◆二十三◆

 

 昇降口で靴を履き替えていると、桜井の弾んだ声が聞こえた。
「あっ。湖塚君、もう待っててくれてるよ」
 桜井の声にちらりと目を上げてみると、桜井が出入り口近くで待っている柊に向かって大きく手を振っていた。肝心の柊はというと、桜井が思いっきり手を振っているのに絶対に気が付いているはずなのに、つんと顔を背けている。
 二人の頑なさ――桜井は何が何でも柊と親しくなろうとしていて、柊は頑として桜井を認めていないらしい――に俺は溜め息をひとつ零した。
「……何て言うか、桜井も桜井だけど湖塚も湖塚だよね」
 俺の隣で靴を履き終えた高坂は、苦笑交じりで桜井と柊を交互に見つめる。そういう高坂も、柊に不躾な態度を取られてもめげていないのだから、俺から言わせてもらえれば「高坂も高坂」なわけだけれど。
「そういえば、ひとつ思ったんだけど」
 昼休みのやり取りを思い出していた俺は、ふと動きを止めて高坂に顔を向けた。
「高坂って、弟とかいるのか?」
 何気なく訊ねた俺の言葉に、高坂は表情を固くした。それに驚いた俺が瞠目していると、次の瞬間には高坂の顔はいつもどおり柔らかなものに変わっていた。
 一瞬のうちの変化に、勘違いだったのかと思う。けれどあの瞬間、はっきりとした空気の重さが高坂の周りにあったようにも感じられて、ひとえに自分の見間違いだとは思えなかった。
「いや、いないよ? 俺、一人っ子だし」
 高坂はスポーツバッグを肩に掛け直しながら、微笑んで答える。そのいつもどおりさに、何か違和感を覚える。けれどそれを問い質すこともできず、俺は頷いた。
「そっか――ごめん」
 知らない間に零れていた謝罪に、俺自身が狼狽してしまった。
「えっと、その……」
 言葉を継ごうにも、続きが出てこない。どうしたものかと焦っていると、ふっと隣で噴き出された気配がした。反射的に隣を向くと、肩を震わせて笑いを堪えている高坂がいた。まじまじとそれを見つめていると、高坂が俯いたまま軽く手を上げた。
「――ごめん、笑うつもりじゃ――」
「……でも俺には思いっきり笑ってるように見えるんだけど」
 冷静に告げると、高坂は一層肩を大きく震わせる。そんな高坂から目を離して前を向くと、すでに桜井が柊の隣に立って一緒になって待っているのが見えた。
 桜井は柊に笑顔で何事かをずっと話し続けている。柊は俺と目が合うと目線だけで「早くきて」と訴えていた。俺は苦笑して軽く頷いてから、やっと笑いが治まったらしい高坂に目を遣った。
「ごめん。波多野が狼狽えてるところなんて初めて見たからさ。っていうか、なんで謝んの? 波多野は何も悪いことしてないじゃん」
 高坂は何気ないことのように言って、俺の肩を軽く叩いた。その様子に不自然なところは見受けられなくて、やっぱり俺の勘違いだったのだろうか、とぼんやりと思う。
「俺さ、一人っ子だし弟か妹が欲しかったっていうのはあるけどね」
 高坂はもう前を向いて歩き出している。その背中がどこか寂しく見えたのも、きっと俺の勘違いだと――そうであって欲しいと思った。
「そっか」
 ぽつりと呟いて、高坂の背中を追う。高坂は振り向いて俺に向かって小さく笑いかけた。
「もう、遅いよー」
 桜井の明るい声に迎えられて、はっと我に返る。桜井と柊を見下ろして、ぎこちなく微笑むと、二人とも微かに顔を険しくした。
「じゃあ、俺はこれから部活だから」
 高坂は桜井、柊、俺の順に見渡すと、バイバイと手を振る。
「サッカー頑張ってね」
 桜井はにっこりといつもの明るい笑みで高坂に手を振り返す。その隣で柊は、面倒そうに高坂を見つめていた。
「また明日」
 俺は高坂に向かって小さく頷く。高坂も俺に向かって笑顔で頷き返した。その笑顔に、その背中に、その周りの空気に、もう違和感はなかった。
