◆二十八◆

 

 俺の静かな声が部屋に響いた途端、隣に敷かれていた掛け布団がもぞもぞと動いた。俺はそれに気付いた瞬間、思わず身体を退く。顔を引き攣らせながら彼女が目覚めたのを確認すると、素早く小さな神野へと視線を走らせた。
「心配するな。彼女は桜井澄花だ」
 神野は俺の視線を受け止めると落ち着かせるようにそう言った。けれど俺は、神野の答えに首を捻る。どういうことだ? 彼女は最初から桜井澄花≠カゃないか――。
 疑問符を頭に浮かべながら、神野から桜井へ視線を移す。目に入ったのはきょとんとした表情を浮かべた桜井だった。
「わ、私――?」
 桜井はそう言うと、途方に暮れた様子で自分の両手を真上に挙げて、それをしげしげと見つめ出した。それからちらりと俺の方を向くと、驚いた様子で俺をじっと見つめた。
「神野、どういうこと?」
 俺は桜井へ訝しげな視線を送り続けながら、神野に訊ねた。
「順を追って説明した方が良いだろう。――澄花、起き上がれるか?」
 神野は最初の一文は俺へ、そして最後の一文は桜井へ向けてそう言った。桜井は突然自分に掛けられた声に飛び跳ねると、勢いよく布団から身体を起こした。そしてしげしげと神野を見つめると、頷いた。
 俺はそれを驚きとともに見つめる。以前、神野が桜井に向けていたのは怪訝な、そして少し疎ましいというような感情だけだった。けれど今神野が向けているのは、憐れみとそして――神野にしては珍しいことに――桜井を気遣うようなものだ。
「まずは響。お前のことだ」
 俺が驚きを隠さずに神野を見つめているのにもかかわらず、神野は淡々と話し始めた。その様子はやはり俺の知っている神野そのもので、たとえ子どもの姿でも心に安心感がゆっくりと広がっていくのが分かった。
「お前の血が物の怪に力を与えることは前にも話したな? だが私は、それ以上のことをお前に話さなかった」
「桜井が言ってた俺の母親のことか?」
 俺が言いながらちらりと桜井へ視線を送ると、桜井は困った様子であたふたと俺と神野を交互に見つめた。
「そうだ。お前の母親はお前を守るために死んだ。お前に守り≠施して」
 神野は淡々とそう告げる。突いていた肘を下ろすと、忙しげにそのまま髪をかきあげた。
「お前の母親は恐らく、物の怪を可視することはできなかったはずだ。だが、強い力を持っていた。それはお前に匹敵するほどの力だろう。それ故に物の怪の存在を感じ取ることができ、知ったのだろう。自分の息子が――お前が――強い力を持つ物の怪から命を狙われていると」
 桜井は神野の言葉にびくりと身体を震わせて、怯えた瞳を俺へ向けた。
「お前が殺されることだけは食い止めようと、お前の母は身体を張ってお前を守った。その結果、自らの命と引き換えに俗に言う守り≠お前に施すこととなった」
「その守り≠チて、一体何なんだ?」
 俺がいてもたってもいられずに口を挟むと神野は嫌な顔一つせず、俺を真っ直ぐ見つめて口を開いた。
「それはとてもあやふやで、あるようでない、そんなものにすぎない。実際お前は、命を奪われることはなくとも、物の怪に手を出されることはあっただろう。完全に物の怪を遮断できるほど強くはない。しかし、守りが施される対象者に対して、その近親者が自らの命と引き換えに守りを施した場合にだけ、それからの十五年間、対象者を物の怪から守り抜くことができる――決して殺されないように」
「それを、俺の母親が俺に施したってことなのか……?」
「そうだ。おそらく、お前の母親は守り≠ニいうことを詳細ではないだろうが、ある程度は知っていたはずだ。でなければ守りを正確に施すことはできない。それにお前に施された守りは完全なものだった。でなければお前は、当の昔に物の怪から殺されていただろうから」
 神野は静かにそう言うと、俺の言葉を待つように沈黙した。
 そんなに突然、守りだとか言われてもはっきり言ってぴんとこない。けれど俺の母親が――実の母親が、十五年前の俺の誕生日に亡くなったことは事実で、そして今神野が言ったことも事実なのだろう。
「……神野は気付いてたんだな。俺の母親が、俺を守って死んだこと。俺の今の家族は、本当に血の繋がった家族じゃないってこと」
