◆二十六◆

 

「なっ――!?」
 桜井から発せられた言葉に、立ち上がって抗議の声を上げようとする。けれど止血したとはいえ、今までに大量の血を失った体はすぐにふらりと倒れ込んでしまった。
 神野はそれを見て素早く俺へ駆け寄ると、俺を塀へともたれ掛けさせた。
「神野、そんなことしないでくれ。俺は死んでも良いから、だから――」
 俺は屈んだ神野の着物の袖を必死で掴みながらそう訴える。けれど神野は強い力で俺の手を払うと、再び立ち上がって桜井と対峙した。
「物の怪の言うことなど、信用できない」
「そう。なら別に良いのよ。さ、私を消せば?」
 桜井はふてぶてしい表情を浮かべて、降参の意を表すつもりなのか、両腕を軽く上へあげる。彼女を油断のならない瞳で見つめていた神野は、桜井の様子を見て一瞬だけ訝しそうに目を細めた。
「消さないの? それとも消せないの?」
 一向に動こうとしない神野に向かって、相手を挑発するような妖艶とも言える笑みを浮かべて桜井は言った。
「もちろん後者よねえ。私を抹消すれば、響が無事ではいられないものね」
 優雅に笑い声をたてながら桜井は右手でそっと口元を隠す。俺はぼんやりとした視界の中でそれを捉えた次の瞬間、後姿の神野を強く見つめた。
「神野、聞いてくれ! ソイツの言ってることなんて気にするな! たとえ俺は死んだとしても、別に構わない。ソイツが消えるなら、消えてなくなるなら、俺はそれで良いんだ」
 桜井へ固定されている神野の視線を、神野の意識を、なんとか俺へ向けさせようと叫ぶ。視界の端がだんだんと色を失ってきて、世界がモノクロになる。そんな中、俺の視線の真ん中、まだ色が失われていないその場所に悠然と立つ神野が、俺の声を聞きつけてゆっくりとこちらを振り返った。
 神野の表情を見て、桜井が言ったことがあながち嘘ではない――それどころか、真実を突いているだろうことがはっきりと分かった。それが俺にまではっきりと伝わってくるほど神野の表情は苦しげに歪められていた。
 けれどそんな神野の表情を見てでも、俺は思う。たとえ桜井が言ったことが本当だとしても。桜井の存在が抹消されて、そしてすぐにこの命が消え去ろうとも、俺は後悔なんてしない。
 母親を殺したと笑いながら言ったアイツ。次は俺を殺すのだと楽しげに告げたアイツ。一人の人を殺すということに良心の呵責すら感じない――いや、良心というものを持たない残酷な物の怪に、絶望すら抱く間もなく殺されただろう母親を思うとやり切れない気持ちが募っていく。
 十五年前のあの日、殺されたのがお母さんじゃなく自分だったなら――。
「私はね、力を手に入れられるなら別に響じゃなくても良いのよ。神野、貴方は響とは違うけれどかなりの力を持っていることは分かってる。響を救いたいのなら、響の代わりに私に殺されて頂戴」
 甲高く笑い声を上げながら、桜井がそう言うのが思考の狭間を縫って俺の耳元まで届く。
 どうして俺が殺されなかったのだろう。どうしてお母さんだったんだろう。俺がコイツに殺されていればお母さんは死ぬことはなく、お祖父さんもお祖母さんも家族揃って幸せに暮らせていただろうに――。
 だから俺は死んだって構わない。今更、失われた命が――母の命が戻ってくるなんて思ってはいないけれど、アイツが死ぬなら、アイツが俺の目の前で消えてなくなるなら、この命がすぐに消え果ようとも本望だと思える。
「馬鹿なことを考えるな!」
 ふっと我に返ると、目の前に神野の顔があった。その顔は悲しげに歪められていて、瞳は潤んですらいる。神野は俺の両腕を強い力を込めて掴むと、揺さぶった。
「お前を守るために死んだ母親の命を無駄にする気か!」
 俺を正気に戻そうとするかのように、神野は手に強い力を込める。
「……俺を守るため――?」
 神野の言葉を小さな声で復唱すると、神野は重々しく頷いた。
「そうだ。お前を守るため、お前の母親は死んだ。その命を、その気持ちをお前は無にしようとしている。しっかりしろ、響。お前は生きるためにここにいる」
 そう言うと、神野の頬に一筋の線を描きながら透明な滴が零れ落ちた。
 それが涙だと気付くまでに数秒かかった。神野が流す初めての涙。それは辺りに満ちた殺気を浄化するかのような清らかなものだった。
 神野は次々に流れ出すその美しい涙を拭うことなく俺をじっと見つめる。そして俺の手へ自分の手を軽く重ねると、静かに言った。
「お前は生きなくてはならない――お前の母親のために、お前の家族のために――そして、私のために」
 神野はそう言い終えるとぎゅっと力を入れて俺の手を握った。それから立ち上がると俺の頭に手を置いて、俺の髪を不器用にぐしゃぐしゃと撫でる。まるでそれが最後だと告げるかのように。
「やめろ」
 小さく呟いた声は、声にすらならず空気に溶けていく。神野の着物の袖を掴もうと伸ばした手は、何も掴めずに宙に浮いた。
 神野は俺の手を不思議そうに見つめてから、俺の瞳を見つめて頷いた。
「やめろ、神野――」
 口は開かれても、そこから漏れるのはただの吐息だ。喉が締め付けられたように声が出ない。必死になればなるほど、締め付けられていく喉に、狭まっていく視界に、苛立ちと恐怖を感じながら俺は身を翻した神野の後姿を見つめていた。
「答えは出たの?」
 待ちくたびれた様子で不満げな声をあげた桜井は、ゆっくりと自分へ歩み寄ってくる神野を見つめて声を出す。
「――誓えるか、響を守り抜くと。何時、何処にいようとも」
 後姿では神野の表情は見えない。けれどその声はどこまでも冷静で、そして心強いいつもの神野の声だった。
 桜井は神野の答えに満足げに微笑むと、言った。
「誓っても良いわ」
 桜井がそう言った次の瞬間、辺り一帯は眩しい光に包まれて、次いで身が吹き飛ぶかというほどの強風が襲った。俺は残った力をすべて注ぎ込んで前へ進もうと、神野の元へ行こうと試みる。けれどそれも空しく、光と風に包まれて俺の意識は深い底へと吹き飛ばされた。

 

 

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