「よし! 高坂も送り出したし、それじゃあ早速神野さんのところに行こうか」
 にこにこと上機嫌に笑って、桜井は柊と俺を交互に見遣る。柊はさらに面倒そうに、鬱陶しそうに溜め息を吐いた。
「別にあいつの言うことに従わなくていいのに」
 柊はきつい瞳で桜井を射抜く。けれど桜井はそれに気付いているのかいないのか、笑顔のまま歩いている。
「私は自分の意思で神野さんに会いに行くんだよ? だって私が最後に神野さんに会ったのって、始業式の日だったんだもん。だから強制されて会いに行くわけじゃないよ」
「ふぅん」
 桜井の真面目な返答に、柊はもう心ここにあらずといった感じで宙に視線を漂わせている。真面目に相手をしていたら桜井が壊れてしまいそうだ。
「あのさ、柊。どうして桜井にそんな態度取るんだ? 桜井が何かしたわけじゃないんだろ」
 桜井が何も言わないのなら、俺が言うべきことじゃない。それは分かっているけれど、さすがに柊のこの態度はやり過ぎだ。そう思って柊を見下ろすと、柊は傷ついたように大きく瞳を見開いた。そのまま柊は悲しげな顔になって俯くと、すたすたと歩いて行ってしまった。
 その後ろ姿を暫く見つめて、
「あの、俺、変なこと言った?」
 と、おずおずと桜井にも視線を投げて訊ねてみる。桜井は俺と目を合わせると苦笑いを浮かべて、困った様子を見せた。
「えっと……変じゃないかもしれないけど、何て言うのかな……」
 桜井はぼそぼそと独り言のように呟く。それに俺が首を傾げると、桜井は小さく息を吐いてから声を落として言った。
「嫉妬だよ」
 桜井が囁いた一言に、一瞬にして俺の思考回路は停止した。
 嫉妬ってあの嫉妬だろうか。妬みとか、憎みとか、そういう負の感情の、嫉妬?
「……なんで俺が柊に嫉妬されるのか分からない」
 淡々と呟くと、桜井は大げさに首を振る。
「じゃなくて、私に嫉妬してるの」
「……なんで柊が桜井に嫉妬するのか分からない」
「波多野君って鈍いよね……」
 しみじみと言われた俺は、さすがにむっとして桜井を見下ろす。けれど桜井はそれについてまったく気に留めていないらしく、柊の背中を見つめて続けた。
「湖塚君って波多野君に懐いてるでしょ? だから私とか高坂とか、多分神野さんもかな、とにかく波多野君と仲良くしてる人が嫌いなのよ。一人占めしたいんじゃないかな」
「……言っておくけど、柊は男だし、俺も男――」
「もう! そういうんじゃないのよ。何て言うの? ほら、小さい子どもがお母さんを取られたくないのと一緒。他の子に優しくしたり、近所のお母さんと話し込んだりすると子どもってすぐにやきもち焼くでしょ?」
「つまり俺は柊にとってお母さんだって言いたいのか? なんか、すごく嫌なんだけど」
「なんで? そんなこと思うなんて湖塚君、可愛いじゃない」
 桜井はにこにこと言う。そして思いついた様子で付け加えた。
「可愛いって言ったら、神野さんも可愛いよね」
 その桜井の発言に唖然とする。
 可愛いって、あの神野が?
 そう思っているのがそのまま顔に表れたのだろう。桜井は楽しげに笑い声を上げた。
「だってぱっと見ただけじゃ神野さんって人間関係淡泊そうなのに、波多野君のことになると必死になるんだもん。可愛いじゃない。……そう言っちゃうと、波多野君も可愛いってことになるんだけどね。うん、波多野君もすごくかわい――」
「やめて、本気で」
 桜井の台詞を遮って、力なく声を出す。この年になって女の子から可愛いだなんて言われたくはない。
 大きく溜め息を吐いていると、もう随分前を歩いていた柊が突然くるりと振り返った。
「もう、のろいなぁ! 早く来てよ! あっ。先輩はゆっくりでも大丈夫ですよ。僕が合わせますから」

 

 

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