 俺が神野を見据えてそう訊ねると、神野は少し躊躇った後、頷いた。
「お前を初めて見たときに、お前に術が――守り≠ェ――施されていると気付いた。それによってお前が近親者を失っただろうことにも、お前の持つ珍しい力の血にも」
「じゃあどうして、初めて会ったときに言ってくれなかったんだ? お母さんは俺のせいで死んだんだって、どうして言ってくれなかったんだよ。そしたら俺は――」
「知っていれば『俺は』どうしたというんだ? 私が真実を話せば、お前は自分が許せなくなるだろう。自分のせいで母親を死なせたと、自分を責めるだけだろう。挙句の果てに、お前は大切にしている今の家族のことも考えず、死を選んだだろう」
 神野は俺の言葉を遮ると、少し声を荒げた。俺が図星を突かれて言葉を失うと、神野が畳みかけるように続ける。
「お前は解かっていない。死を選ぶということは、母親の命を無駄にすることだと。お前のために命を懸けた母親の気持ちはどうなる? お前に生きて欲しいと願った母親の気持ちを無にするつもりか」
 子どもの姿のはずなのに、そう言う神野が大きく見える。俺がそのまま何も言えなくなるのを見て取ると、神野は声を静めて続けた。
「私はお前を一目見て、十五年間に亘ってお前を守り続けたそれが、後少しで消滅するだろうことにも気が付いた。だから私は遠くからお前を見守ろうと決めた。しかし、それから数ヶ月した頃、お前が物の怪に襲われた。本心では、私はなるべくお前と関わりたくはなかった。見守ると決めただけで、お前を助けると決めたわけではなかったからだ」
 神野は俺を真っ直ぐ見つめて、嘘偽りのない言葉を紡ぐ。それは俺にとって心を貫くような事柄だったけれど、神野が誠意をもって話してくれているのが伝わってきて、それ以上何も言えなかった。
「だか襲われているところを見て見ぬふりはできなかった。私はお前を助け、そしてお前は私に頼ってきた。最初は嫌だった。だが、やると決めたからには全力を掛けてお前を守ろうと自分自身に誓った。――それから何事もなく時は進んでいったが、ついに私が恐れていたモノが現れた」
 神野はそこで言葉を切ると、桜井を見つめた。それにつられて俺も桜井へ視線を移すと、桜井は苦悩に満ちた表情で項垂れた。
「お前が初めて彼女を物の怪から守った後、私と会ったのを覚えているか?」
 神野は今度は俺へ視線を移すと、少し首を傾げて問うた。それに俺は間髪を入れずに頷くと口を開いた。
「覚えてる。神野が『何かあったか?』って俺に訊ねた日だろ」
 今度は神野が俺の言葉に頷くと、桜井へ視線を戻しながら続きを話し始める。
「あの日、お前を見た私はついに来たと感じた。お前から禍々しい気配を――それも上級のそれを感じたからだ。お前の傍にいた者がお前の母親の命を奪った物の怪だろうと直感した」
 神野はそう言うと、そっと目を伏せた。
「だが私の直感は外れた、とそう思った。お前が彼女を初めてここへ連れてきた時、私は奇襲をかけたのだ。我ながら卑怯なやり方だとは思ったが、お前の母親の命を奪い、さらにはお前の命すら奪おうとする物の怪だ。それぐらいしても構わないと思った」
「――ちょっと待って。じゃあ、あのとき桜井を包み込んだ光と風は神野の術だったのか?」
 俺は驚いて、目を伏せる神野を見つめながら思わず口に出していた。
 確かに今思い返してみれば、あの状況は神野が術を発動させたときのそれとまったく同じだ。あのとき気付けなかったことの方が不思議なくらいだった。
「そうだ。私はあの時この世とあの世から存在を抹消する術をかけたが、彼女は消滅しなかった。だから私は自分の直感が間違っていたのだと考えた」
 神野は言葉を切って、長く息を吐き出した。そして一度瞳を閉じてから、もう一度ゆっくりと開けて桜井を見据えた。
「だが彼女には不可解な点が多かった。微かな力しか持たないのに物の怪から襲われる。私が探りを入れた気配すら感知することができる。そして何より、彼女が物の怪に襲われ、お前の前に現れた時期だ。お前に施された守りがもうすぐ消滅するというそんな時期に、タイミングよく彼女は現れた。けれど、彼女が私の術で消滅しなかったことから桜井澄花は間違いなく人間だと確信した。――そうだろう」
