずに答えたけれど、それから少し間を取って付け加えた。
「だが、良い間違いだったと思う」
 その言葉に驚いて神野を振り返る。神野は優しく目を細めて俺を見つめていた。その瞳に俺は微笑んで言った。
「間違いに、良いも悪いもあるのか?」
 神野は軽く肩を竦めてから、空を仰いだ。
「苦しみを苦しみだと認識したとき、人は弱くなる。私は弱くなりたくない。だから苦しみを苦しみだと思わない。たとえ今日、お前が死のうとも、湖塚柊が野狐に堕ちて私がそれを滅そうとも、それによってお前に恨まれようとも。私は淡々と、普段どおりに、これからも生きていく」
 神野の重い一言一言に、俺はただ頷き返す。
 神野は珍しく饒舌に語る。それが決意のように。それが自分への言い聞かせのように。
「喜びを喜びだと認識したとき、人は強くなる。けれどそれが失われたとき、人は立ち上がれなくなる。喜びを知った後にそれを奪われれば、人は闇を知る。だが私は闇を知らない。今までずっと知らずに生きてきた。きっとお前が死んだなら、私は闇を知るだろう。けれど、それもきっとすぐに癒える」
 神野に視線を送ると、神野は酷薄な表情を浮かべていた。
「お前が死ねば、私は身体を取り戻すのだ。お前が死ねば、私が施した守り≠ヘ解かれる。そうすれば懸けていたものも私に戻ってくることになる。つまり、お前が死んだとき、私は神気に頼らずに私の姿を取り戻すことになる」
 知らなかった、という言葉は声には出さない。きっと今まで俺にこれを伝えなかったのには、理由が合ったはずだからだ。
 きっと神野は、神野の身体が戻る方法を俺が知ったら、それを実行すると思ったのだろう。そしてそれを、完全には否定できない自分がいた。これをあの日――桜井にとり憑いていたアイツに襲われた日に聞いていたら俺はどうしただろう? 俺の盾となって守ってくれた本当の母のことも、波多野の両親のことも、俺は何も考えずに、何をしたか分からなかった。
「私はそれを理由にして、お前を失った闇を晴らすだろう。自分の身体が戻ってきたのだと、自分に虚しく言い聞かせながら――これは逃げだろうか?」
 神野はそこで初めて、俺に問いかける。俺は少し考えてから、口を開いた。
「逃げかもな。でも、悪いことじゃないと俺は思う。逃げて何が悪いんだ? 自分を守ろうとして、何が悪いんだ? 逃げることは悪いことじゃない。ときには休憩だって必要だろ?」
 微笑んで告げると、神野は辛そうな瞳で、けれど微笑んだ。
「そうか。だが、戻れない人間はどうすれば良い? 逃げて、そのまま逃げ続けても良いのか?」
「……それは自分で考えることだろ」
「確かにそうだな」
 静かに神野が呟いて、それから再び柊を振り返った。
 もう柔らかい笑みは消し去って、目の前にあることから逃げない強い瞳を浮かべている。そして小声で、そっと呟いた。
「きた」
 神野がそう言った途端、静かに眠っていた柊が目をかっと見開いて、咆哮を上げた。

 

 

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