◆二十二◆

 

 柊を見た俺が最初に思ったことは、学校に来ていたのかということだ。その次に思ったことは――柊には申し訳ないけれど――また騒がしくなりそうだなということだった。
「見てくださいよ、これ! ありえない、ありえない、ありえないありえないー!」
 柊は俺の前の席の椅子を勢いよく引くと、そこにどかっと座りこんだ。
「僕が台所に立とうとしたら、あいつの方から弁当作ってやるって言うから任せたのに! 騙されたー!」
 本当に悔しそうな顔で、柊は地団駄を踏む。教室中の視線が柊に向いていた。
「柊、とにかく落ち着いて――」
「うわっ。これは酷いな……」
 俺の台詞を遮って、重箱の中を覗き込んだ高坂がぽつりと零した。俺もその声に促されて柊が抱える重箱を覗き込んで、絶句した。
 中には出し巻き卵が十切れほどと、胡瓜とレタスが生野菜のまま入っていた。柊は俺が見ていることに気が付いたのか、ぱかぱかとすべての段を開けてみせた。それぞれの段には、あろうことか一段目とそっくり同じものしか入っていなかった。
 確かにこれはありえない。
「ご飯すら入ってないんですよ! 何なんですか、これ。これでどうやって食べろっていうんですか? ご飯ぐらい入れてよ! しかもサラダにするならドレッシングぐらい入れてよ! 何なんですか、これ。おかしいですよね、頭おかしいですよね!? 悔しくて涙出てくるんですけど」
 柊は言うと、潤んだ瞳を手で押さえた。
「神野はこれがデフォルトだから……」
 慰めにならない慰めを口に出して、柊を見つめる。俺の隣では高坂が「デフォルト……」と力なく呟いていた。
「神野さんお手製のお弁当なの?」
 ひょっこりと柊の後ろから興味津々といった表情を浮かべて顔を出した桜井は、重箱の中身を見てその表情のまま固まった。柊はあからさまに眉をひそめて、けれどすぐに何かに気付いたように桜井を見上げた。
「神野透を知ってるの?」
 純粋な疑問だけを乗せた声音に、桜井は固まっていた表情を溶かして優しく微笑んだ。
「ちょっとお世話になったことがあるの」
「お世話?」
 柊は鋭い視線を桜井に送ってから、少し首を傾げて俺を見つめる。きっと何かに気が付いたのだろう。俺は小さく頷いてから、柊に向かって弁当箱を差しだした。
「好きなの取って良いよ。おかずでもご飯でも」
 柊はきょとんと眼を見開いてから、瞬く間に笑顔になる。
「いいんですか? ありがとうございます」
 無駄に高級そうな箸箱から箸を取り出した柊は、おかずには目もくれずご飯を取り分け始める。高坂は、今度は焼きそばパンの包みを開いてかぶりついていた。
「いやー、すごい人だね。その神野さん=H」
 高坂はちょっと笑いながら、柊が出し巻き卵を食べる様子を眺める。その瞳が優しく細められていて、高坂には柊くらいの弟がいるのだろうかと直感で思った。
「確かにすごい人だよね。神野さんは」
 桜井は近くの席に腰を下ろしながら、苦笑を浮かべていた。
 俺は黙々とご飯を食べている柊を見つめて、それから口を開いた。
「つかぬ事を訊くけど――柊。神野に出し巻き卵とサラダが好きだって言ったか?」
 柊は「え?」と言ってから、視線を宙に漂わせて考える素振りをみせた。
「言ってないですよ――あっ。待ってください。サラダが好きとは言ってないんですけど、胡瓜とレタスは好きだって言いました。あと、卵焼きより出し巻き卵の方が好きだって言ったかな。あとはお菓子が好き――洋菓子が特に」
 桜井が誰からかもらってきたらしい余ったドレッシングを柊に渡す様子を眺めながら、俺は「やっぱり」と一人思っていた。
「だからだよ。その重箱の中身は」
 俺が言うと、全員が一斉に俺を見つめた。いきなり注目を浴びたことに居心地の悪さを感じながらも、俺は続ける。
「柊の好物を作ってやりたかったんじゃないのか? 神野は」
 柊は俺の言葉を聞いて、まごついた様子で重箱を見下ろした。
「……でも、だからってこれは……」
「ああ。確かにこれはちょっとな……」
 柊に賛同しながら、頬杖をつく。
「多分、今日屋敷に帰ったら洋菓子が用意してあると思うよ。俺は」
「してそうだねー」
 桜井が俺の台詞に同調して頷く。
「……そんなこと、あいつはしないと思いますけど」
 柊は唇を突き出して言うと、ドレッシングが掛けられた胡瓜をぽりぽりと食べだした。
 神野は意外と優しい人だ。柊に対して無下に接することを神野はやめたらしい。それなら、この重箱の中身が嫌がらせであるはずがない。柊のために好物を作って、柊のために家には常備されていない洋菓子を買ってくる。それくらい、神野は簡単にやってのける。それくらい、神野は柊を心配している。
「そう言えば、あいつから伝言なんだけど」
 柊は思い出したように桜井を横目で見つめる。
「たまには屋敷に寄れって」
 桜井はびっくりしたように瞠目すると、
「分かった」
 と、まるで神野に対して言うかのように嬉しそうに言った。
 桜井に物の怪が取り憑いていたときにはあんなに冷酷だったのに、桜井が桜井澄花≠ノ戻った今、神野の態度は軟化した。桜井が神野を撫でても――これは神野が子どもの姿だったときに頻繁に見受けられた光景だ――神野は嫌な顔はしていたけれど、その手を振り払ったりはしなかった。これは神野から聞いた話だけれど、桜井が本気で神野を「命の恩人」だと思っているらしいことが神野に伝わってきたときに、無愛想に振る舞うことに罪悪感を覚え始めたそうだ。
「あと、響先輩にもありますよ。友達と遊ぶのもいいけど屋敷に寄って手伝いもして欲しいってあいつが言ってました」
 柊の目が自分に向けられたことに気がついた俺は、軽く頷いて答える。柊は俺を探るように見つめてから、俺の隣で焼きそばパンを頬張っている高坂を胡散臭そうに見やった。
「あいつが言ってる友達って、この人ですか?」
 柊は無遠慮にも高坂に向かって指を指す。あまりにも失礼なその態度にも、高坂は怒るでもなく嬉しそうに笑顔を浮かべた。
「波多野、俺のことちゃんと友達って思ってくれてるんだ」
「えっと、高坂……」
「高坂って言うんですか」
 人の良さそうな高坂の微笑みは、柊の鋭い言葉にも揺るがない。高坂は柊に向かって頷いてから「これからよろしくね」と言ってのけた。

 

 

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