 神野は長くそう話した最後、桜井に向けてそう問う。すると桜井は、戸惑いながらもしっかりと頷いた。
「私は人間です」
 桜井から小さく零れ出た声は、弱々しく震えていた。
「じゃあ、さっきのは? 俺の母親を殺したって笑ってたアイツは……?」
 桜井がそう言うのを聞いて、俺は間髪を入れずに神野に訊ねた。
 桜井が人間なら先程まで目の前にいたあの物の怪は何だったのか、とそう考えると神野の言葉がまったく理解できなかった。
「端的に言えば、桜井澄花は憑依体質だ」
 神野は俺を落ち着かせるようにゆっくりとそう告げた。
「澄花、君は物の怪を見ることはできないな」
 神野の問い掛けに、桜井は小さく頷いた。
「だが微かに力がある。それが物の怪の波長とよく合い、物の怪が憑依するのに一番良い状態が常に保たれている。だから彼女は、お前を狙う物の怪に利用されたわけだ」
 神野の冷静な言葉に愕然として桜井を見つめた。桜井自身は、少し落ち着きを取り戻した様子で、真っ直ぐ神野を見つめていた。
「つまり彼女の体はあの日、物の怪に襲われる直前にあの物の怪に憑依されたということだ。そして彼女に憑依したアイツは、物の怪が桜井澄花を襲うように仕向けた――上級ならば他の物の怪を抑え操ることは容易いからな。そしてお前にその場を救ってもらい、自分もお前と同じ境遇なのだと信じ込ませた。お前の守り≠ェ解ける今日まで、お前に怪しまれずに傍にいるために」
 神野は両手を組み合わせて少し間を置く。その間、沈黙だけが部屋に流れていた。
「響、お前の予測はあながち間違っていなかったということだ。澄花は『お前を狙う物の怪に利用されて』いたのだから」
 神野がゆっくりと紡いだその言葉に俺は驚いて目を見開いた。けれど俺が疑問を口に出す前に神野が再び口を開いた。
「――お前が考えそうなことくらい、私には解かる。だがお前は間違いなく被害者だということを忘れるな。そして同時に、澄花も被害者だ」
 神野は諭すように俺と桜井に向かってそう言うと、口を閉じた。
「今、桜井の身体にアイツはいないんだよな?」
「今はいない。彼女は正真正銘の桜井澄花だ。――私があの物の怪を抹消したから」
 神野は俺の確かめるような問い掛けに答えると、少し疲れた表情を見せた。
「お前の命を守ると約束させる代わりに、私の命を差し出すと言ったあの時、アイツは油断したらしい。それまで巧妙に自分の姿を隠していたあの物の怪が一瞬だけ澄花の身体を離れた。その瞬間を狙って、私は術をかけたのだ。しかしアイツは抵抗して、私はあの世からの存在を抹消することはできなかった。私が施せたのはこの世からの存在を抹消することだけだ」
「でもアイツは、もうこの世に来ることはできない」
 どこか沈んだ表情を浮かべる神野に向かって俺が静かにそう言うと、神野は俺を見て目を細めながら頷いた。
 それから俺は桜井へ視線を移す。申し訳ない気持ちが心の底から湧きあがってきて、俺はその衝動のまま頭を下げた。
「桜井、ごめん。変なことに巻き込んで、危険な目に遭わせて、本当にごめん」
 俺がそのまま頭を上げられずにいると、桜井の声が頭上に降ってきた。
「ううん。私こそごめんね。私、憑依体質だなんて知らなくて――。でも、その物の怪が身体に入ってからのことは何となく覚えてるの。心の中に醜い気持ちが生まれて、それが向けられてるのが波多野君だって、私はずっと前から気付いてた。何度も伝えようとしたんだけど、でも誰かが私を押さえつけてるみたいに自由がきかなくて、できなかった。ごめんね、私がもっと強かったら――」
「違うよ。桜井は何も悪くない。悪いのは俺だから。辛い思いさせてごめん」
 俺が慌てて顔を上げてそう言うと、桜井が涙を流しているのが目に飛び込んできた。俺はそれを見ると、ハンカチをポケットから探り出して桜井の手に置いた。俺は桜井がハンカチを頬に当てたのを見届けてから、近くに置いてあった小刀を持ってそれを少し掲げると、神野に向かって言った。
「神野、この小刀なんだけど。神野の気が一切しないんだ」
