◆一◆

 

 新学期が始まって二日後。午前中の二時間を景気良く使って、入学式を終えた新入生との対面式を終えた生徒一同は、それぞれのクラスに向かって廊下を移動している真っ只中だ。
 俺――波多野(はたの)(ひびき)もご多分に漏れず、廊下を移動している。新しい自分の教室に向かって。
 ずっと苦手だった人混みも、今では苦手意識が薄くなっている。それは去年、桜井(さくらい)と一緒に下校するために、大勢が行き交う廊下で、ホームルームが長引く桜井のことを何十分も待っていたからだろう。
 それでも俺は今、早くこの廊下を抜けて自分の教室へ帰りたいと切実に思っている。周りのゆっくりな歩調にじれったさを感じながら、出来る限り早足で歩く。するとぽんっと軽く肩に手が置かれて、俺は諦めの気持ちで心を一杯にしながら、その手の主に向かって振り返った。
「波多野く――って、どうしたの?」
 振り返った俺の表情が相当酷かったのだろうか、手を置いていた彼女――桜井澄花(すみか)はぎょっとして言った。
「なんだ、桜井か……」
 桜井の顔を見てほっとした俺は、胸に手を当てて息を吐きながら呟いた。
「誰だと思ったの?」
 そんな俺の様子を見つめて、桜井は不思議そうに訊ねる。それからすぐに何か思い当ったことがあったのか、あっ、と小さく声を出した。
「熱いラブコール受けてるもんね、波多野君」
 桜井は苦笑を浮かべながらも、どこか面白そうにそう言った。俺はその口調に顔を歪めると、再び歩き出して、出来る限りの速度を保ちながら言う。
「そういう紛らわしい言い方はやめて――」
「どうしたんですか? 響先輩」
 突然自分の真横で聞こえた声に身体をびくつかせて、勢いよく隣を見下ろすと、満面に笑顔を浮かべた湖塚(こづか)(ひいらぎ)が大きな瞳で俺を見上げていた。
 彼の無邪気な瞳を見た途端、条件反射で「捕まった」と感じながら、俺は小さく息を吐き出した。
 この俺の溜め息をどう解釈したのか、湖塚は反対側に陣取って俺の隣に並んでいる桜井を片方の眉を引き上げて見つめる。
「彼女が何かしたんですか?」
 湖塚にあからさまに冷たい視線を向けられた桜井は、怒ることもせず何とも言えない苦笑を浮かべて俺を見上げた。
「違う。桜井は何もしてないから。それより湖塚――」
「柊です」
 話題を変えようと俺が話し始めると、湖塚は遮って訂正した。ここ二日、このやり取りを飽きもせず続けている。
 このまま意地を張って湖塚と呼び続けても、湖塚は毎回こうして訂正を入れるのだろうか――とそう考えると、とてつもなく疲れた心地になった俺は、この場ではあえて名前を呼ばずに乗り切ることにした。
「とにかく、自分の教室へ戻らなくても良いのか? 一年生の教室は4階だろ――4階はとっくに通り過ぎたけど」
 俺が名前で呼ぶことを意図的に避けたのに気付いていないのか、湖塚はにっこりと微笑みを浮かべた。
「僕のクラスはA棟じゃなくてC棟ですよ。A棟の4階は普通科の一年の教室ですから」
「へえ。C棟ってことは、湖塚君は美術科なの?」
 桜井は、俺を挟んで湖塚に訊ねた。
 この高校には普通科、美術科、体育科、看護科がある。したがってこの高校はかなり広い敷地を所有している。A棟は普通科クラスと職員室と室内体育館が、B棟には体育科クラスと看護科クラス、さらに室内プールがある。そして最後にC棟には、美術科クラスと音楽室、美術室、図書室があるという風に、棟によって科がはっきりと分かれているのだ。桜井と俺は普通科の文系クラスなのでA棟に教室があり、さらに三年生の教室は2階に設定されている。
 そしてA棟の室内体育館で対面式を終えた桜井と湖塚、俺はそれぞれの教室に向かって歩いているはずなのだ。
「そうだけど。何か文句ありますか?」
 桜井の純粋な疑問をどのように受け取ったのか、湖塚はA棟2階の廊下を何の疑問も感じない様子で歩きながら、少し挑戦的に答えた。
「別に文句ないよ。ただびっくりしただけ。だって湖塚君、昨日もA棟にいたからてっきり普通科なのかと」
 湖塚の挑発的な態度にも桜井は朗らかな笑顔で返す。その返答に湖塚は少し面食らったようだった。
 俺は二人のやり取りを横目で見ながらも、腕時計へ目を走らせて隣でゆっくりと歩く湖塚に危機感を覚えた。いや、本来なら俺じゃなく湖塚が危機感を抱くべきなのだけれど。
「湖塚、ここにいて大丈夫なのか? もうすぐ三時間目が始まるけど」
 俺がそう言うのにも、湖塚はにっこりと微笑んで事もなげにこう言った。
「あっ。そう言えばまだこれから授業があったんでしたね。でも多少遅れても大丈夫です」
「いや、大丈夫じゃないだろ」
 呑気に笑顔を浮かべる湖塚に冷静にそう返すと、湖塚は見るからに悲しげな表情を浮かべた。
「入学早々、遅刻すると面倒だと俺は思うよ。早くC棟に戻って――特にC棟はA棟から遠いんだから――授業を受けてきた方が良い」
 湖塚の表情は気にせずに俺が続けてそう言うと、湖塚は納得したのか頷いてから、肩を落として踵を返した。
「分かりました。じゃあ、戻って授業受けてきます」
 湖塚はそう言って数歩進むと、ふと思い出した様子で立ち止まって振り返った。
「お昼休みに遊びに行きますね。それと僕のことは柊≠ナす」
 通りすがる生徒が思わず見止める程の愛らしい笑顔を浮かべて湖塚はそう言うと、じゃあ、と軽く手を挙げて走って行った。
 その後ろ姿を見つめていた桜井がぽつりと一言、
「なんか私、敵対心でも持たれてるのかな……」
 と呟いたのが、俺の耳まで届いた。

 

 

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