◆二十七◆

 

 暗闇の中でもがく自分の腕だけが、ぼんやりと浮かび上がる。辺りを見渡してみても何もない空虚な空間で、俺はたった独り何かを求めて腕を伸ばし続けている。
 何を求めているのか自分でも定かではなくなってきたその時、不意に前方に見慣れた着物姿の男が浮かび上がった。俺はその男に向かって手を伸ばすと、叫んだ。
「神野っ――!」

 

 自分の叫び声が聞こえた途端、俺ははっとして目を見開いた。
 自分の声で目が覚めるなんてことは今まで一度として経験したことはなかったけれど、なんだか奇妙な感覚に捕らわれるものなんだな、とまだ覚醒には程遠い頭の中で考える。まだ頭は半分夢の中にいて、でも目の前に広がるのは夢ではなく現実の景色で――。
 そう、現実の神野の屋敷の――。
 そこまで考えがたどり着くと、俺は勢いよく体を起こした。
 間違いない。目の前に見えるのは馴染みある神野の屋敷の一室だ――俺の記憶が正しくて、そしてこれが夢ではないのなら。
 ここで神野と毎日のように話をして、お茶を飲んで、この部屋を出たすぐのところの縁側に座って月を見上げた、懐かしい場所。
 しかし、主であるはずの神野の姿どころか気配すらこの部屋の中からは感じ取れない。
 俺が意識を失ったとき、それからその後、一体何が起こったのだろうか。あのとき神野は自分の命を(なげう)って、俺を助けようとしてくれた。そうだ、神野は桜井に命を差し出そうとしていて、俺はそれを止めようと必死になっていたのに、あろうことか意識を手放してしまった。どうしてあのとき、あのタイミングで意識を失ってしまったのか。情けない自分が心底嫌になる。
 絶望に捕らわれながら両手で頭を覆って俯く。そのまま髪を乱暴に掻き毟ってから、とにかく自分が置かれている状況だけでも把握しなくては、と思い直す。ここが神野の屋敷だとしてもそうじゃなかったとしても、とにかく俺はできる限りのことをしなくてはいけないのだから。
 そう心に決めて、ゆっくりと部屋全体を見渡そうと横を向いた瞬間、俺は凍りついた。
 そこにあったのは、俺が寝かされていた布団と丸切り同じ布団で、その上であろうことか桜井が眠っていた。
 どきりと心臓が大きく脈打つのを感じて俺は咄嗟に体を飛び退かせると、ご丁寧に近くに置かれていた小刀を掴んで構えた。けれどその小刀を持った途端、体中に違和感が駆け抜けた。
 込められていたはずの神野の気が一片たりとも感じられない。まさか本当に神野は――そこまで考えて、俺は力強く頭を左右に振りながら不吉な思いを文字どおり頭から振り払った。
 心を落ち着かせて、慎重に彼女を観察する。桜井は昏々と眠り続けていて、起きる気配がまったくしない。それを注意深く見つめていると、先程まで桜井から感じていた禍々しい殺意を、今目の前で眠る彼女からは一切感じられないことに気付いた。
 とうとう混乱し出した頭を抱えて、俺は途方に暮れる。馴染みある一室で、自分の母親を殺したヤツとこうして布団を並べる状況がまったくもって理解できていない。
 どうすればこの状況を打破できる? 神野の気が抜けた小刀をしっかりと握りしめ、桜井から目を離さないまま、俺は考え込んだ。
 注意深く桜井を観察しながら、彼女が覚醒しないことを願って考えを巡らせる。まずはこの部屋から脱出するべきだろうか。それとも障子を開けて外の様子を確認するのが先だろうか。でもそうしたら桜井から目を離すことになってしまう――。
 ぐるぐると巡る考えに気を取られていた俺は、障子が音もなく開かれるまで誰かがこの部屋に入ってきたことに気付けなかった。自分の後ろから聞こえた畳の上を引き摺るような重い布の音に、俺は振り返れずに体を硬くした。
「起きたのか」
 けれど次の瞬間聞こえてきた声に、その言葉の紡ぎ方に、俺は心が緩むのを感じた。この声は、この声の掛け方は、紛れもない神野だ――。
 そう思うと目の端にじわりと涙が込み上げてきて、俺はそれを振り払うように勢いよく振り返って――そして固まった。
「どこも異常はないな?」
 俺が固まったままなのには気にも留めず、目の前の人物はそう言った。
 俺は言葉を失った代わりに、必死で頭を回転させる。神野からは聞いたこともない。記憶を手繰り寄せてみても、一度として聞いたことはなかったけれど、でもこれは間違いなくそういうことだろうか。
「声が出ないのか?」
 何も言葉を紡ぎだせない俺を見かねて彼は――俺の目の前に立っている子どもは、怪訝そうに柳眉を寄せた。
 目の前に佇む子どもを穴があくほど見つめる。さっきは神野だと信じ切って振り向いたけれど、思い返してみれば聞こえた声は確かにいつもの神野の声より少し高かった。言い草が同じだけで、声の高さが丸切り違う。
 と言うことは、まさか神野に子どもがいたのか? しかもこんな大きな子供が。でも俺はそんな話、一度も聞いたことはない。
 目の前の子ども――おそらく十二、三歳というところだろう――は神野にそっくり、いや、生き写しと言っても過言ではない。小さな顔の中に繊細なパーツが美しく配置された整った顔立ち。その身体から発せられる悠然な空気。
 どれを取って見ても、神野を子どもにしたような感じ――とそこまで考えて、俺の頭に不吉な予感が過った。
「――か、神野?」
 その予感をそっと口に出しながら、違うことを心から祈って問いかける。すると大きすぎる着物を身に纏った彼は、当然とでも言うように頷いて見せた。
 それから彼は俺を怪訝そうに見やってから、ああ、と小さく零す。
「この姿のことか。お前は見慣れないだろうな。私は自分の姿は見えないから何ともないが――視界が低くなったことには不便を感じている」
 淡々と当たり前のようにそう告げる子ども――神野らしい――は、床の間を背に座ると肘掛に肘をついてゆったりと頬杖をついた。それから俺と桜井へ順番に視線を投げると、小さく息を吐きだした。
「彼女が起きるまで待つか、それとも先に話を始めるか――どちらがいい」
 呆然と小さな神野を見つめていた俺は、話し掛けられて我に返る。そして助けを求めるように視線を逸らしてしまった。目を逸らした途端、小さな神野が眉根を寄せたのが横目に入った。
「響」
 到底子どもの体から出たとは思えないほど、凄みの利いた声が部屋に響く。
「目を逸らしても現実は変わらない」
 神野が諭すようにそう言うのが耳に入る。
 この言い方、この部屋に満ちる空気。間違いなく神野のものなのに、目の前にいる彼はあまりにも小さい。
 俺は絶望に似た暗い感情に囚われながら、逸らした視線を戻す。真っ直ぐ俺を見つめる小さな神野が目に入ると、口を開いた。
「ごめん。俺は知らなくちゃいけないよな――全部、話して欲しい」

 

 

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