 この小刀からは、いつも神野の気が感じられた。けれど今は、普通のどこにでもある小刀と同じで、何の気も感じられない。だからこそ、この部屋で目が覚めたとき神野に何かあったのでは、と咄嗟に考えてしまったのだ。
「それはあの場にずっとあったからな。あの場の殺気に負けて、私が込めていた気も失われたんだろう」
 神野は簡単だ、とでも言うように小刀を指してそう説明すると、すべて説明し終えたかのように隙間から見える空へ視線を投げた。
 それが神野の終了の合図だと分かって、俺は腑に落ちない気持ちに満たされる。まだ説明していないことが一つ、残っている。
「それで神野、最後に説明して欲しい。その子どもの姿は、アイツと何か関係があるのか?」
 俺は神野を空から地上へ引き戻すべく再び訊ねる。すると神野は一瞬答えに詰まったように無言になると、深呼吸をした。
「あの物の怪と直接的には関係ない」
「じゃあなんで子どもになってるんだよ? アイツに何かされたんじゃないのか?」
 俺が畳みかけるようにそう問いつめると、神野は困ったように目を伏せて小さな手で髪をかきあげた。大きな着物の袖が神野の小さな顔を覆い隠してしまう。神野は袖の向こうから、くぐもった声で答えた。
「この姿は、お前を守るためだ」
 神野の小さな声が耳に届いても、すぐには意味が分からなかった。隣で桜井が息を呑む気配がして、けれど俺はぼんやりと神野を見つめていた。
「既に言ったように、お前の母親が死んだお前の誕生日から数えて十六年目の今日、お前の守り≠ヘ解かれた。お前を守るものはなくなったということだ。あの物の怪が言っていたことはあながち間違いではない」
 神野は手を下ろすと再び肘掛に悠然と肘を置いた。けれど、どこか落ち着かない様子だった。
「私はあの物の怪を抹消した後、今までの守りの代わりになる守り≠お前に施した。神気――つまり実質的に仕事を行うのに必要な力を失うことは避けたかった。だから私は神気の代わりに自分の身体を懸けて術を施したのだ。私の身体に宿る力を――神気とは別物だが――お前へ渡し、お前の母親が施した守りと種類は違うが守り≠施した。私の守りは私自身の力が強い分、以前のものより強固だ。お前はもう二度と、物の怪に傷つけられることはないだろう」
 神野は俺と視線を合わせないようにして、そう言い切った。
「術を施した後、身体を懸けたために老いるかもしれないと覚悟したが、逆に幼くなってしまった。まあ、私としては老けなくて満足している」
 神野は彼らしくもなく少し冗談めかしたようにそう言うと、頬杖をつく。そしてガラス戸の向こう側に広がる庭を見つめるように、そっと顔を横へ向けた。
 俺はそれを呆然としながら見つめている。思考が追い付かなかった。
 どうして神野はそこまでしてくれたんだろう。俺には何の価値もない、ただ物の怪に対してだけ価値が認められるような人間なのに、どうして神野はそこまでして俺を守ろうとしてくれるんだ? 神野だけじゃない。お母さんだってそうだ。命まで懸けてまで俺を守ってくれた。
 でも果たして俺に、そんな価値があるんだろうか。ただの無力な人間にすぎない俺に――。
「何で? 何でそこまでしてくれるんだよ。俺は神野やお母さんに守られるような価値なんて持ってないのに。どうして――」
 言葉が勝手に溢れ出す。けれど最後まで言い切ることができずに、俺は感情の波に捕らわれて顔を両手で覆って俯いた。
 ここまでしてくれても、俺は何も返すものがない。神野に対しても、お母さんに対しても――。
 波多野君、という桜井の小さな慰めの声が耳に入る。けれど俺はそれに応えることも出来なかった。
「あの――神野さん? ちょっといいですか?」
 項垂れたままの俺の耳に、遠慮がちな桜井の声が届く。俺はぎゅっと両手を握ると顔を上げたけれど、神野の顔も桜井の顔もまともに見ることは出来なくて、そのまま畳に視線を落とした。
「どうして私はあの日、憑依されたんでしょうか?」
 ちらりと桜井が俺の方へ顔を向けたのを視界の端で捉える。けれど俺は畳目から目を離さずに、耳だけを傾けた。
「どういう意味だ?」
「どうしてあの日だったんでしょう? 私がその物の怪ならもっと前から憑依して、もっと昔から波多野君と仲良くしておきます。その方が神野さんみたいな人が現れたときにリスクが減ると思うんです」
 桜井がそう口に出すと、神野が困ったように溜め息を吐くのが聞こえた。
「澄花が憑依される少し前に、あの物の怪は響の居場所を突き止めたんだろう。響の心の闇を伝って」
 神野が呟いた言葉が、俺には理解できなくて視線を上げる。隣では桜井がそっと首を傾げたのが目に入った。
「随分昔だが、私が言ったことを覚えているか? 『生きているということを感じて、活き活きとしろ』と言ったことを」
 俺はそう言われて、ゆっくりと記憶の綱を手繰り寄せる。そして月が怪しく池に浮かぶ夜のことを思い出した。
「太陽と月は対、それぞれ陰陽に表されている。そしてお前は、陰に当たる月から安らぎを見出してしまった。つまりそれはそのまま心の隙間、闇へと繋がる。ちょうどお前の守りが消えかかっていたことも手伝って、その闇は血眼になってお前を探していただろうあの物の怪の元へと届いた。それを手繰り寄せて、アイツはお前の居場所を知ったというわけだ」
 神野は淡々とそう言うと、もう一度息を吐き出した。俺はそれを聞いて、身体の軸が壊れたようにぐらりと自分の身体が揺れるのを感じた。咄嗟に畳に手をつくと、桜井が俺を心配したのか、俺の顔を軽く覗き込んだ。俺はそれに気を留める余裕すらなく、一つの言葉を頭の中で繰り返していた。
 すべて自分が招いたことだったんだ。桜井のことも、そして神野のことも、すべて俺自身が――。
「それは違う。もとはと言えば私が悪かったのだ」
 神野は俺の考えを断ち切るように、はっきりとした声で言った。俺はその声を受け入れられずに呟いた。
「何で。神野は悪くな――」
「私が悪かったのだ」
 神野は俺の言葉を途中で遮ると、強く首を振った。
「私はお前に何一つ話さなかった。この件になるといつも私は遠回しな言い方をして、お前に気付かれないように、悟られないようにと、自分で制御をかけていた。もっと早くに、お前が心の隙間を作る前に、私が話していたら――」
「違う。アイツに襲われなくても、俺の身体にこの血が流れる限り俺は物の怪から襲われる。それに変わりはないから、神野は悪くない」
 今度は俺が神野の言葉を遮って、強い調子でそう言い切った。けれど神野は依然として首を横に振り続けた。
「私はお前を守ろうとして、お前の守ることを怠ったのだ。私はお前の身体より、お前の心を大事にした。真実を知ればお前が苦しむだろうと。今まで孤独に生きてきただろうお前を傷つけるだろうと。それを思うと言い出せなかった――けれどそれは、お前の命を疎かにすることに繋がっていると私は気付けなかった」
 神野は目に涙を溜めて顔を歪ませていた。苦悩と悲しみに満ちた小さな神野の顔がゆっくりと下を向いた。
 そんな神野の姿を見るのは初めてで、それを見ていると心が沈んだ気持ちに覆われていく。俺のことよりも神野のことの方が気掛かりになって、神野の顔を上げさせなくては、と咄嗟に思った。
「でも神野は俺を助けてくれたじゃないか。自分の本来の姿を失ってまで、俺を守ってくれたじゃないか」
 俺はゆっくりと神野に歩み寄ってその前に座る。そして小さな子どもになった神野の背中をさすった。
「――でも神野。俺はやっぱり、自分が神野に身体を懸けてまで守ってもらうに値する人間だとは思えない。だから心苦しいんだ」
 さする手をゆっくりと止めて俺がそう言うと、神野はそっと顔を上げて俺を見つめた。その表情は神野には相応しくない悲嘆に似たようなものだった。俺はそれを見て取ると、最後に心を込めて言葉を紡いだ。
「だから扱き使って欲しい。子どもの身体で、不便なこともきっと出てくるだろ。だから何でも良い、雑用でも買い出しでも、何でも良いから俺に言い付けてくれ。今までどおり、仕事も手伝わせて欲しい。今まで以上に役に立つように努力するから――だから俺を扱き使って、少しでも神野への恩を返させて欲しい」
 神野は俺の言葉を聞き届けると、一瞬だけ深く眉間に皺を刻んでから、強く瞳を閉じて微かに頷いた。

 

 

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